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講演会の翌日。今回の事件の顛末を、私は阿笠博士に報告しに行くことにした。自分の手許にパソコンが無かったとはいえ、忙しい博士の手を借りてギルバートのサーバーにアクセスしてもらったのだ、報告義務はあるだろうと判断してのことだった。

ただし、公安警察が関わっていたことは全面的に伏せるように、と降谷さんには念押しされている。

「いやー、それにしても災難じゃったのう!まさか君の研究室の先輩が、誤ってギルバートのサーバーを消してしまうところじゃったとは」

つまり事件の筋書きはこうである。公安警察さえ脅かしたサイバーテロなんて初めから存在しなかった。あくまで有名な大学の研究室の学生が、後輩の出世を妬んで研究成果を盗み取ろうとしたと、強ち間違っていない形で物語は書き換えられた。
私としては、大畠先輩の研究者人生が永遠に終わってしまえばそれでよかったので、公安警察の酷い改竄ぶりにも文句は言わなかった。

「非公開の人工知能のことにも触れられていないし、調書を書いた捜査官はよっぽど優秀だったのね。さくらさんもお疲れ様」

淹れてくれたコーヒーをテーブルにセットしながら、哀ちゃんが私を労ってくれる。こんなに小さいのにしっかり気配りも出来る哀ちゃんは天使だと思う。

「そうね。若いのにとてもしっかりした刑事さんだったわよ」

恐らく彼の身分は刑事、もとい巡査部長や警部補クラスではないだろうが、建前上そう呼んでおく。

「若くてしっかりした男の刑事さんなんて、久しく会ってないわね」
「これこれ哀くん。彼らも頑張っておるんじゃよ」
「彼ら?」

揶揄うような哀ちゃんの言葉に、私は軽い驚きを覚えた。警察官と知り合いになる機会など、普通に過ごしていればそうそうないはずである。

「私達の傍には、しょっちゅう事件を呼び寄せる迷惑な探偵さんが居るのよ」
「それって毛利さんのこと?」
「違うわ、さくらさんもポアロで会ったでしょう?江戸川君よ」

はあ、と気の抜けたような声が漏れた。私がポアロで彼と会ったときは、別に事件の影もない穏やかな一日だった。蘭ちゃんも彼の事を頭がいい、と言っていたけど、探偵の真似事をやっているとは。

「彼と一緒に過ごしてると、毎日のように事件に巻き込まれるの。それで自然と刑事部の人とは顔見知りになっちゃってね」
「毎日、かあ……」

それはもう彼自身の存在がフラグなんじゃないだろうか。まさかとは思うけど、ポアロの皆を事件に巻きこんだりしていないでしょうね。今度梓に塩を撒くように言っておこう。

「さくらさんも命が惜しければ、あんまり江戸川君に深入りしない方がいいんじゃない?」

くす、と微笑みながら忠告する哀ちゃんは本気でそう言っている訳ではなさそうだったけれど、平和を愛する私は大人しく従っておこうと心に決めた。



しかし面倒事というものは、思わぬ方向からやって来るものである。

「あの、すみません」
「え?」

阿笠博士の家を辞した直後のこと、私は一人の男性に呼び止められることになった。眼鏡を掛けた細目の男性は、その手に私のパスケースを持っている。

「これ、あなたのじゃありませんか?さっきそこで落とされましたよ」
「えっ、あれ?本当ですね、ありがとうございます」

良く見ると、いつもバッグに括りつけてあるリールが切れていた。何かの弾みで落ちてしまったのだろう。
私がそれを受け取ると、男性は何かを言いたげにじっと私の顔を見つめてきた。

「本当に助かりました、それじゃ私はこれで」

男性にこういう反応をされたのは初めてではない。自惚れではないが、私はそこそこ男性に声を掛けられる頻度も高く、素っ気なく見えるように受け流す術は心得ていた。ついつい愛想良く接してしまい、ストーカー化した事例もあったのだ。
そうした過去の経験から、この時も私はそそくさと立ち去ろうと試みた。けれど私の魂胆を見抜いていたかのように、男性は言葉を継いだ。

「あなた、さっき阿笠博士の家から出て来られましたよね。博士のご親戚ですか?」
「え?いえ、違います。それが何か?」

あっ、と思った時にはもう遅かった。私はうっかり、彼の言葉を促すような質問をしてしまったのだ。

「いえ、僕も阿笠博士には度々お世話になっているものですから、もしご親戚なら挨拶をしておこうかと。失礼、僕は沖矢昴といいます」
「沖矢昴―――さん」

変わった名前だ。私が阿笠博士の家から出てきたところを見ていたのなら、彼はこの近所の住人ということになる。大学時代から数えると結構な回数で博士の家を訪ねてきたけれど、近所で沖矢なんて表札を見た記憶が無い。

「あなたは本田さくらさん、でしたね。ああすみません、定期券に書かれていたので」
「……ええ、申し遅れましたが私は本田さくらといいます。今後また、博士のお家でお会いすることがあればいいですね」

とにかく急いでいる、という空気を滲ませて、私はやや強引に彼との会話を絶ち切った。感じ悪いと言われるかも知れないが、私は彼の目が苦手だったのだ。初対面から不躾にこちらを探ってくるような、あの空気が居た堪れなかったのだ。

はっきり言って、面倒事の匂いしかしない。

(君子危うきに近寄らず、ってね)

私が肩を竦めた時、首元でヘッドホンが振動した。ギルバートからの通信だ。
私は何食わぬ顔でヘッドホンを着けた。

「ハイ、ギルバート。どうかしたの?」
「ハイ、さくら。早急にお伝えしたいことがありまして」

先ほど拾ってもらったパスケースですが、と言って彼は言葉を区切った。

「シール型の盗聴器が仕掛けられています。あなたがパスケースを落としたのも、恐らく彼が仕組んだものと思われます」
「…………。そう」

私は無言でパスケースを鞄から取り出した。入っていたICカードの裏側に、見覚えのない丸いシールが貼ってあった。
私はそれを剥がして、丁寧にタオルハンカチで包み込んだ。さらにそのハンカチを化粧ポーチの中に入れ、完全に外界から遮断する。

「捨てなくてもよろしいんですか?」
「持って帰って出所を探るわ。協力してね」
「解りました。ところで先ほどの沖矢昴ですが」
「もう何か掴めたの?さすがに仕事が速いわね」

私は足を止めることなく答えを促した。

「それが、他人には東都大学の工学部の院生だと自己紹介しているようです。デパートで爆弾魔による狂言騒ぎが起きた時に、居合わせた彼の知人にそう話している映像が見つかりました。ですが、東都大学の工学部の大学院に沖矢昴という人物は在籍していません」
「…………」
「さくらの同期や先輩でなくて残念でしたね」

コンピュータが皮肉を言えるということを、私はこの時初めて知った。

身元詐称をしている男に博士の家から出てきたところを追跡され、パスケースをすって話しかける口実を作られ、挙句に探るような目を向けられる覚えはない。
私はちらりと化粧ポーチに目をやった。

「ねえギルバート」
「はい、さくら」
「さっきの盗聴器だけど。やっぱり捨てた方がいいかしら?」
「その方が穏便に済む確率は高いです」

その答えを聴いて、私はちょうど目に入ったコンビニへつかつかと歩み寄った。外に備え付けられているゴミ箱に、さっきの盗聴器をハンカチから出して放り込む。精々雑音をBGMに昼寝でもしたらいい。

パンプスを鳴らしながらコンビニの前から遠ざかる私の様子を、盗聴器の向こうで腹を抱えて笑っている人間がいたなんて、この時の私は知る由もなかった。

*****

「……中々に頭の切れるお嬢さんだな」

打ち捨てられた盗聴器のデータを念のためにフォルダへ移し、俺はインカムに向かって語りかけた。

「俺の正体を最初から疑ってかかる嗅覚の良さも、素人にしておくには勿体ない」
「ハハハ!シュウイチ、お前の胡散臭い演技も中々様になってたぞ!」
「お褒めに預かり光栄だよ」

インカムの向こうでは、恐らく蒼い瞳がこの上なく愛おしそうに細められているのだろう。彼女は俺がストーカー予備軍ではないかと警戒していたようだが、それを言うならこの男の方がよほどストーカー染みている。

「まあ、盗聴器の出所を突き止められなくてよかったじゃないか!」
「そうだな。さすがにあのお嬢さんもFBIに探りを入れることはしないだろうが、俺がFBIであると周りに漏らされたら少々厄介なことになるんでな」

あのお嬢さんが最近、ポアロでバイトをしている“安室透”と行動を共にしていることは知っていた。安室透とは面識がある。俺が黒の組織に潜り込んでいた頃に、“ライ”と“バーボン”として出会ったのだ。

彼女が安室透の傍で一体どんな動きをしているのか探るため、こうして少々強引に接触させてもらったが、あの様子では簡単に尻尾を出すことはしないだろう。阿笠博士の家にはいくつも盗聴器を仕掛けているが、今日も彼女は“安室”のあの字も出さなかった。
俺はカラン、と気障ったらしくグラスを鳴らし、バーボンを一気に飲み干した。

頼むから厄介事に首を突っ込んでくれるなよ、と祈るような心持ちだった。


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