[冬]
おおぉぉん……――
冬になるとスティーブンはよく遠吠えをするようになった。はじめは野犬の声だと思っていたのだが、よくきけばスティーブンの声だ。
もしやと思い部屋を訪れると、スティーブンはクラウスにまとわりついて体をひっつけてくる。
寒いのかもしれない。一年前は彼が外で狼の生活していたはずだが、そんなことは関係ないというように心配した。
ベッドにはいるよう促すための、まずクラウスが横になる。スティーブンはいつものようにクラウスのあとをついて、一緒の布団にもぐりこんだ。布団は冷え切っていて、温まるのに少し時間がかかりそうだ。
嫌がられたらすぐにやめるつもりで、背中に腕をまわして体をよせる。すると、思っても見なかったことに体をすりよせられた。スティーブンから手をまわしてきて、足が絡まる。
(寒い冬、狼たちはこうして暖をとったのだろうか)
なんて思っていたのもつかの間。尾てい骨をスティーブンの手のひらがなぜ、腿になにか硬さのある芯があたった。
寝入りかけていたクラウスは目を開く。スティーブンは物をもつことがない。スプーンやフォークをやっと掴めるようになったばかりで、それ以外のものは齧ることはあっても持ち歩くことはない。クラウスも、ベッドには体一つで入った。
ずり、としかし何かが擦りつけられている。スティーブンの体も一緒にゆれた。同じ速度で芯がクラウスの太腿を往復する。
ようやく何が起こっているのか把握して、顔に熱が集まった。
「ス、スティーブン、やめなさい」
大声を出すのははばかられて、潜めた声になる。スティーブンはうっとりと、煮つめた目を薄くあけてクラウスをみた。その淫蕩に身をまかせている顔から目が離せなくなる。
湯気のような息が彼の唇から零れる。なんと艶めいた男だろう。伏せたまつ毛はふるえ、白い頬が紅をさしたように上気している。
スティーブンは速いストロークを繰り返して、クラウスの足をつかって熱を吐き出すと、何事もなかったかのように寝てしまった。
クラウスは一人、速い鼓動に耳を支配されている。
大学へいくと、いつもの教授が出迎えてくれた。研究室に招かれてコーヒーをいただく。冬には害獣がふえる。それが危険な獣であれば、猟友会かラインヘルツ家の手のものが殺すのが例年のことだった。
今年は秋に実りが豊かで、獣たちも蓄えがあるようで人里に下りてはきていないらしい。殺さずに済むのであればお互いそれが一番いいことだった。
教授はクラウスをさそって、実験棟の方にも足をのばした。そこにはいくつかの動物の剥製があり、昨年クラウスが撃ち殺した狼もいた。
「きっと賢い狼だった」
そういうと、教授は鷹揚に頷いた。
クラウスは去年この狼をスティーブンの親か兄弟ではないかと考えたが、それは可笑しい話である。犬の寿命は十年から十五年。野生ですごす狼はさらに短く五年から十年。
対してスティーブンはおそらく二十年は生きている。狼の群れの中ではかなり古参だろう。スティーブンはこの狼をクラウスが撃ち殺したときに涙でぬれた目をしていた。きっと子どもか孫のように成長を見守ってきたのだろう。
「狼は愛情深い生き物です」
教授だ。
彼の言う通りだと思う。狼の群れの中で過ごしてきたスティーブンは仲間を思い涙をこぼし、狼たちは体も寿命も異質のスティーブンを見捨てず一緒に過ごしてきた。
教授はクラウスが乞えば狼の生態についても教えてくれた。標準的な体高や体重、群れのほとんどが近親関係にある。狼の群れには優位性があり、群れの中で最上位の番のみが繁殖をおこなうことが多い。
そしてわかったことは、狼の発情期が冬だということだった。
スティーブンには今発情期がきているのだ。そしておそらく彼の認識で群れの中の上位者はクラウスだ。だからスティーブンは夜な夜なクラウスに性的なアピールをする。
「いや、私は狼が大好きでして」
クラウスが考えにふけっていたのを勘違いしたのだろう。教授が少し焦ったように顔の前で手を振った。
「わかります、教授。だからこそあなたは第一人者なのでしょう」
「いやいや私なんて。趣味が高じただけにすぎません」
趣味という域を超えているだろう。教材に使った狼の死体を、自ら剥製にして飾るほどだ。
「狼はとても美しい生き物です、すばらしい」
その言葉は思いのほか強い衝撃でクラウスの胸を突き刺した。身に覚えのある感覚だった。スティーブンはひどく美しい。整った顔も、きれいについた筋肉も、そして狼として生きるために歪んだ姿勢も。
何度だって彼が仲間の死に涙した眼差しを思い出す。丸まった背骨からすべるあの長い髪の毛。すべてが完璧なあの瞬間。
その美しさは、おおよそ人がもつものではなかった。
そしてクラウスの感動は、教授とおなじ、獣の美しさへの傾倒だ。
愕然とした。そんなことをクラウスは認めるわけにはいかなかった。スティーブンは人間である。
その晩、クラウスはスティーブンに体をあけわたした。彼が人間であることを証明しようとした。
◇
朝日の中で目を覚ましたときには、とっくに馬鹿なことをしたのだと分かっていた。気づいてしまったものを上書きすることはできない。クラウスがいままでしてきたスティーブンへの対応は、犬と同じだ。人間社会に招き入れると息巻いておきながら、珍しい犬に芸を覚えさせて喜んでいただけにすぎない。
違和感の残る尻をかばいながら起きあがると、先に目を覚ましていたのだろうスティーブンがすりよる。
腕を伸ばして頭をかいてやると、いつもどおり気持ち良さそうに目を細めた。嬉しそうにクラウスの体に鼻先をくっつける。手のひらに、肩、脇腹、そして腰。特に腰はなんどもなんどもノーズキスをおくってきた。
昨晩行為の最中に彼の手のひらが何度も往復した場所だ。
またねだられているのだろうかと思ったが、彼の股には何の反応もない。そういう癖なのか。まだクラウスの知らない部分があるのだろう。
スティーブンを庭にだしてやりながら、クラウスはさすがに何かをする気にはなれなかった。教授にもらったフィルムを取り出す。
部屋の白壁に映写機で映しだしてみると、フィルムの中身は狼たちの営みだった。野生動物を撮るのはむずかしい。趣味が高じて、という教授が何年もかけて集めたものだろう。獲物を追って駆ける狼、木々の間をじゃれあいながらコロンと転がる仔たち。
なかには交尾の映像もあった。クラウスが驚いたのは、狼たちはあまりマウンティングのポーズをとらないことだった。すぐに雄が体を反転させてお尻をくっつけあうような体制になる。
「そういえば、昨晩随分と動きずらそうにしていたが」
もしや後ろを向きたかったのだろうか。しかしこのポーズは人間には厳しい体制と言わざるを得ない。
無理にこういった体位をとろうとしても、きっと抜けてしまうだろう。狼たちのように後ろ合わせにしっぽを絡めることはできない。
「そういえば……」
スティーブンがしきりに気にするのは、ちょうど尾てい骨のあたりだ。
交尾の最中かならず絡ませ合うしっぽ。それがいったいどういう意味をもつのか。クラウスには一つの閃きがあった。
教授の言葉が耳の奥で、意味をもってリフレインする。――狼は愛情深い生き物です。
そしてスティーブンはおそらくクラウスを番として見ている。
しっぽをからめることは愛情表現なのだ。だからスティーブンはクラウスを何度も慣れない手を使って触った。彼はクラウスのしっぽを探している。
そうとしか考えられない。
おもわず立ちあがって庭先にでる。穏やかな冬の太陽が降り注いで、クラウスの体を心地よく温めた。芝に寝ていたスティーブンはクラウスに気づき頭だけ起きあがったが、顔に葉と土をつけていた。きっと髪は春に花植えをするときと同じ匂いがするだろう。
スティーブンは犬とおなじように伸びをして、大きなあくびも一度した。そしてクラウスをみると嬉しそうに笑う。
もう諦めるしかないのだと分かった。彼は美しい。その美しさがクラウスをこのうえなく魅了するのだ。
そして彼も、クラウスを愛している。どうすることもできない気持ちがあふれてしまって、涙がこぼれた。
それから冬の間に何度かスティーブンと体を重ねた。スティーブンが求めてくればクラウスは拒むことはなかった。
そして暖かくなるにつれ、スティーブンの発情は回数がへり、しだいに消えていった。
春になったのだ。
クラウスは今まで以上にスティーブンを人として扱うことを自分に課した。
そのかわり、冬がくればクラウスが獣になるのだ。
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