◎ きみは七色を感じていますか(3)
『ねえ、雨降ってきたよ』
幼馴染みといって仲良くしていた彼女が現れて、そう言った。
僕は突然現れた彼女に驚くより先に、泣いているところを見られたのだろうかとそればかりが恥ずかしくて、慌てて涙を拭った。
なのに哀しみや劣等感から生まれた涙は、簡単には止んでくれなかった。
ひっく、ひっくと情けなく嗚咽を洩らして、ただ隣に座り込んだ彼女に顔を背けた。
それが当時の僕の、精一杯の牽制だった。
雨なんて、降っていなかった。
むしろ夏の日差しが銀杏の木陰から降り注ぎ、腕を焼いていた。蝉が鳴いていた。
けれど彼女はそう言った。
嗚呼、僕の涙のことを雨と言ったのか、と思い至るまでにはかなりの時間を要した。
彼女は沈黙する僕の口の端をみにょんと伸ばして、何か放り込んだ。
僕はいきなり口に放り込まれたそれに吃驚して後ずさったが、対称的に彼女は笑っていた。
『雨、やんだね!』と。
直ぐ後若干の冷静が戻ってから分かったことなのだが、それは珈琲味の飴玉だった。
僕は味わったことのない苦味と甘さのその味を、正直美味しいとは思わなかったが、不思議と不快には思わなかった。
ひたすら彼女の行動の意味を考えていた。
『そのあめだま、大人になれるおまじないがかかってるんだよ』
僕は唖然として彼女を見ていた。にっこりと何処か誇らしげに笑う彼女を。
幼馴染みという名だけの、馴染みのない彼女。自然で不自然な存在。
祖父と祖母に押し付けられるように紹介された彼女に、僕は当然のように心を開いてはいなかった。
彼女が、素朴な人間だということは知っていた。
クラスでも彼女を嫌う者は誰一人としていなかったし、友達がたくさんいたから。
彼女に心を開かない理由はなかった。
ただ、彼女の笑顔が、僕には眩しすぎたのがいけなかった。
彼女が僕に放課後の時間を割いて遊んでくれるのは、彼女の同情なのだと思っていた。
あの日のあの時、純朴な笑顔を真正面から見るまでは。
『おまじない?』
『そう、それ食べたら、大人になれるんだよ』
大人になれるおまじない。
今思うと、珈琲イコール大人の味、という子供らしいの安直な考えからきた言葉だったのだろうが、彼女は自信満々に言い放った。
誰かの入れ知恵だとして、それでもその珈琲味の飴玉には本当におまじないが掛かっていたようで、僕は大人に近付けた気がした。
僕はようやっと真正面から彼女に向き合い、彼女は本当に純朴なのだということを思い知らされた。
同情なんかで『一緒に遊ぼう』なんて言える子ではないのだ、と。
そうしたら答えに辿り着いた途端、今度は哀しくもないのに涙が溢れた。
今まで彼女に対して、否、誰に対しても真正面から向き合わなかった自分が、急に愚かしく感じて。
『ありゃりゃ? 狐の嫁入りかなあ』
僕は、救われたのだと思う。
僕はその笑顔に救われていたんだ。
元気出して! と力加減を知らない手のひらが僕の背中を叩く。
まるで太陽のような明るい笑顔に、つられて笑った。笑えた。
へんなの。泣いているのに笑ってる。
なんでこんなに暖かいのだろう。
――――
それから、物語のようにぱたと僕は泣かなくなった、訳じゃない。
両親がいないことを相と変わらずからかわれたし、傷付いた。
でもその度に、涙しながらも、彼女に相談が出来るようになっていた。彼女の前では、祖父や祖母に言えなかった弱音を吐ける子供になれていた。
時には彼女が泣いていた。
転んだりしたのが殆どの理由だったけれど、僕は笑って、
『雨、降ってきた?』
と言った。からかうように。
すると彼女は直ぐに涙を引っ込めて、気のせいだよ、と笑ってくれた。
そして、ありがとう、と、未だに僕が言えずにいた言葉を簡単に伝えてくれた。
だから彼女には心を開けたのだと思う。
彼女の笑顔を見ると、僕の心の暗雲がなくなり、必ず晴天になった。
今までの豪雨が嘘のように晴れ、幸せになれた。
逆に、彼女は僕の笑顔を見ると、より一層輝いた。
それが何故なのか、はっきりと言葉にすることは難しい。強いて言うなら、彼女だから。
きっと、銀杏の木の下に来てくれたのが唯一の彼女だったからなのだと思う。
唯一の幼馴染み。
やっと馴染めた幼馴染み。
僕には、両親がいない。
代わりに、たくさんの太陽があった。
それは祖父や祖母もそうであったが、一番燦々と輝く太陽は彼女だった。
いつも傍にいてくれて、髪を結ったり、おかずを交換したり、昼寝をしたり。
「なあ」
「ん?」
数学の課題も終わりが見えてきて、少し余裕が生まれた彼女に話し掛ける。
泣き虫だった自分。
太陽だった彼女。
「……幼い頃からさ、今も」
「うん」
ありがと、
と言いたいのかい、と悪戯に笑った彼女がおかしくて。僕たちはまた額を合わせて、笑った。
幸福な時間をきみと共有出来たら、きっともっと幸福になれるよ。
窓の外を見ると、雨は上がり太陽が顔を覗かせていた。その聖母のような陽射しに虹が架けていく。
「虹が出てる!」
「きれいだな」
「うんっ!」
七色。
喜び、哀しみ、楽しみ、切なさ、愛しさ、少しの嫉妬や怒り。
僕たちは親友だ。
恋人同士というならそれはいつかそう思ったときになればいいさ。
僕の唯一。
彼女の唯一。
ゆっくりと、僕たちは虹の上を歩いていく。
ふわりと、七色の風が吹き抜けた。
終
祇園さまへ!
―リクエスト内容―
珈琲味の飴、午後3時、一昔前の流行歌という三題で友情
(幼なじみの女の子と男の子。相手を一番の親友だと言ってる男女の友情的なもの)
―補足―
『みずいろの雨』という唄は、1978年にリリースされた八神純子さんの唄です。
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