18.5





零さんと別れて私が向かった先は、実家ではなかった。

「おはようございます、赤井さん」
「ああ、来たか。おはよう」

私は赤井さんのいる工藤邸を訪れていた。蘭ちゃんと遊びに行く前までここに身を寄せていたので、大きな荷物や愛用のヘッドホンなど、必要なものは全て置きっぱなしになっていたのである。

充電が完了したコードレスのヘッドホンを定位置である首に掛けると、ようやく日常に帰ってきた気がした。そんな私に椅子をすすめて、赤井さんはお茶を差し出してくれた。

「ありがとうございます、いただきます」
「悋気持ちの恋人が、よくここに来ることを許してくれたな」
「あの人には、ここに来ることは話していません」
「ホォー、それはそれは」

バレた時が怖いな、と赤井さんは忍びやかに笑った。笑い事じゃありませんよ、と私も肩を竦める。執拗に咬まれたうなじには、ファンデーションでは隠しきれないようなマーキングが残された。ある程度は髪で隠れるだろうし、肌と同じ色の絆創膏で隠してはいるけれど、見る人が見れば気付くだろう。
さすがに抗議しようと思ったのに、恥ずかしがる私を見て零さんが満足そうに笑うから、この人が幸せそうならもう何でもいいやと思ってしまった。その時点で私の負けである。

けれど零さんに赤井さんの許へ行く、なんてことは口が裂けても言えなかった。昨日の今日なら猶更である。

「それで、どういう風の吹き回しだ?もうしばらくここに居候したいというのは」
「ごめんなさい、ご迷惑だったらすぐにホテルに移動しますが……」
「いや、俺は迷惑には思わんが、何か気になることがあるのかと思ってな」

君のことだから、考えも無くここに居たいと言い出すはずがないだろう。そう言って腕を組む赤井さんに、私は真顔で首肯した。

昨日コナン君と交わした取引というのは、もう数日の間ここに居候させて欲しいということと、それを零さんに黙っていて欲しいということだった。コナン君は驚きつつもそれを受け入れてくれたけれど、赤井さんは終始意外そうな顔をしていた。

「ええ。実は、少し気になる噂を耳にしたんです」
「気になる噂?」
「はい。昨日、蘭ちゃんと出掛ける前にちらっと聴いただけですけど」
「俺に話せることか?」
「ええ、勿論。むしろあなたにこそ、聴いてほしい内容です」

私はよく冷えたお茶を口に含んだ。冷たい液体が喉を通って内臓に落ちる感覚が心地いい。

「……聴こう。話してくれ」

彼は私の話が思っていたより深刻なものだと一瞬で把握して、緑色の瞳を鋭くした。
そこで私は予備のヘッドホンを取り出して、赤井さんに手渡した。彼は勝手知ったるという手付きでそれを装着する。

「ハイ、ギルバート。具合はどう?」
「ハイ、さくら。通信は良好です。そしておはようございます、赤井さん」
「ああ、おはよう。噂というのは、君が仕入れた物なのか?」

脳内に直接響いた小さなクリック音と落ち着いた声音にも、赤井さんは動じない。元々プログラマーのギルバートからこの人工知能のことは聴いていたにしても、さすがに順応力が高い。さらにこの数日間で、2人はすっかり仲良くなったようだった。

「その通りです。ひょっとしたらこのことで、近々黒の組織が動いてくるかも知れません」
「―――組織が?」

ぐ、と赤井さんの眉間に力が入った。私はそれを眺めながら、もう一口お茶を飲む。
このタイミングでこんな噂が流れるなんて、何か運命だとか見えざる意志だとか、そういう非現実的なものを信じてしまいそうになる。
続きを促す赤井さんに、人工知能は落ち着いた声で告げた。

「行方不明になっていた高校生探偵の工藤新一の目撃情報が、ネット上で拡散されています。先日、コナン君が工藤新一の体に戻って京都を訪れた際に事件に巻き込まれ、その解決に乗り出した所を一般人に目撃されていたようです」

赤井さんは驚愕に目を見開いた。その顔が私に向けられる。
私はひとつ頷いて、自分のスマホを操作した。表示されたのは、ベルモットのスマホから抜き取ったデータを元に特定した、組織のNo.2であるラムのスマホの通信記録である。
零さんが書いた台本では、ラムの連絡先を入手したというのはベルモットを脅すためのハッタリだったが、折角組織の中枢に関わる秘密を握ることが出来るのだ。ハッタリで終わらせるつもりなど、毛頭なかった。

使える物は、使えるとしたら使える時に使えるだけ使っておく。それが私の信念である。

「まだこの情報にラムは気付いていませんが、いずれ気付く可能性はあります。そして死んだとされていたはずの工藤新一が生きていると知ったなら、幹部の誰かを使って工藤新一のことを調べさせるでしょう。その時ラムが誰にその指令を出すか、その指令を受け取った相手がどんな動きを見せるのか。それを見張りたくて、私はここに来たんです」

私が日本に居られるのはあと1週間しかない。その1週間で、どれだけの対策が立てられるだろうか。どれだけコナン君―――新一君の力になれるだろうか。

解らないけれど、私に出来ることは全力でやるしかない。

「君もボウヤを守るために、力を貸してくれるのか」
「ええ。私が力になれるのなら」
「例えばラムの指令を受け取るのが、彼だったとしてもか?」

彼、というのが誰を指すのか解らないほど、私は馬鹿ではないつもりだ。赤井さんの言いたい意味が解っていて、それでも私は自分で選んでここへ来た。

「はい。例え、“バーボン”と敵対することになろうとも、私は新一君を守ります」

私を守りたいと言ってくれたあの少年を、今度は私が守ってみせる。そう覚悟を決めて目の前の男を見据えると、赤井さんはようやく肩の力を抜いて笑ってくれた。


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