(「天気雨」、「一瞬の隙」続編) 島田開は今、古風な一軒家の前にやってきていた。 今日は休日の朝であり、いつもの予定ならば緩やかに朝を迎えて洗濯でもして、将棋の研究でゆっくりと一日を過ごすはずだった。 しかし、その予定は早朝の電話により脆くも崩れ去った。 電話の相手は十年以上の付き合いになる男だったが、今まで一度も電話などしたことがなかった。 電話以前に、連絡を取り合うということを一切したことがない。 お互いに顔と名前は知っているが、プライベートの付き合いはない。 島田は別として、電話の相手はもはやプライベートの付き合いというものが誰ともないのではないかと思う。 そんな男から「とにかく家に来てくれないか」と普段なら考えられないような緊迫した声音で電話をされたのならば、行かないわけにはいかないだろう。 しかし付き合いがなかったために家の場所がわからず彼に説明を求めてみても、返ってくるのはとんちんかんな答えばかり。 もともと将棋以外のことは一つも二つも外れたような答えをする男であったが、今回に限っては一つや二つどころの話ではない。 何を聞いても答えは同じ、伝わってくるのは焦りと緊張感のみ。 しかし、彼がなぜそこまで追い詰められているのかはなんとなく推測することができた。 埒が明かないと感じた島田が彼の保護者代わりである神宮寺に電話をしてみれば、早朝からの電話に怒りつつも家の住所を教えてくれた。 「宗谷、来たぞ」 インターホン越しに話しかけてみても、反応はない。 「宗谷」と呼ばれる男がにこやかに応対をしてくれるはずもないとわかっていたため、島田は玄関の扉に手をかけた。 静かにそれを開けてみれば、部屋から出てきたらしい宗谷が廊下の向こうでこちらを見つめている。 「よっ」と手を挙げてみれば、宗谷は弱り切った様子でメガネの位置を調節してから頷いた。 再び部屋へと入っていく宗谷の行動から、島田も「お邪魔します」と声をかけた後に家へと上がった。 綺麗に掃除された家だった。 フローリングの廊下には余計なものが一切置かれておらず、埃も見当たらない。 先ほど宗谷が消えた部屋の入口まで来てみれば、彼が困ったような顔をしてベッドの傍らにひざまずいているのが見えた。 ベッドに横になっているのは、宗谷の妻だった。 将棋会館で何度か見かけたことはあるし、話をしたこともある。 「わざわざすみません、島田さん。寝てるだけでいいって言ったのに冬司さんが…」 「いいんですよ、俺も暇ですから。何か作ってくるんで、台所借りてもいいですか?」 妻が風邪を引いた、と宗谷の口から聞けたのはさつきに料理を届けた後にリビングで話をしている時だった。 普段ならありえない宗谷からの連絡という時点で推測していたことだが、見事に当たりだったようだ。 宗谷がさつきという妻を深く信頼し、また愛しているということは将棋界の中では知る人ぞ知る情報。 多くの棋士は彼が結婚しているということすら知らないだろう。 しかし島田をはじめとした何人かは、彼がいかに妻のことを気にかけているかということをこれまで何度も目撃してきた。 その妻が、今回は病に伏してしまった。 病とはいっても最近の流行り風邪のようで、食事をし終わったらかかりつけ医が診察に来てくれるらしい。 島田が淹れてくれたお茶を飲みながら、宗谷は静かに口を開いた。 「突然呼んですまない、島田が来てくれて助かった」 「いや、俺も意外とお前に信用されてたことがわかってよかったよ」 「恩に着る。…彼女がいないと、何もできないことが分かった」 隣で寝ていた彼女が翌朝になったら熱い顔で苦しそうに呼吸をしていた姿を見たとき、頭の中が真っ白になった。 とりあえず頭を冷やそうと思ったが氷枕がどこにあるかわからない。 体温計もどこにあるのかわからない。 加えて、栄養をつけてもらいたいと思っても料理ができない。 彼女は自分を常に支えてくれているというのに、自分のなんと非力なことか。 しかし何もしないわけにはいかず、助けを求めるためにすぐに思い浮かんだのが島田だった。 彼ならなんとかしてくれるだろうと直感的に思ったのだ。 「料理を始めようと思う」 「いきなりどうした?」 「次にさつきが困ったときに、島田に頼るわけにはいかないから」 煮込みうどんを手慣れた様子で作った島田を見ていたとき、宗谷の心には危機感が募った。 再び島田に頼ったとき、もしかしたら彼女の心は島田に傾いてしまうかもしれない。 結婚しているとはいえ、いつまでも自分のところに彼女の心があるとは限らない。 島田開という男は宗谷から見ても周りから頼られる男であり、性格も何も申し分ない。 だからこそ、要注意人物なのだ。 「島田のことはあまり頼りたくない」 「ああ、まあ…うん」 静かにそう宣言する宗谷に対し、苦笑いをこぼすしかない。 どう見たって、彼女が宗谷以外の男に付いていくことなんてないだろうに。 島田は頭をかいてからまた一口お茶を啜った。 休日がゆっくりと過ぎていく。 今日一日は、この夫婦と共に過ごしてみるとしよう。 END 2013/12/26 ←短編一覧 |