飴と鞭 | ナノ




 


「黒瀬ちゃん、昼飯行こうか」

朝の会議が終わるともう昼食の時間だ。
上川がよれよれのジャケットを羽織って、黒瀬に話しかけた。
いつもすぐ会社を出れるように彼のスーツのポケットには車のキーが入っていた。
それを左手で取り出して、指でくるくる回転させる上川。
ぼさぼさの髪と無造作な髭とそれから眠たそうな半開きの眼が印象的な男だ。

「すぐ用意します!」
「あぁ、そんなチャキチャキ動かなくても。ゆっくりでいいよ」
「いえ!すぐ!行きます!」
「そうかい。じゃ、任せるけれど」

黒瀬は何故か彼に好意を持っていた。
彼女はちょっと変わった女性なのだ。




▽飴と鞭 / ame to muchi




二人は行きつけの喫茶店に入った。
黒瀬が目移りしながらメニューを決めると、上川がまとめて注文する。

「この時間に会議するのやめてほしいよなぁ」

上川が髭を擦りながらテーブルに肘をついた。
彼の人当たりが良さそうな顔は、幅広い人脈を裏付けるようだ。

「でも先輩寝てたじゃないですか」
「居るだけで疲れるんだよ。それに絶対時間通りに終わらないしさぁ」
「多分先輩が寝てるからスムーズな会議にならないんですけど…」
「ありゃ…相変わらず正論だねぇ」

彼は嘆きに似た声色でボヤいた。
上川の言う道理は彼女には届かず暖簾に腕押しだ。

黒瀬はそんな彼の仕事のパートナーだった。
不真面目な上川を彼女は自分が引っ張っていかなければと何故か確信めいて思っていた。
彼女は自分をしっかりものだと思っているのだ。

『イチゴのパンケーキとサンドイッチのお客様ー』
「俺です。ありがとう」
『大盛りドミグラスカツカレーのお客様』
「あ、私です。どうも!」
「君は本当によく食べるねぇ」
「普通です。…でも先輩はまるで女子ですね。それじゃ午後のエネルギーになりませんよ!もっと食べないと!」
「はは…そう?」
「カフェのランチでお腹一杯とか信じられません。しかも先輩おじさんなのに」
「それ、若い女の子の台詞じゃないな」

−−というか「おじさん」かぁ…。
ボサボサな髪をかきながら上川は呆れて瞳を伏せて、パンケーキをつついた。





黒瀬のもとへ同僚の滝川がデスクチェアで回りながらやって来たのは午後8時、残業に残ったのはこの二人だけだった。
黒瀬達は広いオフィスでまるで自分の家みたいに寛いでいた。いつも通りとりとめのない話をしながら。

『黒瀬ちゃんも大変だ。また今日も上川先輩、会議サボろうとしてさ』
「はぁ…本当に参っています」
『知ってるか?あれでも上川先輩、大学時代はサークルのリーダーしてたんだぜ』
「えっ!」

黒瀬がパソコンから目を離して、滝川のほうを向く。
彼は紙コップのコーヒーを飲みながら話を続けた。

『俺が一年のときに先輩は四年だったんだ。あんな感じだけど顔は広いし気が効く人だから、人気あったよ』

――女子にもモテてたし。
そう滝川が続けると黒瀬は目をパチクリさせる。

「じゃあ見た目も今と違ったんですか?髪とかボサボサだしスーツはよれよれだけど」
『それは今と一緒だけど…、ああいう容姿はコアな女子に好かれるだろ』
「あ、それはわかる…かもです」

そうした暫くの雑談の後やっと仕事を進め出したところに、オフィスのドアが開いた。

「うわぁ滝川達まだ残ってんのか」

上川がひょこりと顔を出して、心底だるそうな顔をした。

『先輩こそ、なぜこんな時間まで残ってるんですか』
「いやぁ、参ったね。倉庫で寝てたみたいで起きたらこんな時間だよ」

滝川が黒瀬に目配せする。間違いなく意図は上川に対する批判だろう。
彼女は困ってしまって、眉を下げて笑顔を作った。

「ま、早く帰るんだぞ社畜達」
『うぜぇ…』
「ん?なんか言ったかい」
『な、なにも。なぁ黒瀬ちゃん』
「ふふふ。何もありませんよ」
「えぇ…そう?まぁいいけど」

−バタンッ
扉が閉まっても上川が遠くに行くのを少し待って、おもむろに滝川が口を開いた。

『黒瀬ちゃんと上川先輩がコンビ組むなんて意外だったぜ。絶対合わないって思ってた』
「えっ、どうして?」
『先輩、仕事だってサボるし適当だしさっきみたいに寝てたりするし…昔はわりと情熱的に仕事に取り組む人だったんだけどなぁ。いつもああじゃさすがの黒瀬ちゃんもイライラするだろ?』
「確かに大変ですけど…」
『黒瀬ちゃんは真面目で断れないタイプじゃん。なぁ、仕事押し付けられたりしてない?――実際、先輩の事どう思ってんの?』

そんな滝川の表情にはちょっと愉悦が含まれてる。

「あぁ、タッキー…もしかして。私が先輩を嫌いだって言ったら明日には会社中に広めるつもりじゃないんですか〜?」
『えっ?ははは。マジで嫌いだったら面白いけど』

滝川がおどけると、黒瀬が呆れたようにため息をついた。
でもマジで聞いてんだぜ、と滝川が付け加える。
彼は、今まで上川のパートナーになるような女性は黒瀬のタイプじゃなかった、と言いたいらしい。仕事でも、そうじゃなくても。

『先輩って気の強い女の人が似合うって言うか、…ヒモっぽいっていうか』
「ヒモ…?」
『そう思わないか。現に先輩、大学時代は気の強ーい年上オンナばっかと付き合っててさぁ。皆噂してたぜ、SMが趣味だって』
「えっ!?S…M…?」

口を手で抑える黒瀬の反応が求めていたリアクションそのままで、滝川ももっと話したくなる。

『ちなみに先輩がMって噂だ』
「うわぁ〜、それ、本当なんですか」
『噂はウワサだけど…見た目からそういう雰囲気あるし、あながち間違いじゃないってオレ思うんだよね』
「はわぁ…」
『だからさ、黒瀬ちゃんも用心しておいた方がいい』
「…?はい、ありがとうです…けど、先輩は真面目だと思いますよ」

それはどういう意味だと滝川が小首を傾げる。
黒瀬は目をキラキラさせて、憶測を話した。

「今だって、きっと仕事をしていたんですよ。私たちに悟られないように」
『はぁ…そーかなぁ』
「私この間見たんです、夜の資料室で熱心に本を読む先輩の姿を」
『でもさっき先輩すごい寝癖だったし涎の跡があったぜ』
「えっ」

…そんな話をしつつも、黒瀬は滝川の言葉にある意味納得していた。
年上の気の強いお姉さんと上川が肩を並べて歩く姿は想像に難くなかったからだ。
上川が黒瀬をパートナーに選んだのは、自分にお姉さん的なオーラを感じ取ったのでは、と彼女は推測をした。

『…もしかして、黒瀬ちゃん上川先輩の事好きなの?』
「えっ!いいいや、そののの…!」
『うわぁ、なにその反応。マジかよ』
「そそそんなわけないじゃないですか!」
『隠さなくてももうばれてるよ。つーか多分課の全員にバレてると思う…』
「ええっ!?なぜバレちゃったんでしょうか。私、誰にも言ってないのに!」
『黒瀬ちゃんが天然だからじゃないか』

黒瀬はほっぺに手を当てて、顔の熱さを冷ましている。
瞳を伏せて悶える様には、彼女が求めている「おねえさん」感はどこにもなかった。

『そうだ!先輩の彼女になりたいなら練習しといた方がいいんじゃない?』
「練習?」
『ここに鞭があるだろ』
「どうしてあるんですか」
『こんな時のために持ち歩いている俺の私物』
「わぁ…これが…はじめて見ます」
『SMが趣味の先輩とお近づきになるためには、これは必須アイテムだと思うぜ!』

−−ぴしゃん!
滝川が床を鞭で打つ。安っぽい見た目からは想像もつかないエグみのある音がオフィスに響いた。

「え!?こんなの人に使ったら駄目ですよ!危ないです!」
『それがいいんじゃーん。ほら、振ってみる?』

−−ぴしゃっ!
鞭を手渡されて、黒瀬がそれなりに力を抜いて床を打った。
それでも派手な音が鳴る。

「こ、これ!あかんやつですよ!…あれ…タッキー?」

そこには何故か床に正座する滝川がいた。
爛々とした瞳で意気揚々と言い放った。

『さぁ黒瀬ちゃん!俺を先輩だと思ってそれで叩くんだ!』
「…あ…私もう帰ります…」
『なんで先輩の時は良くて俺の事は引くんだよ、不公平だ!』
「体を張ったギャグするのやめた方がいいと思いますよ。だから忘年会で陰毛に火をつけられるんです」
『うっ…その話はやめようぜ!』




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