*** 「待ってっ」 「えっ!?」 というわけにはいかなかった。 棒ごとロリポップを食べ切った少年が自慢の手足で地面を蹴れば、少女との距離は一瞬にして埋まるのだ。後ろからいきなり左腕を取られるようにして足止めを食った少女は少しかしぎ、なんとか踏ん張ることで転倒を免れた。 なんだと思って反時計回りに体を捻り、振り返る。掴まれた腕の先から、少年がぐっと顔を近付けてきた。 「きみ、ケガをしてるの?」 自分とよく似た金色の瞳が心配そうに揺れて、その手にも温かな力が込められた。 なにを基準にそんなことを言っているのだろうかと内心の動揺を隠しながら考えていると、原因に思い当たった。先ほど彼に向かって振ったこの左手だ。 少女の顔の左半分は包帯に覆われている。そしてそのまま左腕から手に掛けてと、左足もすべて同じように、丁寧にぐるぐる巻かれているので、この心優しい少年はそれをけがによるものと判断したのだろう。見た目は狼人間のようなのに、その鼻は役に立たない飾り物なのかと文句を言いたくなってしまう。血のにおいなんてしていないだろうに。 「……してないわ。だから離して」 「でも、その包帯。舐めればきっとすぐによくなるよ」 「これは、そういうものじゃないの。舐めなくても大丈夫よ」 曖昧な説明では納得できないのか、食べ物を与えられたことに恩を感じてそれを返したがっているのかもしれない少年は、少女の腕を掴んだまま心配そうな表情を変えない。 こんなことになるなら気まぐれなんか起こさなければよかった。少女はため息をつく。 「私の体は半分グロテスクなことになってるから見せたくないの。この包帯はそれを隠すためにしてるだけ。それよりあなたの頭のネジのほうがよっぽど痛そうだわ」 理由を一気に説明して、乱暴に話を切り替えた。それに、あまり長く触れられていたくない。これまでも何度か冷えた体に驚かれて、恐怖に染まった目で見られてきたのだ。少年自身も何か事情のありそうな体をしているけれど、だからといって明らかに不自然な少女のことをいつ突き放すかわからない。あんな目はもうたくさんだった。 腕を掴む手の力がゆるんだ瞬間に少年を振り払い、ふらっとした足取りで距離を置く。瞳の色が似ていたからといって容易に関わるべきではなかった。尖った耳と歯を持っていても今日だけは堂々と出歩ける日だったから、油断したのだ。 ネジのことを口にした途端に悄気げてしまった少年の姿に痛む良心をなだめつつ、ここから抜け出す計画を練る。相手は狼のような手足を持った存在だし、さっきも素早く追いつかれてしまったから、慎重にならなくては危害を加えられてしまうかもしれない。伝説に出てくる狼人間は見境なくヒトを襲うから。 少女の心臓は動いてはいないし、それ故に生きているとも言えないようなものだけれど、ばらばらに引き裂かれてしまうのは困るのだ。動かない心臓が潰されたり、頭と体が遠くに離れてしまったが最後、それこそ彼女の「死」である。 少年を注意深く観察しながら隙をうかがう。そのもふもふとした耳は垂れ、尻尾も地面にぺったりくっついていた。 「このネジは気が付いたらあったから……痛くはないんだけど。やっぱり、変?」 力なく浮かべられたその表情に、少女の胸が詰まった。よく見たことのあるものだったから、それがどういう気持ちのときに出てくるものなのかよく知っていたから、随分昔にそういう顔をすること自体を止めてしまった少女だったからこそ、ひどく疼いた。 あのとき欲しかった言葉があった。誰も掛けてくれなかったから、自分で自分に言ってあげることしかできなかったけれど。体の右半分が映っていない鏡を見つめて泣き出しそうだった幼子を思い出して、少女はこくんと唾を飲み込んだ。 この優しげな狼人間はきっと、ヒトを襲わない。 「いいえ、変なんかじゃないわ。格好いいわよ」 ずっと抑揚のない声なのに、少年には届いたらしい。立てた耳をぴっとこちらに向けて、うれしそうな顔をする。 「そう? そうかな! わあ、そんなこと言われたの初めてだ」 隠す気もないらしく尻尾までぶんぶんと振り出して、格好いい、格好いいと一人で繰り返し、毛むくじゃらの手で頭のネジに触れる。そのはしゃぎようは狼というより犬のようだった。 「うれしいな。うれしい」 少女はなかば苦笑しながら少年を見守っていた。小躍りする彼の姿は微笑ましく、少女もなんだか幸せな気持ちになる。 ふわふわの髪の毛の中にしまっていた袋入りのカップケーキを取り出して半分ちぎり、投げ渡した。 「私はレベッカ。あなた、名前は?」 カップケーキを受け取ってにこにこばくんと飲み込んだ少年は、レベッカと名乗った少女にぽかんと口を開けて、またもや首をかしげた。 「なま、え?」 片言で返されたその反応にひやりとしたものを感じつつ、こくりとうなずくことで答えをうながした。一度口を閉じた少年は目をぱしぱししてからおずおずと再び口を開き、遠慮がちにこう言った。 「えーっと、型番なら……確か、このへんに」 ずぶりとめり込んだネジの頭を左手で指差し、右手でレベッカを呼び寄せる。 「かたばん?」 言いながら近付いていったレベッカは、少年の頭に刺さったネジを確認した。 金属のネジに彫り込まれていたのは「WW−108」という暗号じみたアルファベットと記号、数字の羅列だった。「型番」という言葉の意味をなんとなく理解したレベッカはそれでも一応「わからない」という視線を少年に送ってみた。彼はその大きな手で自分の頭をがしがしとかいて笑う。 「えへへ。本当はわからないんだ、名前」 カップケーキの食べかすをくっつけた口元が少しだけ歪んで見えた。レベッカが何か言う前に、少年は一気に話し出した。 「この番号だけは見つけたんだけど。生まれたときから一人だったし、今までもそうだったから、あんまり気にしたことないんだ」 身を引いた少年の姿は、先刻、腕を振りほどいて彼を拒絶しようとした少女の姿とまたかぶった。 それならもしかして、気にするなと言いながら、心のどこかで待ってしまっているということはないのだろうか。大部分は関わりたくないと考えながらも、ほんの少し、わかってほしいなんていう気持ちをこの少年は持っていやしないだろうか? それに彼は一人だと言っただろう。今日というお祭りの日に一人。レベッカと一緒だ。腹をすかせて地面に伏して、ハロウィンを知らないから一年の一度も自由な日なんてない。それはどれほど窮屈なことなのだろうか。 なんだかんだといって気に入った相手の世話はどうしても焼いてしまうレベッカは、少年の命がいつなくなるものだったとしても、手を差し伸べるのだ。その手の冷たさに彼が怯えてしまわない限り。 「じゃあ、ジンね。私の名前はレベッカ。あなたの名前はジンよ」 しばらく黙っていたレベッカからの突然の申し出に金色の目をぱちくりとしばたいた少年は、何度か首をかしげてから、やっぱり「なんで?」と聞いてきた。何に対するなんでなのかはいまいちわからなかったけれど、レベッカはまた髪の中から袋入りのクッキーを取り出して、そのうちの半分をジンと名付けた少年に分け与えた。 ジンは名前のことなど忘れたかのように渡されたクッキーにがっついて、それを一気に食べ終わると、幸せそうに目を細めた。その間に隣からいなくなっていた気配にはそのあとで気が付いて、辺りを見回すことになる。 「じゃあまた、来年にでも会いましょうね」 夜空に浮かぶ細くとがった月がそんなふうに言うと、森の木々が穏やかに揺れた。 ハロウィンの日にこうして出会ったふたりのおはなし。 また会おうね。 ← top |