企画 / 涙の夜に

 ――涙の夜に――


 雪の降り積もる静かな夜だった。
 幾千もの星が瞬く、辺りの草木の、葉のひとつひとつから影が落ちるほどの、明るい夜だ。夜空は、ラピスラズリの深い色によく似ている。
 その中で一等輝く朱色の星に、親友の面影を見た気がした。その穏やかで、やさしく、そして腹が立つくらいに燦然とした輝きは、確かにそうだ。
 白い雪がふうわりと降りてくる。星の瞬きから僅かな灯りを宿して。それは、星の欠片かと思う。ロマンチストを気取る訳ではないが、そう感じた。手のひらを皿に、雪を受ける。もちろん、とけて、消えた。星は、未だ夜空に輝いているのに……やはり、欠片は欠片に過ぎないのか、と、少し、切なくなった。
 夜空を仰いで、白い息を浅く吐いた。かつて、親友と共に見上げた星空。あの夜もこんな、星降る明るい夜だった。ささやかで、遠い灯りが、瞬いていた。希望そのものとも感じられた輝きを、その色彩を、少しの時間を、忘れたことは一度もない。

「……マクセン、」

 忘れようも、かけがえもない思い出だ。幸福で、無垢だった頃。宮殿を抜け出して、森の開けたところ。星空の下、親友とどんなことを語らっただろう。きっと、今思い返せば笑ってしまうようなことばかりだ。

「コンスタンティヌス様、こちらにいらしたのですね。今宵は一段と冷えますから、中へ……」
「ん、ああ」

 ぼう、としているうちに、背中に手が添えられた。引くでもなく、撫でるでもなく、ただやさしく添えられた小さな手の温もりが、今は熱く感じる。愛しい妻、ファウスタのお喋りな手のひら。この背に語りかけてくれる手のひらは、いつでも、あたたかな安らぎを孕んでいた。

「もう少しここにいるよ。寒いのは、慣れてるから」
「でも……、お身体が強くはないのですから、無理をなさっては」
「平気だよ」

 ――平気だけど、隣に居て欲しい。
 本当に小さな呟きに、ファウスタは微笑んだ。……ああ、似ている。あのラピスラズリに、朱色の星に。

「ふふ、弱気なコンスタンティヌス様。わたくしはいつだって、お側におりますのに」
「あ、ありがとう」
「わたくしのお側にも、いつだって、コンスタンティヌス様がいらっしゃいますわ」

 穏やかでやさしいその声に、今までどれだけ救われたことだろう。ガリア近郊で戦乱が絶えない今も、いつ命が転ぶかも分からないのに、ファウスタは広い宮殿のどこかで、“帰る場所”でいてくれている。ファウスタが微笑むだけで、心は和らいでいく。
 単純な心の造りをしていると、我ながらに思う。

「お兄様のことを、思い出しておられたのですか?」

 一瞬、どきりとして、沈黙。

「う、うん。えっ、なっ、なんで?」
「声に出ておりましたわ。『マクセン』と」
「あ、……なるほど……んんと」
「あの、朱色の星をお兄様と重ねて見ていること。わたくし、知っておりますわ。時折そうして、お兄様を思い出していることも」

 そう、無邪気に笑うファウスタのその向こうに、朱色を宿した雪が降りていく。降り積もる雪の儚さに、涙が込み上げた。

「……、敵わないな」
「分かりやすいお人ですから」

 ファウスタの切なげに揺れる瞳に、息が詰まった。くるくる変わる表情が、――。

 * * *

 “忘れようも、かけがえもない思い出”
 大切に大切に胸の奥に仕舞っていた記憶こそが、この世の不条理を見せるという皮肉。
 紫衣をめぐり対立し、戦い抜いた果ての、残酷な現実だった。眼前には、親友。自分に剣先を突き付けていたのは、あの日共に星空を見上げた、親友……他でもないマクセンティウス、その人であった。そしてその手は、剣を自分に向けていた。
 ――神はご乱心か、?
 あのぎらついた眼は、どんな感情を宿していただろう。突き付けられた剣は、何も語ってはくれなかった。
 運命。心はいつも、状況を一切把握出来ないままそれを迎える。心を落ち着かせる暇も、「マクセン」と親友の名を呼ぶ間もないほどに、一瞬の出来事だったように思う。
 かのミルウィウス橋で、マクセンティウスに剣を突き立てたその瞬間、心の礎とも言えた大きな星は、砕けたと思った。
 ……それから、静かに泣いた。記憶という記憶が身体中を駆け巡り、煤けた心が溜め込んだ悲しみは、涙となって溢れることを、改めて思い知った。
 ――皇帝になる。その選択が、正しかったとは今も断言出来ない。
 
 * * *

「……、コンスタンティヌス様」

 ファウスタの声に我に返った。長い間、放心していたようだった。やはり、身体を冷やしてしまいましたか? と、顔を覗き込まれ、少し身を引いた。

「……そんな顔をしないでくださいな」
「ごめん、俺、」
「お兄様は、コンスタンティヌス様を恨んでなどおりませんわ」
「……、」

 やわらかに微笑むファウスタの眼差しがやさしくて、とうとう涙がひとつ、零れた。ぽろ、ぽろと。
 懸命に拭うのに、とめどなく溢れていく涙に戸惑ったのは自分だ。どうして、つい先日は、普通に親友のことを笑って話したはずなのに。そんな焦燥だけが先走っていき、挙げ句には「そう、これは雪、これも雪なんだ」と、無茶苦茶な言い訳をしていた。
 ファウスタの指先が、大粒の涙を掬っていく。

「ごめん、」
「謝る必要などありませんわ。むしろ、安心したくらい……」

 そう言って、とふんとファウスタの身体が胸に落ちた。トガをぎゅうと握りしめ、頬を擦り寄せて、めいっぱいの抱擁をくれた。ファウスタの髪を、涙がころりと転がっていくのを見詰めている。

「お優しい方」

 涙を掬う指先、重ねられた手と手。ファウスタの手は、自分の胸が詰まり項垂れると、時折こうして重ねられた。穢れのない、華奢な手だ。
 ……ファウスタの言う“優しい”には、一体どれだけの言葉が込められているのだろう。マクセンティウスによく似た、深く輝くその瞳で、どれだけの言葉を語り、そして自分はどれだけの言葉を、受け取れるのだろう。きっとほんの僅かだ。ひとつも取りこぼしたくはないのに、声はほろほろりと、雪のように溶けてしまって、嗚呼。

「ファウスタ」
「はい」
「……何でもない」
「はい、?」

 ――深い、深い夜だ。
 手を繋いで、並んで仰ぐ夜空。
 重ねた手と手が、離れてしまわぬとは言い切れない。指を絡めて、確かに繋ぎ止めておくしか出来ない。
 考えていた。この細い身体のどこに、あたたかな心を秘めているのだろう? その心に、これから何度、触れられるだろう、と。

「あの、ファウスタ」
「ふふ、はあい?」
「……あいしてるよ」

 本当に、小さな幸せがあれば、人は歩いていけると、思う。自分が、そうだから。

「……、声に出ておりますわ」
「だ、出したんだよ!」
「あら、……うれしい」

 朱色の星の、輝きと。空の深さと、涙の味。指先は、冷えて初めて、あたたかな幸福の意味を知る。二人寄り添って、信じた手と手を重ねて、時折見詰めあって。そうして時折、ファウスタと二人で、こんな明るい夜空を仰ぐのだろう。
 いつか自分があの星に並ぶのなら、何色に輝けるのか、思案している。



 ――了


企画/#創作っ子でタロットカード作りませんか
▼恋人
セネ夫さんの世界観、お子さんをお借りしました。
古代ローマのコンスタンティヌス帝、その奥さまのファウスタさんです。
楽しく書かせて頂きました!
ありがとうございました!

(後書きは後日ブログにて)


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