糸し愛し


まだ街灯のない道を馬車が進む。

その時代には珍しい西洋仕立ての小さな白い家の前で止まると、
スラリとした長身の男が降り立ち、何事かを御者に告げた後に車は発ち去る。

門をくぐり庭を抜け、男が玄関に着くと同時にカチャリと扉が開いた。

『おかえりなさい。』

年の頃は三十路前後と思わしき女が、
髪結いもせずに、これまた珍しい洋装姿で現れた。


「なんだ、まだ起きていたのか。」

『"なんだ"って言い方は無いでしょう。せっかく待ってたのに……』


未だに似合う、若い娘のような幼ない仕草を顔に出しながら、男を迎え入れた。


『今日も遅かったですね…忙しかったんですか? お疲れ様です。』

「先に寝ていろと、いつも言っているだろうが…なぜ聞かない。」

『きいてますよ?だって子供達はいつも先に寝てるじゃないですか。』

「………はぁ…」







この家を建てさせた張本人であり、この家の主である大久保利通は
日本の、出来てまだ新しい明治政府の主要人物で、その忙しさは並外れていた。

それでもこうして日付が変わる前には帰宅するよう尽力しているのは、
ここに住む彼女がこうして寝ないで待っているから……


『お食事は?』

「済ませてきた」

『お風呂 はいりますか?』

「いや、先に少し休む。お前も来い…」

そう言うなり、上着を預けて居間へと向かう。
それをさも当然のように預かって、
玄関脇に掛け吊した彼女は、炊事場へと向かっていった。



『お茶が入りましたよ』

どうぞ…と言って目の前のテーブルに茶器を置く。

大久保はソファーに深く腰かけ、煙草を吸っていた。
少し間を置いてから、ああ…という返事が零されるのを聞いて
彼女は目を細めて僅かに顔を綻ばせる。



―――夜も更けた静かな部屋に響くのは時計の音だけ―――



いそいそと大久保の隣に座った彼女は、
寝間着の長いスカートに包まれた足を両腕で抱え込むようにしていた。


「なんだ、寒いのか?」

少し…といいながら末端を手でさすっているが、その手にも色艶がない。


「そんな薄着でいるのが悪い。」

ぶっきらぼうに言いながらも、煙草を置いて彼女と向かい合い、その両手を包んで温める。


『あったかい……』

「当然だ」

私が温めてやっているのだからな……そう言って口角を少し上げて笑う。


―――そうすることで実は大久保の心も温められていた―――


「明日は休みを取った。前々から行きたい所があると、アイツらが言っていただろう…」


やんちゃ坊主の息子達を"アイツら"と呼ぶ彼だったが、その顔は優しい父親そのもの……

その目に幸せ感じながら、
きっとものスゴく喜びます!ありがとうございます!!と
礼を言って微笑んだ彼女に彼は言う。


「ならば今夜は私に尽くしてくれるだろうな?」


ニヤリと笑いかける大久保の目は、
父親から一人の男の目に戻っていた。



―――目の前で湯気を立てている、

 大久保好みの渋い茶は、

 手がつけられる頃には冷めきっていて…

 あたりは明るくなっていた―――












2010/11/16
糸しい人と愛し子。裏で糸を引く愛妾と愛しい子供達の存在。
公務に忙殺される大久保さんの、癒しであり支えだったのならいいなと…


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