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左脚の捻挫もすっかり治った2週間後、私はコナン君から奇妙なメールを受け取っていた。
安室透とは今後一切関わるな、とびっくりマークも付けて送られてきたそれは、彼の焦りを如実に物語っていた。どうやら彼の降谷さんへの疑いは、決定的なものになったらしい。

……本当に何をやったんだ、あの人。

「ギルバート」
「はい、さくら」
「こんなメールを受け取ったんだけど、返信しなきゃ駄目かしら」
「当たり障りのない返事をするのは、さくらの得意分野のはずですが」

可愛くない。このところ口にする皮肉もエッジが効いていて、本当に可愛くない。

「降谷さん、こんなことを言われちゃうなんてどんな怪しい行動をしたのかしらね」
「彼は先日、私にこう指示をされました。ベルツリー急行で開催されるミステリートレインというイベントに参加したいから、ネットオークションで参加パスを落札してくれと」
「ということは、そのミステリートレインで決定的な何かがあったんでしょうね。そのとき彼、あのスマートウォッチは持って行ってた?」
「いいえ、今回は危ない仕事だから私は連れて行かないと言われました。さくらを巻き込みたくないからと」

私は虚を突かれたような思いで目を瞬かせた。危ない仕事に向かう自分の心配よりも、こちらを心配してくれるなんて。

「……馬鹿ね。危ない仕事なら、尚更あなたが居てくれた方が良かったでしょう」
「公安警察には、“個人責任の原則”があります。自分の工作や違法行為が明るみになった場合、周囲を巻き込むことのないように一人で罪を背負い込む。それが彼らのプライドですから」

つまりは違法行為、あるいはそれに近い行為をベルツリー急行でもはたらいてきたということだ。そりゃあコナン君に警戒されるのも無理はない。

「取り敢えずあの小さな探偵さんには、解った、けど巻き込まれたくないから余計な情報は与えないで、とでも送っておこうかしら」
「中々上手な責任逃れだと思いますよ。それでなくてもあなたは情報を知りすぎている」
「はいはい、もうちょっとオブラートに包んでおきますよっと」

コナン君へは快く了承した、という旨を送り、私は中断していた自分の作業を再開した。

夕方になって、私は自分のスマホに“安室さん”からラインが届いていたことに気付いた。本文を読むと、明日の晩に一杯どうか、というお誘いだった。私はスケジュールを確認し、了承の返事を送る。
退院して以来、初めて顔を合わせることになる。また捜査の協力を依頼されるのだろうか、と予想しながら私は自嘲した。

コナン君には都合のいい返事をしながら、その日の内に裏切るような真似をしている。
私も二重人格の素質があったのね、と笑いながら、晩御飯の支度をするためにキッチンへと向かった。



翌日、約束通りの時間に待ち合わせ場所で待っていた彼は、私を見つけて朗らかに笑った。今日の彼は“安室透”の日らしい。

「さくらさん、行きたいお店はありますか?行きつけのバーなどで構いません」
「えっ、私が決めちゃっていいんですか?情報提供の依頼かと思ってたんですが」
「今日は堅苦しい話は抜きにしましょう。快気祝いに奢らせてください」

毛利先生の事務所で事件が起きた時、そう約束したでしょう?そう言って彼は笑った。言われてみればそんなことを約束したな、と私はぼんやりと思い返した。それならば、と私は以前研究室のメンバーで行ったことのあるホテルのバーを指定する。

人気の少ない、落ち着いた雰囲気のバーは夜景がよく見えた。彼がカウンターチェアを引くのに合わせて腰を下ろす。
こんな風に紳士的に接する手が、罪に問われるようなことをしたのだろうか。
私がじっと彼の手を見つめていることに気付き、降谷さんは触ってみますか?と冗談めかして私に手を差し出した。

「面白味も無い、ごつごつした男の手ですよ」
「そうですか?私はあなたの手の温度、結構好きですけどね」

遠慮なく指先に触れ、その輪郭をなぞってみる。彼は私がそんな行動に出るとは思っていなかったのか、驚いて手を引込めてしまった。

「驚いたな。さくらさん、これまでもそうやって男を誑かしてきたんですか?」
「そんな暇も趣味もありませんよ。あなたの手に興味があるだけです」

犯罪と一口に言っても色々なものがある。人を殺すとか、物を盗むとか、ハッキングを仕掛けるとか、様々だ。けれどコナン君があれほど過剰に反応するということは、恐らく人殺し―――のように見える行為―――を、彼はベルツリー急行ではたらいたのだろう。

銃を握る、武器を構える。元々彼は警察官なのだから、何らおかしい姿ではない。けれどその正体を知らない人には、犯罪者のように見えても仕方ないのかも知れない。

「……ところで、さくらさんは何を頼まれますか?」
「実は、カクテルはそんなに詳しくなくて。おすすめがあれば教えてください」
「そうですね、僕はスコッチが好きです。ウイスキーなんですが、それでよければ注文しましょうか」
「ええ、じゃあそれで」

バーテンダーがカクテルグラスを差し出す頃には、降谷さんは逆に私の手を取っていた。

「僕が付けてしまった痣、綺麗に消えましたね」
「ああ、あのホテルの時でしたっけ。はい、もうすっかり」

ギルバートの正体を初めて彼に明かした時の話である。逆上した彼に手首を掴みあげられ、タイピングを行うのも難しいほど痛い思いをしたのだ。その跡もすっかり消え、今はもとの肌色に戻っている。

「あの日がまだたったの1か月前なんて信じられない。この1か月、予想外のことが多すぎて、1年くらい過ぎたような感覚がします」
「それはこちらの台詞ですよ。さくらさんといる時間は、密度が濃い」
「お上手ね。安室さんこそ、そうやって何人も女の子を口説いてきたんじゃないんですか」
「おや、気になりますか?」

降谷さんは穏やかな笑みを湛えたまま、私の反応を面白がっていた。チームラボとの展示会のあと、私のイヤリングを返してもらった時と同じ顔をしている。

「そういう訳では……。ただ、イヤリング一つ着けるのにも、遊び心を忘れない方ですからね」

あの時と同じようなことを他の女の人にもしているのだとしたら、相当な罪作りだ。女の敵だ。
彼は私があの夜のことを蒸し返すと思っていなかったのか、少し黙ってから私の頬に手を伸ばした。指の腹が頬を滑り、耳たぶを擽る。

「酷い人だ。覚えているのに、今まで知らん振りをしてきたんですか」
「酷いのはどっちですか。あの後まだ片づけが残っていたのに、顔が赤いぞって散々揶揄われたんですよ」
「それは光栄ですね。僕が仕掛けた悪戯であなたのすまし顔を崩せるというのは、気分がいい」
「悪趣味ね。言っておきますけど、私の照れた顔は高いわよ?」

だから今日は沢山高いお酒を御馳走してください、と言ってグラスを掲げれば、彼もカチンとグラスを合わせて微笑んだ。

「やっぱりあなたは、簡単には惑わされてくれませんね」
「やっぱり、とは?」
「体のどこに唇を触れるかで、その意味が変わるという話はご存知ですか?」

私は緩やかに首を振った。唇が愛情、手が尊敬を意味するとは知っているけど、それ以外にも意味があったとは。
降谷さんは得意げに人差し指を立てた。

「例えば髪は思慕、瞼は憧憬。頬は親愛の情を表します」
「ああ、海外では頬にキスはよく見かけますね」
「そして耳は、」

そこで彼はぐっと身を屈めた。彼の薄い青灰色の瞳が、翳りを帯びて私を射抜く。
私が反射的に身を引こうとしたのを許さず、彼は私の二の腕を掴んだ。

「誘惑。―――誘惑のキス、のつもりだったんですけどね」

そう言って彼は私の耳たぶを引っ張った。痛みなど感じなかったけれど、私はわざと大げさに痛い痛いと声を上げる。

……驚いた。一瞬、本当にキスでもされるのかと思ってしまった。
そんな雰囲気になる前に、彼が自ら空気を壊してくれて助かった。
彼のことは嫌いではないけれど、特別に親しい関係になるのは、今の私にはまだ怖い。

「そう言えば、明日から少しポアロのバイトを休むことになりました」
「あ、え、そうなんですか。その間は梓とオーナーだけになるんですか?」
「そうなりますね。店長は快く休みをくれましたけど、申し訳ないとは思っています」

本業の方が忙しいのだろう。けれどまだまだ学生の夏休みが続く時期で、ポアロも決して暇という訳ではない。

「それなら、私も臨時でバイトさせてもらおうかな。毎日って訳にはいかないですけど」
「さくらさんが?」
「ええ。実は以前、安室さんが急にお休みされた時、梓に頼まれてヘルプに入ったことがあるんです」

梓がお休みの時の手助けくらいは出来るだろう。それに何より、降谷さんの心配が一つ減るなら、これくらいお安い御用だ。
2杯目に頼んだミスティアを掲げ、私は微笑んだ。

「ポアロのことは私に任せて、安室さんは探偵業を頑張ってくださいね」
「まったく。あなたは本当に、味方にしておくと頼りになりますね」

彼もそう言ってクラシックの入ったグラスを持ち上げた。カチン、小気味いい音が鳴る。

「では少しの間だけ、留守を頼みます」
「はい、頼まれました」

こうして私は、翌日から期間限定でポアロのバイトに復帰することになった。
……復帰して早々面倒くさい案件を抱えることになろうとは、さすがに予想していなかったけれど。


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