(「天気雨」続編) 数ヶ月に一度、彼女は一人だけで将棋会館に来ることがある。 目的は、宗谷の保護者的役割を担う神宮寺と話をするため。 普段、彼は自分から将棋の世界について話すことはない。 話したとしても、対局した相手について言及する程度。 将棋を打つことが職業である彼の仕事中の姿がどんな様子なのか、そしてさつきといる時のプライベートの姿はどんな様子なのか。 自分のことをほとんど話そうとしない彼の周りを少しでも知りたいと、いつの間にか定期的に行われるようになったさつきと神宮寺の寄合。 「すみません、会長の用事が長引きそうなのでしばらくここでお待ちしていただくことになりますが」 「構いません。島田さんもお忙しいでしょうから、お気遣いなく」 「え、俺のこと知ってるんですか?」 「もちろんです。冬司さんと同期と聞いていますし、何度か対局もされているでしょう」 宗谷の奥さんが来たらロビーに待たせておくように、と神宮寺から事前に指示を受け取っていた島田は、淹れたばかりのコーヒーを彼女の前に置く。 宗谷の妻であるさつきを見たのは、あの天気雨の日以来だった。 期間で言えば、およそ一か月ぶりといったところか。 こちらが一方的に彼女を知っていると思っていたため、彼女が自分の存在を知っていたことに驚く。 すると彼女は、自分と対局した後の宗谷の言葉を教えてくれた。 着実に強くなっている、堅実なプレイで隙がない、お互いに静かに将棋が指せる。 島田さんと将棋を打つのが楽しいみたいです、と笑顔で付け加えられ、島田は頭を掻いてはにかんだ。 あの将棋の神様にそんな風に思われているとは知らなかった。 何も語らない彼だから、自分のことなんて他の人に話したりしていないだろうと思っていた。 しかし、この妻には話せるということか。 「そういえば今日宗谷は?」 「別件で他県に。夕方くらいに新幹線で帰ってくるらしいですから、それまではここにいようかと思って」 「ここにいること、アイツは知ってるんですか?」 「一応知らせてはありますよ。今朝、知らせたんですけどね」 将棋会館に事前に行くことを知らせてしまうと、宗谷は勝手にスケジュールを調整して付き添おうとするのだ。 妻を将棋会館に一人ではあまり行かせたくない、というのが彼の本音である。 しかしその頻度も数ヶ月に一度のため、彼自身も渋々黙認しているという状態。 神宮寺に「さつきちゃんとお前に関しての情報共有させろよ、水臭い」と散々言われたことも影響しているらしい。 当日の朝伝えられたとなれば、さすがの宗谷もドタキャンをするわけにはいかない。 後ろ髪をひかれるような思いで仕事に行ったであろう彼が将棋会館にやってくるのはいつであろうか。 たしか予定では、地方での用事が午後三時ほどまであったはずだ。 「ああ、じゃあまだ時間が」 「ええ、だからゆっくり神宮寺さんを待つことにします」 神宮寺の用事もいつ終わるかわかったものではない。 念のためさつきの来訪は伝えてあるのだが、それでもうまくいかないのは仕方のないこと。 お互いに飲み物に口をつけながら話していれば、将棋会館を出入りする棋士たちが物珍しそうにこちらを見てきた。 将棋会館の事務員でもなければ、記者という様子でもない。 ロビーの一角で和やかに話す二人は、たしかに周りと比べれば浮いていただろう。 天気雨の日にさつきを目撃していたメンバーも通りかかり、驚いたような表情で駆け寄ってくる。 「こんにちは」 「兄者!その方は…」 「ああ、坊も桐山もこの前の天気雨の日に見ただろう。宗谷の奥さんだよ」 「こんにちは。宗谷の妻です」 島田の弟弟子である桐山と二海堂。 さらには今日の対局結果を見るためにわざわざ将棋会館にやってきた松本やスミスも含め、ロビーはにわかに騒がしくなった。 宗谷とは普段どんな話をするのか、家ではどんな様子なのか。 謎に包まれた名人のベールを少しでも剥がそうと質問を重ねる棋士たちに、島田は呆れたように額に手をつく。 もしもこの場に宗谷がいたらどうなっていただろう。 きっと、直接の面識のない彼らはともかくとして自分は一体何をされるか。 「……え?」 もしも、の話をしていたはずだった。 しかし、将棋会館出入り口であるガラス張りの自動ドアの向こうに見えるあの人影。 あれは間違いなく彼だ。 対局の予定もないはずなのになぜか和服姿を着た、彼なのだ。 「さつき、帰ろうか」 「えっ!?冬司さん、なんで…まだ二時ですよ?」 「早く済ませてきた」 腰を浮かせて立ち上がった妻の腕を掴み、宗谷は頑なな態度で去っていく。 地方であった仕事を驚くべき早さで切り上げ、着替えることのないまま東京行きの新幹線に飛び乗ったのであろう宗谷。 その後ろ姿の威圧感に押され、誰も声を掛けることが出来なかった。 戸惑った様子で苦笑いを浮かべながら頭を下げているさつきに対し、呆然としたまま手を振り返す。 まさに一瞬の奪還劇であったが、その中で宗谷から一瞬向けられた視線を忘れることはできそうにない。 いつもの無表情からは想像できないような、熱い感情が籠った目。 視線は恐ろしいほど冷たかったが、彼女に対する言葉は柔らかな雰囲気があふれていた。 蛇に睨まれた蛙の心情はまさにあの時の自分だった、と島田はいまだにひきつった顔のまま手身近なソファに座り込んだ。 「…なんだありゃ」 「やー、待たせたなあ、島田もすまん…ってあれ、さつきちゃんは?」 「今、帰りましたよ。宗谷名人が直々に迎えにきて」 「はあああ!?」 過保護な名人の守りは、どこまでも堅い。 その守りの中で穏やかに笑う彼女の顔が、輝いて見えた。 END 2013/05/18 (1周年企画)葵衣様へ ←短編一覧 |