「許さん!俺は許さんぞ、島田!」
「…いきなりなんですか、会長」
「結衣子ちゃんのことだよ、コノヤロウ!」
「またですか」
「俺は何度だって言ってやるよ!」



会長からのこういった絡みは、最近よくあることだ。

獅子王戦の最後に結衣子が来たことは、なぜかそのあとあっという間に将棋界の中へと広まってしまった。

棋士会館に行けば、すれ違った人々に「ついに島田にも春が来たなあ」「おめでとうございます、島田さん!」と祝福の言葉を掛けられ、正直戸惑っている。

喜ばしいことに間違いはないのだが、あまりにも皆して浮かれすぎではないか。

会長は「灼熱地獄のデパート屋上の営業入れまくってやる」と脅しのように言ってくるし、松本にいたっては…



「あ、おはようございます、島田さん。結衣子さんとはその後…どうですか、なんて…あはは……は…はは…」
「…おはよう、松本」
「おはようございまーす。いっちゃん、またそんな笑顔作って…島田さん、どうぞお気になさらず」



とても無理のある笑顔で毎日声を掛けてくる始末だ。

心苦しいとしか言いようがないのだが、こちらから掛ける言葉もなく言葉少なに返すしかない。

そして今日は、もう一つ困ったことがあるのだ。

獅子王戦が終わってから初めて、結衣子がウナギを配達に来る日。

それが今日なのだ。

ちょうど自分の対局は昨日終わっていたために今日は来る必要はないのだが、やはり結衣子が来るとなっては自分も行かなければという気になってしまう。

たとえ自分にとって棋士会館がイバラの空間となったとしても。

いつも二階の休憩スペースに配達に来る結衣子だが、ゆっくり話せるようにと一階のロビーで昼の時間になるのを待つ。

対局がない棋士は休憩スペースにいることが多いため、ここなら周りがうるさいこともないはずだ。

やがて時間がたつと、ガラス張りの入り口の向こうにウナギ屋の車が停まる。

うな重の箱を両手に抱えた結衣子の姿が見えた瞬間、ドキリと胸が高鳴った。

どれだけ見た姿でも、やはり自分の想い人が視界に入ったときは高鳴りを隠しようがない。

立ち上がって入り口の扉を押さえていれば、相手もこちらに気づいた様子で笑顔でこちらに近づいてくる。

お礼を言って頭を下げた結衣子は、「すぐに届けてきますね」と事務局員と二階へと上がっていった。

二階の方から「島田はどこへ行った!?」「帰ったんじゃないか、彼女が来たのに馬鹿な奴め」等と散々な言われようが聞こえてきたが、今はどうだっていいことだ。

再びロビーのソファへと腰かけていれば、二階から降りてきたらしい人影がこちらを見て眼鏡の奥の目を小さく見開いた。



「島田さん、結衣子さん来てますよ?」
「ん、わかってるから大丈夫だ。桐山は今日は対局か?」
「いいえ、棋譜をコピーしに…」
「そうか。…そういえば桐山」



ずっと桐山に訊きたいことがあった。

獅子王戦が終わって、ずっと訊きたかったことが。

結衣子になぜ獅子王戦に来たのか聞いたとき、桐山の名前が出たこと。

その真実を訊こうと思いながら、なかなか桐山と一対一で話す機会がなく、ずるずるとここまでやってきてしまったのだ。

今ならば周りの人影もまばらで、ちょうどいい。



「なんで獅子王戦最終日に結衣子のこと呼んだんだ?」
「ああ…あれはですね、島田さんが前日の夜に腹痛でうなされてる時に結衣子さんの名前を言っていたものですから」
「……え?」
「ちょうど自分と一緒にいたときに島田さんの腹痛が襲ってきたみたいで、ホテルの部屋まで送ってる時にずっと言ってたんです。…覚えてないですか?」
「島田さん、お待たせしました。零君、こんにちは」



まったく記憶のないエピソードに愕然としていれば、ちょっとしたタイミングの違いで結衣子が戻ってきた。

危ない危ない、こんな情けないエピソードを聞かれたら、しばらく笑いものだ。

もっとこう、桐山の直感で呼んだとかそういったものを期待していたというのに。

「それじゃあ失礼します」と頭を下げて去っていく桐山を見送り、結衣子はこちらを振り返った。

その口端には、小さな笑みが湛えられている。



「零君と何話してたんですか、島田さん」
「いや…なんでもない」



この笑みを見る限り、結衣子はおそらく桐山が獅子王戦に呼び出した理由を知っていたのだろう。

それでも何も言わず、この数週間いてくれたということだ。

本当に頭が上がらない。



「ありがとな、結衣子」
「どうしたんですか?」
「棋士会館でイチャつくな、そこの島田!」
「会長いつからいたんスか!?」



思わず彼女の頭を撫でようとすれば、どこからか聞こえてきた会長の声にピタリと手が止まる。

棋士会館での島田への風当りはまだまだ強くなりそうだ。

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