17





覚醒して、最初に目に入ったのは真っ白な天井だった。予約していたホテルでも、実家でもない。ここは一体どこだろう。
ぼんやりする頭を押さえようと、私は右腕を持ち上げて。そこに繋がれている点滴の管に、唐突に現実を理解した。

ここは病院だ。コナン君が自分から誘拐犯について行って、挙句銀行強盗に拳銃を突き付けられるという失態を演じ、それを止めるために降谷さんが車をぶつけるという荒業をやってのけたのだ。そこから記憶がないと言うことは、私はその時の衝撃で意識を失っていたのだろう。
慎重に両手と両足を動かしてみる。腕にはこれといった違和感はなかったが、左足に鈍い痛みが走った。ギプスはないし捻っただけだろうが、とんだ災難に巻き込まれたものである。

私は身を起こして、ベッドサイドのヘッドホンに手を伸ばした。兎に角今の状況を確認したかった。眠っていたのがどれほどの時間か知らないが、ドイツへ戻る日も迫って来ていたことだし、あまりゆっくりもしていられない。
もう少しで手が届く、と言う時になって、病室のドアが静かに開いた。

「―――さくらさん」
「あ、」

一瞬言葉に詰まってしまったのは何と呼びかければいいのか解らなかったからで、つまり今部屋のドアを開けたのは二つの顔を持つ降谷さんだった。彼は私のベッド際まで来ると、苦しげに顔を歪めた。

「目が醒めてくれてよかった……。本当にすまない。こんなことになるとは思わなくて、君を危険な目に遭わせてしまった」
「……まったくだわ。これがスマートウォッチのお礼だと言うなら、随分手荒なお礼だわね」

わざと意地悪を言ってやれば、彼は言い訳もせずに頭を下げた。私はそのつむじのあたりを掌でぽんと叩き、快活に笑った。

「冗談です。今回の件で一番反省すべきはコナン君であって、あなたを恨むつもりはありませんよ。それより教えて欲しいんですけど」
「ああ、君が眠っていたのは1日とちょっとだ。ギルバートに聴いたが、今日ドイツに戻る予定だったんだろう?」
「えっ、そんなに時間経ってたんですか?急いで荷造りして空港に行かなきゃ!」

どうやら自覚していた以上に私の精神は疲弊していたようである。慌ててベッドから抜け出そうとした私を押しとどめ、降谷さんは落ち着け、と諭した。

「君のご両親に連絡を入れさせてもらって、フライトはキャンセルしてもらった。ドイツの研究センターと大学には、ギルバートが君の両親を装って連絡している」
「あ、あー……。ありがとうございます」

どうやら無断欠勤、無断欠席は免れたらしい。さっきまで母親がこの病室にいたらしいが、仕事があるからと出て行ってしまったようだ。

「降谷さん、うちの両親に会ったんですか?」
「ああ。車を運転していた僕が状況説明しない訳にはいかないし、平謝りしてきたよ」

君のお父さんには殴られそうになったけど、お母さんが止めてくれてね、と続けた彼に、その光景が目に浮かんで私はくすりと笑みをこぼした。ミーハーなうちの母親のことだ、降谷さんがイケメンだったから簡単に許したのだろう。

「それでその、左足の怪我なんだが」
「はい?」
「全治2週間の捻挫だそうだ。3日間は安静にしておいた方がいい」
「安静に、って言われても、私はドイツに戻らなきゃいけないんですけど」

一応、先日のチームラボとの展示会で大きな案件は終わったが、また2か月後には日本で大きな開発会議が行われるのだ。時間は1分1秒でも無駄にできない。
そこに、静かな男の声が割って入った。

「ハイ、さくら。降谷さんのスマートウォッチから失礼します」

随分久しぶりに彼の声を聴いた気がする。私はほっと頬を緩めて返事をした。

「ギルバート。あなたにも迷惑かけちゃったわね、ごめんなさい」
「いいえ、それが私の役目ですから。ところでドイツに戻る話ですが」
「うん?」
「“今まで彼女は3人分くらいの働きをしてきたのだから、近いうちに日本に戻る予定があるならそれまで日本に居たらいい”との伝言を、D.F.K.Iの所長とカイザースラウテルン工科大学の教授から預かっています」
「え」
「現在さくらのパソコンには48件の未読メールが届いていますが、うち32件がお二人からの“いいから休め”“無理するくらいなら日本に居ろ”との内容です。残りは仕事のメールですが」
「…………」

私は眩暈を覚えて頭を抱えた。たかが捻挫で過保護すぎやしないだろうか。ギルバートは一体何と言って2人に休む旨を伝えたのだろう。

ともあれ、思いがけない形で私は日本に滞在する期間を延長することになった。勿論パソコンを通じて大学の研究室には参加するし、D.F.K.Iに提出する論文も書き進めていく予定である。

「君は周りの人間に愛されているんだな」

降谷さんはそう言って笑っていたけれど、私の口からは苦笑いしか出てこなかった。
降谷さんはどうやら仕事に向かう前に寄ってくれたようで、去り際にまた夕方に来る、と言った。仕事は仕事でも、公安警察のものではなくて時間の自由の利く探偵業の方かもしれない。

「そういえば、毛利先生と娘の蘭さんが心配していたぞ。僕から君が目を醒ましたと伝えてもいいか?」
「ええ、お願いします」
「それじゃあ、また夕方に」

そう言い置いて彼は病室を出て行った。
同じ扉から予期せぬお客様が顔を見せたのは、それから30分後のことである。

*****

俺は杯戸中央病院に搬送されたさくらさんのお見舞いに、博士と灰原と連れ立ってやって来た。彼女が怪我をしてしまったのは、俺が無茶をして誘拐犯について行ったことが原因だ。そう思って少なからず責任を感じていたのだが、デコピンを一発くらっただけで彼女は怒りを納めてくれた。

「でも、あんまり無茶しちゃだめよ。蘭ちゃんだって心配するし、博士も哀ちゃんもわざわざ捜索してくれたんだから」

子ども扱いは相変わらずだが、忠告はもっともなので大人しく頷いた。
ふと目をやったサイドボードに剥かれた林檎が置いてあるのに気づき、添えられたフォークが2本であることで誰かが見舞いに来ていたのだと知る。

「あれ?さっき、誰かお見舞いに来てたの?」
「ああ、それ?実はさっき、沖矢昴さんがお見舞いに来てくれて」
「昴さんが?」

俺は目を丸くした。一体いつ2人は知り合いになったのだろう。

「前に博士の家にお邪魔した時、帰りにパスケースを拾ってもらったの。その時はちょっと怪しい人なのかなって思ったんだけど」
「怪しい人って、なんで?」
「なんでって……雰囲気?」

さくらさんは困ったように首を傾げた。一体どんな雰囲気で近寄ったんだ、あの人。さくらさんに警戒されるなんてよっぽどだぞ。

「でも、一昨日は博士や哀ちゃんと一緒にコナン君を探してくれたんだってね。そんなに悪い人じゃないのかも、とは思ったわよ」
「へえー……」
「それで、いつ退院できそうなの?」

横から口をはさんだのは灰原だ。いつの間にかガッツリさくらさんに懐いていて、俺が今回こんな形で怪我をさせてしまったことを誰よりも怒っていた。

「明日にも退院できるって。しばらく日本にいることになっちゃったから、また遊びに行ってもいい?」
「ええ!また脳のシナプスの二元論について話したいわ」
「お前ら普段一体どんな話してんだよ……」

呆れる俺の言葉は右から左へ流された。



1時間ほど居座って、俺達は帰ることにした。博士と灰原が部屋の外に出た時、さくらさんが俺を呼び止めた。
前を行く2人は、俺が室内に戻ったことに気付いていない。

「ねえ、コナン君」
「どうしたの?さくらさん」

こいこい、と手招きされるまま、俺はさくらさんの枕元に近付く。

「沖矢昴さんってさ」

先ほど話題に出た名前が出て、俺は何の疑いもなく続きを促した。
さくらさんは若干躊躇うように視線を泳がせたが、やがて決心したように口を開いた。

「FBIの捜査官―――なの?」

しかしそこから飛び出した言葉は、俺の予想をはるかに超える破壊力を持っていた。


[ 18/112 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]