お見舞いに持っていく予定だったという袋を覗きこめば、中にはゼリーや水分補給に良いとされる清涼飲料水、一口で食べきれるパンなど様々なものが入っていた。
外出することもできない酷い風邪らしい。
その袋を宗谷に手渡したオーナーは、ついでに彼女の携帯電話も差し出した。
いまいち理解していない表情で携帯を受け取った宗谷に、オーナーは手に持ったメモに手早く文字を書いていく。
[もし何かあったらそれを使って。早智ちゃんにはあなたがお見舞いに行くことをメールしておいたから]
小さく頷いた宗谷に、オーナーもまた笑顔を返す。
お見舞いの袋を持つと、その袋は予想以上に重たく感じた。
普段の生活では将棋の駒を持つことが中心で、それ以上の重さのものとはいっても精々外出時に持っていくビジネスケース程度。
その中身も棋譜や名刺入れ、財布等のためそこまでの重さにはならない。
彼にとって、500mlのペットボトル一本にゼリー数個というものでも十分な重さだ。
袋を持つ手に力を籠め、宗谷は喫茶店を後にした。
彼女の家までの道のりは、先ほど地図を見せてもらったために既に頭の中に入っている。
喫茶店の最寄駅から将棋会館のある方向とは逆の方へ2駅分乗り、降り立った場所は人通りの激しい場所。
平日の夕方という時間のせいか、下校途中の学生の姿も多くみられる。
他の人々と同じように改札口をカードをかざすだけで通り、彼は人に流されるまま駅を出た。
少しずつ薄暗くはなっているものの空はまだ明るく、街灯の光も申し訳なさげ程度の存在感しか放っていない。
駅を出てすぐに広がっていた商店街にちらりと目を向け、宗谷は迷うことなく道を進んでいく。
途中までは同じ方向へ向かう人も何人かいたものの、十分ほど歩けば他にはもう誰もいない。
先ほどの駅の騒がしさが嘘かのように閑静な住宅街が広がっていた。
自分の記憶が正しければ、あの角を曲がれば彼女の住むマンションが見えてくるはずだ。
冷静に目の前の状況と頭の地図を比べ、足を進める。
それらしきマンションに着いたのは、駅から歩いて15分ほど経った時だった。
灰色の壁を基調としたマンションは5階建てで、彼女は4階に住んでいるのだという。
明かりの灯る管理室の前を通り、エレベーターに乗り込み4階のボタンを押す。
黄色く光ったその部分に目をわずかに細め、宗谷は上を仰ぎ見た。
ここまで来てしまったものの、この先はどうすればいいのか。
直接いたわりの言葉を伝えればいいのか、それとも無言で立ち去るのが得策か。
頭は驚くほど回転するものの、これといった選択は思い浮かばない。
そして無情にも、4階に到着したことを伝えるアナウンスと同時に目の前の扉が開かれた。
壁と同じく廊下も灰色で統一されているため、このマンションはどことなく寂しい印象を受ける。
エレベーターから一番離れた部屋、そこが早智の部屋だった。
傍らには階段があるため、彼女はいつもエレベーターを使わずにここを上り下りしているんだろうか。
扉の横に付けられたインターホンに手を伸ばし、指に力を篭める直前に彼はそっと指を離した。
ドアノブに袋を下げ、忍ばせておいたオーナーの携帯を手に取る。
そして電話帳から彼女の名前を探し出し、発信ボタンを押した。
じっと彼女の部屋の扉を見たまま、何も聞こえていない耳に携帯を当てる。
彼女が電話に出ているのか、それとも待機中のコール音が鳴り響いているだけなのか、それは今の自分にはわからない。
しかし、彼女を目の前にしてもそれは同じこと。
今の自分には彼女がどんな言葉を言っているのか、「推測」でしかわからない。
たとえ意味がわかったとして、彼女の声自体は聞こえないのだ。
風邪によってしゃがれた声なのかもしれないが、その変化すらもわからない。
わからないことだらけの自分がこんなに惨めに思ったのは初めてで、その惨めさを目の当たりにしないために電話を掛けた。
こんな自分の姿を彼女には見られたくない。
「……お大事に」
彼女が電話の向こうで聞いてくれているのか、留守番電話に録音されているのか、それとも宗谷の誰にも聞かれない独り言になっているのか。
呟いたと同時に携帯を耳から離し、傍らの階段をすばやく下りた。
彼の革靴の足音は、よく響いていた。
← / →