夏が始まる音がする


廊下を疾走し、階段を飛ぶように駆け下りる。重くなる足を無視して昇降口を走り抜けた。
揺れる鞄が体重を左右に振り回す。唇を噛んで苦しい息を誤魔化した。

校門とは逆方向、角を曲がってひた走る。中庭、見えた背の高い立ち姿が、足音を聞いてかこちらを振り返る。
常時眠たげな瞳がやや見開かれるのが見えて、彼がまだそこにいてくれたことに緊張の糸がぷつんと切れた。

「赤葦く…っ」

普段こんなに走ることの無い分、酷使した心臓が胸骨を殴るように脈打っているのがわかる。彼の数歩先前で足を止めて膝に手をついた。喉が痛い。苦しくてまともに名前を呼べず、何とか息を整える。

「あか、」
「いいです、聞こえてますから」

数歩の距離を詰めてきたのは彼の方だった。大きな手のひらに背中をさすられて、大人しく一息つくことに専念する。けれどここまで突っ走ってきた想いはブレーキの掛け方がわからないままで、結局吐息と一緒にぶつ切りの言葉が駆け出すように零れてしまう。

「マネから、聞いた、の?」
「はい」
「いつから、」
「チャイムが鳴ってすぐです」
「れんしゅ、う」
「大丈夫です」
「あの、っ…」
「ちゃんと聞いてますから。落ち着いて下さい」

このひとはどうしてこう。
降ってくる落ち着いた声音にどうしようもなく泣きたくなる。身を屈めて背中をさすってくれる手のひらの温もりで視界が滲んだ。

手を伸ばす。彼の左手の指先に触れる。
思い出すのはこの手だった。すがりたいのはこの指だった。


「わたし、赤葦くんが好きだ」


私が思い出したのはこのひとだった。
あれだけ引きずった彼を目の前にした時、会いに行かなければと、会いに行きたいと私を駆り立てたのはこのひとだった。

何時の間に惹かれていたかなんてきっと自分でよくわかってる。でも今必要なのはその軌跡を辿ることじゃない。

「ずっと浮かんできて、行かなきゃって思ってた。赤葦くんに会わなきゃって、それで、だけど」

コンクリートに丸い染みが出来て、視界が一瞬クリアになる。けれどあっという間にまたぼやけるそれを膝についていた手で乱暴に拭った。
顔を上げられない。喉を突き破るような想いを絞り出すように吐き出した。


「ごめん、やっぱり、付き合えない」


近づけば好きになる。好きになれば付き合いたくなる。
けれど始まりと終わりは表裏一体で、いつか訪れる終わりへの恐怖を、私はまだ拭えない。

「怖いんだ、赤葦くんが好きだから、付き合えない。付き合えばきっといつか終わるんだって、その怖さばっかり付きまとってくる。そういうのを割り切るのが、私まだきっと出来ないんだ」

でももう待って欲しいなんて言えない。
待たされることがどれだけ辛いかわかりもしないのに、待ってて欲しいなんてこれ以上言えない。

「だから、」

手を引かれる。優しい力で、けれどどこか性急な動きに言葉と涙が引っ込んだ。

自然と俯いていた体が持ち上がって、背の高い彼の背中が見える。そのまま中庭を横切って、校舎の影に入った瞬間、くるり、振り向いた彼の顔を見る間もなく腕を引かれ、息が詰まる程強く抱き締められた。

「…告白までしといて、待たせてすらくれないんですか」
「っ…!」
「確かにあの時、付き合って欲しいって言いました。今もそう思ってます。でも、名字さんが俺を好きでいてくれるならそっちの方がいい。付き合えないから関わるのもやめるなんてバカなこと言うなら、このままの関係でいい。今すぐ恋人にならなくたって構わない」

いつもの冷静を装いきれていない矢継ぎ早な言葉が耳元に落ちる。反射的に逃げた腰には手を回されて引き戻された。

声が響く。重なる鼓動と身体と一緒に。
揺れる声音が切々と訴えるようで、聞いているこっちが苦しくなる。それでも私はまだ引けなかった。

「でも、もう待てなんて言いたくない」
「言ってください」
「嫌だ、そんなずるいことはもうしたくない」
「俺の想いをアンタのものさしで測るな」
「っ、」

かつてない口調に息が詰まった。体を離されて、酷く強い、強いまなざしで心臓の底まで貫かれる。

「…名前さんのこと、いつから好きだと思ってんスか」

アンタが思ってるより俺はしつこいし、長期戦向きだし、自分で言うのもなんですけど、一途なんですよ。

「…私の言い分は、赤葦くんが信用出来ないって言ってるのと同じだよ。卑怯で酷い言い訳だ」
「それなら勝手に傍にいます。俺が日和見じゃないって玲さんが安心できるまでずっと。玲さんが待たせるんじゃない、俺が勝手に傍にいます」
「…っ」

一度は引っ込んだ涙が滂沱と流れて、もう言葉が出なかった。優しい指先に何度も何度も頬を拭われて、せめて嗚咽は漏らすまいと噛み締めた唇までなぞられる。

真摯な眼差しに嘘はない。信じたい。このひととならずっと一緒にいられると信じて、そして確かにそうなりたい。
永遠などないんだとわかったふりして達観するより、傷つくことを怖がるばかりで逃げるより、もっと強く向き合いたい。

そのための時間を、このひとは与えてくれると言う。
私が安心するまで、この恐怖を棄てるときまで今のまま傍にいてくれると言う。

あと必要なのは、私の一握りの勇気だけだ。

「赤葦くん、は」
「はい」
「私を、甘やかし過ぎだ」
「…そうですね」
「我が儘言ってばっかで、期待していいとか言って結局待たせて、…そんなのばっかで、本当にごめん」
「、」
「もし、もし良いなら。許してくれるなら、」

頬を包んでくれる手に手を添えた。俯きたいのを何とか堪えて目を逸らすまいと唇を噛んだ。
必死で持ち上げた視線を合わせた瞳に、泣きはらした自分の顔が映る。


「…未来、の。恋人…とか、でも、いいですか」


赤葦くんが目を瞠く。流れる沈黙。完全に傾いた日が黄昏の色を深め、赤葦くんの柔らかそうな髪を綺麗に透かしている。

不意に彼の瞳が揺れて、赤葦くんが今にも泣き出しそうな顔をした。今度こそ涙も何も引っ込む勢いで真剣に焦った。待ってどうしようどうしたらいい。
けれど次の瞬間彼は再び私を引き寄せ、さっきよりずっと強く、ずっと弱々しく私を抱き締め、長い長いため息をついた。

「……良かった。もう駄目かと思った」
「ご、ごめん、ちゃんと好きなんだけど、すごく好きなんだけど…」
「…本当ですか」
「それは間違いなく」

やや拗ねた顔で、けれどどことなく不安げな瞳で尋ねてきた赤葦くんを見つめて頷く。待ちぼうけを食らう側の彼には、私なんかのより遙かに大きな負担を強いているはずだ。これ以上中途半端な部分は作りたくない。
夕陽のせいだろうか、見上げた彼の頬がじわじわと朱く染まってゆく。唇を引き結んで目を泳がせた赤葦くんは、空を仰いで再びため息をついた。本当に申し訳ない。

「…はああ……」
「ごめん、好きだと余計に怖くて、うんでも出来るだけ早くちゃんと」
「ゆっくりでいいっすから」
「でも」
「…じゃあ、」

ぐ、と近づけられた綺麗な顔に息が止まった。仰け反りかけた頭は大きな手に捕まって逃げられない。…この近さはデジャヴだ。パーソナルスペースの明らかな侵害。次に来た台詞は確か、

「予約。していいですか」
「ご褒美じゃなかった…!」
「ご褒美もくれるんですか。ありがとうございます」
「エッ待って何その突然の余裕」
「名前さん」

ずるい。
ここで名前を呼ぶのは、あの熱を孕んだ甘い瞳で見詰めてくるのはフェアじゃない。…でも私の我が儘の方が遙かにアンフェア極まりない分、何も文句は言えないのだ。

彼の指先が私の唇をなぞる。みっともなく泣いていたさっきの私に対するより、明らかに纏う空気が違う。緩慢な指づかい、唇から目へと流される物欲しげな瞳に漂う、高校生にあるまじき艶。一体どこから出したと聞きたい匂い立つような色気に当てられ顔にカッと熱が昇った。

「…いいですか」

ああもう。
これだけ中途半端で思わせぶりで、待たせてばかりの私の我が儘を全て聞き入れてくれたこの人に、私が返せるものなんて他に何があるだろう。

こくり、首を縦に振る。きっと今私は酷い顔だ。泣きはらした上に真っ赤だなんて人様に見せられたものじゃない。

それでも目蓋を下ろす寸前見えた彼の微笑に、赤葦くんが喜ぶならと心から思えてしまう。
唇に触れた初めての柔らかなぬくもりに、赤葦くんが好きだと確かに実感できる自分がいる。

「…京冶くん」
「!…ん?」
「ありがとう、すきです」

至近距離の彼の唇に零した吐息がぶつかって、俺も好きです、酷く甘く囁いた彼に再びキスされる。


きっとここから歩いてゆくのだろう。

夏の始まり、その一日を幕引く夕陽に見守られて、私は未だ見ぬ先に向かってこのひとと歩いてゆくのだ。


141206
マリンブルーの陽炎、これにて終幕。完結までお付き合い頂き誠にありがとうございました。
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