「この前はありがとう」
そう言って島田が持ってきてくれたのは、彼の故郷だという山形のお漬物だ。
白菜やキュウリ、そして地元で採れたのであろう山菜が詰ったアッサリとした塩漬けのお漬物は、頻繁に結衣子の食卓に上がるものになった。
暦はすでに12月に入ろうかというところで、朝晩の冷え込みもすっかり厳しいものになってきている。
早朝の今も辺りはまだまだ薄暗く、居間に置いてある炬燵に入らなければすぐに震え上がってしまいそうだ。
凛とした顔でニュースを読みあげるアナウンサーの声を聞きながら結衣子は朝食を進め、島田からもらった漬物を口に入れながら彼のことを考える。
島田さん、まだこの時間じゃ寝てるだろうな…
2週間姿が見えないことを心配して島田の家を訪問してから、島田は定期的に結衣子の家に顔を出すようになっていた。
かえって重荷になっているのではないかと考えたこともあったが、その考えも島田は読んでいたのか、笑って言った。
「俺の生存確認しないと、結衣子はもっと不安そうな顔をして乗り込んでくるじゃないか。定期的に会っておいた方が俺も安心だし、お互いに孤独死してたら嫌だろ?…いや、でも結衣子は…」
最後の方は一人で呟くようにしていた島田だったが、『俺も安心』という言葉で負担にはなっていないと安心した結衣子は特に気にしていなかった。
知っている人が近くにいる、とはどんなに安心することだろうか。
島田の家が隣にあるというだけでもこんなに安心してしまうのだから、自分はよほど一人暮らしにおびえていたらしい。
今は大丈夫だ。
知り合いもウナギ屋を中心に増えた上、何よりも島田がいる。
朝食を片付け、出勤の準備を整えてから、玄関を出る。
目の前に静かにたたずむ島田の家に向かい、小さく「行ってきます」と呟き、結衣子は停留所に向かうために階段をおり始めた。
「今日こそ誘う!今日こそ俺は誘うぞー!」
「今日はいつにも増して熱いなあ、松本は」
「あー、ウナギ屋の子にね、クリスマスの予定を訊くらしいッスよ。そんでフリーだったら誘うって魂胆で」
「ははあ、なるほど」
昼食の注文書の前で一人気合いを入れる一砂の様子を遠目に見ながら、島田は呆れたようにこぼす。
その呟きに答えるかのように、スミスは長い体を折るようにして島田の横の座布団へと腰を下ろした。
簡易な長机には棋譜や新聞が並べられ、島田は感心したように頷いて茶をすすった。
将棋会館の一室であるこのスペースは暖房がほどよく効いており、自分の家では寒くて寝られないという棋士が、そこかしこで毛布を掛けて気持ちよさそうに畳の上で眠っている。
スミスは改めて座布団の上に体育座りをし、ニヤついた口元を押さえることなく島田の方を見る。
「どうした、そんなにニヤついた顔でこっち見て」
「いやいや…いっちゃんはいいとして、島田さんってクリスマスは誰と過ごすのかなあと思いまして」
「そんなの訊いてどうするんだよ」
「ん?まあ、単なる興味といいますか。獅子王戦直前のクリスマスと正月、誰か過ごす相手はいるのかなあ、と…モチベーションも違うでしょ?」
で、どうなんです?と訊いてくるスミスからふいと目を外し、島田は苦笑した顔のまま机上の棋譜を持ち上げる。
適当にはぐらかしたが、クリスマスに過ごす相手というキーワードを聞いた時、瞬間的に結衣子の顔が浮かんだ事実は否定できない。
結衣子は誰かほかの男と過ごすのだろうか。
それとも友達か誰かと…?
そこまで考え、島田はハッとある事実に気が付いた。
結衣子の右手の薬指にたまにある、リング。
初めてあったときにも着けていたあのリングは、結衣子が挨拶をして髪をかき上げるしぐさで偶然見えたもので、指に付けている以外でもネックレスとして付けていることを島田は知っていた。
あれだけ毎日身に付けているのだ、よほど大切なものに違いない。
そしておそらく、右手の薬指にも着けていることがあるということは、親しい異性からの贈り物ではないだろうか。
二週間会うことができなかったときに島田の家に様子を見に来たのも、彼女の優しさ故であり、あの言葉も、きっと深い意味などなかったのではないか。
考えれば考えるほど結衣子の顔が霞んでいくような気がして、島田は並べていた棋譜や新聞を小脇に抱えて立ち上がった。
「今日は帰るわ、俺。松本がクリスマス誘えるように祈ってるよ」
「え、あ、島田さん!」
焦ったような表情のスミスを置いて、島田は足早に襖をあけて棋士会館を後にした。
今日は早く家に帰って、数日後に控えた対局に備えよう。
結衣子にも対局が終わるまでの数日間は仕事で家で集中していたいと話してあるから、こちらが出向かなければ会うこともない。
その間に、自分の中で蹴りをつけよう。
この前の結衣子が来てくれたことで芽生えてしまった感情を摘み取るように、自分の中で説得しなければ。
彼女にこのまま感情をぶつけてしまったら、きっと彼女は困ってしまうだろうから。
今の『仲の良いご近所さん』の関係が崩れてしまうくらいなら、自分の気持ちはしまい込むに限る。
うな重を抱えて、棋士会館の静かな階段を上る。
上に近づくにつれて何やら話し声が大きくなって聞こえてきて、いつも先導してくれる事務の人も「今日はいつにもまして騒がしいですね」と苦笑している。
襖を開けてもらい、結衣子がうな重を持って畳部屋に入ると、すぐに目に飛び込んできたのは背中の広い男二人がこちらに背中を向けて並んで座っているところだった。
その背中が見知った人物であることを確認する前に、そのうちの一人がこちらを勢いよく振り返った。
「あ、あ、結衣子さん!こ、こここ、こんにちは!」
「こんにちは、松本さん。…隣のスミスさんはどうしたんですか?」
「結衣子ちゃん聞いてくれよぉお、俺は興味本位で先輩になんて失礼な話題を…」
「お前の話は今はどうでもいい!結衣子さん、こいつのことなんざ気にしないでください!」
「は、はあ…」
うな重を二人の前に置きながら結衣子が困ったように頷くと、一砂は膝の上で握ったこぶしをさらに強く握りしめた。
そして、ずっと意気込んでいた話題を切り出す。
結衣子さんはその…クリスマスの予定はあるんですか?
キョトンとした顔で聞いていた結衣子は、繰り返すようにポツリと言った。
「クリスマス…ですか」
もうそんな季節、と思ったと同時に一人の顔が頭に浮かんだ。
おそらく目の前の松本は自分に好意を持っていてくれるのだろうと、結衣子もさすがに気付いていた。
しかし浮かんできたのは松本の顔ではなく、別の男の顔。
自分より一回りほど年上の、隣人。
不意に浮かんできた顔に自分でも戸惑ったが、次に出てきた疑問はさらに自分をびっくりさせた。
『島田さんは誰とクリスマスを過ごすんだろう?』
『彼女、いるのかな?』
『いるとしたら、どんな人なの?』
なぜこんなことを考えてしまうのだろう。
次々と流れてくる疑問は、とどまることを知らない。
無意識に湧いてくる疑問を胸に、そのどこか別の部分で「やっぱり」という気持ちが生まれる。
信頼できるご近所さんだなんて思っていたけれど、とっくに自分の中での島田の存在はその領域を超えていたのだ。
この前、顔を真っ青にして寝込む島田を前に、自分が言った言葉。
あの言葉に嘘はないし、他の男に「会えなくて寂しかった」なんて言えるような性格じゃない。
やっぱり、島田に特別な感情を持っている。
「…ごめんなさい、松本さん。クリスマスに用事はないんですけど、」
―…好きな人がいて
そこまで繋ぐことはまだ出来なかった。
言葉に出すほどの勇気はなかった。
でもはっきりわかった。
自分は島田が好きなのだ、ということが。
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