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泣いている諏訪子は、初めて見た。
諏訪子は、僕が幼い頃から既に屋敷にいた。
当時は僕より少し背が高く、一人っ子の僕は諏訪子を本当の姉のように慕い、後ろを付いて歩いたものだ。二人はしゃいで廊下を駆け回り、縁側でキュウリをぱりぽり。スイカの種をどれだけ遠くに飛ばせるかと競いあったりもした。諏訪子は転んだり、食べるのが遅かったり、種も飲んでしまったりしていたけど。たくさん、笑った。
僕の記憶に諏訪子が泣いている姿がない。僕が泣きじゃくっていて、諏訪子が慰めてくれている光景なら、いくらでも思い付くのに。
『若さまったら、なきむしですねぇ』なんて笑う、“諏訪ちゃん”。
いつからだっただろう。諏訪子が、あまり笑わなくなったのは。
諏訪子。……諏訪子さん。
あなたの肩は、こんなにも細かったですか……?
「旦那さま、旦那さま、わたくしは、胸が苦しくて苦しくてこんなにも、……、」
「諏訪子さん、何度もしつこいようですが、一体どうしたというのです。こんなに泪する理由が、僕にはさっぱり……」
問う。根気強く、やさしく。しかし問えば問うほど、諏訪子はいっそう泪して僕の胸に顔をうずめた。
つらい、つらいと嘆き、泣きじゃくる諏訪子。
僕はすっかり閉口してしまい、ひたすらに仔をあやすように背中を撫でた。
紫紺の空も暗い藍色に染まり、辺りを照らすのは数少ない灯籠の明かりのみとなる。月は……悪戯に隠れている。
「……わたくしは」
微かな聲を聞き洩らすことのないよう、耳を、口元へ。
「雪のように真っ白な、鳥になりたいのです」
「鳥……?」
不意に諏訪子の手のひらが僕の頬を包んだ瞬間、一瞬だけ二人の時が止まった。……気がした。潤んだ瞳で囚えられ、僕は息を飲んだ。なんと艶やかな瞳だろう、とつい魅入れば……
――青
心の臓が跳ねた。突然の青に戸惑いを隠せず、二歩、三歩と後ずさると、諏訪子の手はするりと僕の指先から流れ落ち、力無く垂れ下がった。
泪が、ぽんろぽんろとこぼれていく。
トンボ玉のような、色とりどりの泪が、……青い瞳から。
何故? さっきまであなたの瞳は、薄茶けた色だったではありませんか? なんて、聲にならない。
諏訪子は痛ましくもやさしい微笑みを浮かべ、こう言った。
「白は、きれいですよね。旦那さまは、白い花がお好きですよね。白い仔猫も。白い綿飴も。旦那さま自身、真っ白な心をお持ちで……なにより、雪が、すき……、」と。
『本当にあなたは、どうしてしまったというのです?』それも、聲として形にすらならず。
(……はね……?)
泪が青い、羽根に変わって……、
ひいら、ひいらる、ひいら、ひいらる、ひらる。
柔らかな青い羽根が、“諏訪子から”舞い落ちていく。幾つも幾つも、まるで花が散るように。
「わたくしは白く、白くいたいと思うのです。旦那さまの好きな雪のように、真っ白でいたいのです」
目元から、首筋から、指先から、淡い光を纏い舞い落ちていく、青い羽根。あの夏の空を思わせる青が、ひらるひらると諏訪子の足元に……そうして積もる頃にようやく、吁、君は“ヒト”ではなかったのか、と。
青い羽根が、舞い舞う踊り踊る静けさに、先ずは呼吸、と意識しなければ、それも出来ぬほどで、故に寧ろ美しくもある。
「気味が悪いでしょう、ごめんなさい。ごめんなさい。わたくしが、せめて白い鳥なら、旦那さまの指にも止まれたのでしょうか……。ごめんなさい。……ごめ、なさ……」
いつしか微笑みは悲痛な表情となり変わり、淡く光る数多の羽根は途切れ途切れの聲と共に泡沫となり。やがてその場にへたれ込んだ諏訪子は、既に言葉も紡げず、ただ泣き時雨るばかり。
自分に何か出来ることは? 何も、無い。
常軌を逸したあまりのことに、腰が抜けなかっただけまだ、ましだと感じていた。膝が笑う。非日常がそこにある。
どれくらいの時間、僕は棒立ちで青い羽根を見詰めていただろう。“諏訪子から”生まれる羽根も、ひいふうみ、幾つ舞い落ちただろう。
――諏訪子は、どれくらいの苦しみを抱えているだろう。
ふとそんな考えに至り、瞬間僕の膝は笑うことをやめた。諏訪子が、つらい思いをしているというのに僕は。
積もる羽根を踏んでしまわないように、足場を見付けてはとん、とんと渡り、諏訪子の隣の灯籠に腰掛けた。立ってはいられない。近くにいれば輝きを増す神秘の青に、今度は魅せられてしまったから。
それから、躊躇っては引っ込め、ゆっくり差し出し、躊躇っては引っ込めと繰り返す手。
思い切ってようやく触れた、諏訪子の黒髪を撫でながら、青い羽根を見詰めて僕が言えたことといえば、「泣かないでください」。震えた、情けないだけのそんな科白だけだった。
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