最近、臨也の様子がおかしい。気のせいか、なんて端から思うこともないくらいおかしい、というか変だ。
 行動だけ見れば、普通になっただけだった。静雄にちょっかいを出すこともなく、静雄を前にしても嫌味を言わず、静雄に対してナイフを振りかざすこともない。
 ただし、その『普通』は一般の人間にとっての『普通』であって、折原臨也という人間の『普通』からは大きくかけ離れているというのが、誰もの共通認識で間違いないだろう。
 それでも臨也が普通になったのなら何も問題はないはずなのに、それはそれは盛大な問題があった。
 静雄は思う。臨也は『普通』じゃなく、『変』になったのだと。
 そして自分も──。





「シズちゃん。おはよ」
 気配は感じていたのに振り返ることはしなかった。ここ最近のことを思えばそれは正しい選択だった。
 それでもこうして穏やかに、くすぐったい響きで挨拶をされてしまえば無視をするのも憚られ、不本意ながらも返すしかない。
「……おう」
 仏頂面には変わりはないがハッキリ声に出すと、小走りで隣に並んで、ふわっと邪気のない笑顔を浮かべる臨也を横目で見てしまい、ぞわぞわと背筋を怖気が走った。
 臨也は最近よく笑う。笑うだけなら前から顔面に貼りついたかのように薄笑いを浮かべていたが、それとは性質の違う笑い方が静雄の肌を粟立たせる。
 ぴくっとポケットに突っ込んだままの握りしめた手が反応するのを感じて、辛うじて耐えた。静雄とて何もしてこない相手に反射で拳を振り上げるほど馬鹿ではない。たとえ相手が、殺したいと思うまで蛇蝎のごとく毛嫌いしていた折原臨也だとしても。
 それに今は嫌いか、と問われても戸惑うばかりで。
「今日も暑いねえ」
「そうだな」
 ぽつりぽつりと、当たり障りのない会話。毎日天気の話が最初に出てきてしまうのは芸がない。だが、静雄と臨也の間では、それくらいしかまともといえる話題を提供できないのも事実だった。
 実際、暑かったのもある。通学路沿いにある家の庭にひまわりが咲いていたが、例年よりは少し時期が早めだ。あと少しで夏休みに突入するという時期で、もし自由研究にひまわりの観察を選ぼうとしていた小学生は泣く泣く変更するしかない。
 まだ気温が上がりきらない、清々しいはずの朝の通学風景も、何故か隣に並んで登校する男のせいで以前のようなイライラではなく落ち着かなくてどうしたらいいかわからない。
歩幅が微妙に違っていて、ふとすれば先に足が出てしまいそうになるのを堪えるのはなかなかに難しい。それでも黙々とただ歩いていると道路が開けて、少しだけ涼しい風が当たる。風向きのこともあり、風上に位置する臨也から漂う独特の匂いが鼻孔を掠めた。
 つられて視線を移せば、匂いの元も静かな瞳で静雄を見ていて、目と目がぶつかった瞬間、眉尻を下げて笑って見せた。
 臨也の苦笑と呼べるその表情を見る度に、静雄はなんとも言い難いむず痒さと同時に早く目の前の男を捕まえなければ、と変になってしまう前からの気持ちが膨らむのを感じていた。




 あの日。
 いつもヒョイヒョイと、走ってるのか飛んでるのかわからないステップで逃げ回り、気付けば見失ってしまうことも多い相手だ。だから、追い詰めたと思った屋上で取り逃がしたのは何度舌打ちしても足りないくらいだった。
 横を抜けられたときに、ふわっと臨也の匂いが強く纏わりついて自然と頭に血がのぼる。こうなると駄目だと思ってもブレーキが効かなくなって、臨也以外見えなくなってしまう。追いかけて追いかけて。頭に浮かんだことをそのまま叫ぶ。止まれ、殺す、死ね、色々あったが、その追走劇で最後に静雄が口にした言葉は、いざや、だった。
 崩れ落ちた、ように見えた。操り人形の糸が切れた時のように、カクンと音がしそうな動きで臨也が倒れ込んだのだ。
 それからのことは微妙に思いだしたくないことばかりで。倒れ込んだのを放っておくことができずに、担ぎあげたことも。その時に触れた足が異常に熱く腫れていて、近くにあった花壇の水撒き用の蛇口を捻りハンカチを濡らしたことも。全部が迂闊だった、と思う。
 何が何だかわからないまま新羅の家まで臨也を運ぶことになった時には、肩の上でケラケラと笑っている男を、さすがに手刀で黙らせようとして新羅に止められた。今の臨也は静雄の手刀一発で死んじゃうかも、と言われ、好都合のはずなのに躊躇ってしまった。
 静雄の心情を察したか力が尽きただけか、その後マンションまでの道中はだいぶおとなしくて、投げ出すこともなく役目を果たしたときには主に精神面での疲れがどっと出てしまい、勝手にソファに横になってしまったのだが。


 目が覚めて、いつもの布団と違う感触と寝ぼけた頭では自分がどこにいるかわからなかった。
 周りも暗くて、電気が点いてない代わりにカーテンを閉めてない部屋の中にはネオンの明かりが僅かながら入り込み、やっと新羅のマンションのリビングだと認識する。着いたときには日の長くなった空はまだ明るかったのに今は真っ暗。時計も見えず何時かもわからない。
 まだ頭はボーっとしていて、何で新羅のところに居るのか思いだそうとしていると、ポケットの中で携帯が震える。静かな暗闇でバイブの振動音がやけに大きく響いて、何もやましいことなどないのに慌てて取り出し確認した。
 二つ折りのそれを開いたときのカチッという音にも過剰に反応しながら見てみれば、朝、静雄にハンカチやら何やらを手渡してくれた弟の幽からで。今日の夕飯はどこかで食べてくるのか、というメールだった。一緒に液晶に表示されている時間を見ると、普段家で夕飯を食べている時間帯なので無理もない。
 腹は減った。昼だって結局食べそこない──さっきの続きを思い出していてハッとした。そうだ、臨也は?家主である新羅もどこへ行ったのか、部屋は暗いままだ。
 だらしなく横になったままだった身体を起こすと、携帯のぼやけた照明を頼りに電気のスイッチを探す。なんとなく、そろそろと音を立てないように動いていて、だからこそ気付けたのかもしれない。
 扉越しに聞こえてきた新羅の声に、思わず息を潜めた。
「自己管理が聞いて呆れるよ、全く」
「これ、あとどれくらい?」
「点滴?ちょっと早めてもいいけど、逆に負担かかると思うよ?」
「うーん……俺はいいけど、シズちゃんがなあ」
 自分の名前が出てきたことに、ますます身動きが取れなくなる。扉の隙間から漏れ出る光で横にあるスイッチにも気付いたのに、押すための指は上がらない。
「さっき見たら寝てたよ。起きたら帰らせるから大丈夫じゃない?もしかして静雄と一緒に帰るとでも言うつもりじゃないだろうね。間違いなく君は泊まりだよ、臨也」
「えー」
「わざとらしい。自分でわかってるだろう?君は今日、静雄と追いかけっこなんてするべきじゃなかった。朝から屋上だって知ってたから、私だって静雄の気を引いたりまでしてあげたのに」
「恩着せがましい男は嫌われるよ、新羅」
 何のことを言ってるかはわかるのだが、意味がわからない。なんで走り回ってはいけないのか。なんで朝から臨也が屋上に居たから静雄の気を引くのか。
 それに対して恩着せがましいと返すのは、恩を着せられたという自覚があるということだ。
 カツン。カツン。
「そんな感傷じみた似合わない真似してるからだよ。こんなに身体ボロボロにして失恋記念とか、もうちょっと相手選びなよ。せめて顔真っ青にして私の手を煩わせることのない相手にしてほしいね。今日はセルティが泊まりがけの仕事で居ないからいいけど、この間みたいなことになったら次は見捨てるよ」
 カツン。
「今回はたまたまだよ。まさか嗜虐趣味だなんて思わなかったからさ。……大丈夫、もう迷惑かけないよ。なんなら約束してもいい。」
「そんなこと言って、また携帯いじってるじゃないか。カツカツうるさいよ、その失恋記念」
 さっきから新羅の言う『失恋記念』というのが何を指してるのかわからないが、臨也と失恋という単語は頭の中で上手く結び付かない。何しろ折原臨也という男は顔だけは格段に良いのだ。それだけは静雄にだって認めざるをえない事実だった。
 青年とはまだ呼べない中途半端な年代の中でも、その中性的な外見は目立つ。染めてる者も多い中、珍しいほどに真っ黒な髪に、日に焼けないのか透き通るように白い肌だけでも他の学生より浮き上がって見える。それに付属する女より長い睫毛や、笑みの形に彩られる薄い唇。全体的に柔らかい印象を与えるのだろう。男女年齢問わず、もてていた、と思う。
 静雄が知る限りでも、何度も女子に呼び出されたりしていたはずだ。不本意ながら腐った性格を嫌というほど知ることになってしまった静雄は、外見はあまり気にしていなかったのだが。
「んー、今までの人のアドレス消してる。あと俺に心酔してる奴らも面倒なのは切ろうかなって」
「おや。どういう心境の変化だい」
「迷惑かけないって言ったろ」
「もしかして静雄?」
 暗がりで、身体がビクッと揺れた。
「どうかなあ?」
「ま、私には関係ないけど。……うわ、何その顔気持ち悪いなあ」
「失礼だな」
 クスクスと笑う臨也の声は軽やかで、静雄が耳にしたことのない響きに心臓がズクンと音を立てる。
 顔が、見たいと思った。
「……シズちゃんがさあ、足冷やしてくれたんだよ」
「へえ、静雄が」
「うん。それだけ」
「……もう寝なよ。そのガラス玉、今度こそ増えないといいね」
「うん」
 疲れが出たのか、体調も悪いのも影響してるのだろう。臨也の声はすでに半分夢の中のような、とろとろとまどろんでいるのは扉越しでもわかった。

 今の会話はなんだったのだろう。
 新羅とは小学校が同じで、その新羅は臨也と中学が同じだ。自分と新羅の間には友情というには微妙な、変態と観察対象と呼んだ方がしっくりきそうな間柄を築いてきた。でも、臨也と新羅は中学時代の三年間でそれなりに何か繋がりを結べていたのかもしれない。
 無駄に口数を多くして、じゃれ合っている時もあれば、今のように互いのことをわかったうえで他人には気取られない会話をすることもあった。静雄では入り込めない会話。気にならないといえば嘘になる。自分の名前が出ていて気にならない方がおかしい。それでも静雄は動けなかった。臨也は寝てしまったのか、隣の部屋からは話し声どころか身動きする音も聞こえない。
 足冷やしてくれたんだよ、と語る臨也の嬉しそうな涼やかな声だけが、固まったままの静雄の脳内を駆け巡っていた。





 数日前の自分を思い出し、臨也と目を合わせられなくなり視線を逸らして再び日差しの強い通学路を歩き出す。
 校舎が見えるまで、もう少し。周りにも通学途中の生徒の姿がちらほら見えるのに、静雄と臨也を避けるかのように遠巻きで、ぽっかり区切られた道で肩を並べていた。

 あの日から、流れる空気まで意識してしまう。手を伸ばしたい。そよそよと風に揺れる細い髪に、指を絡めてみたくなる。
 静雄にとって他人を意識するということは特別なことだった。いつも意識することすら無駄だと思っていたから。
 それなりに自分を客観視できる静雄は、自分が周りに与える印象も、他人が見る自分という人間も理解して全てどうでもくなっていた。大事なものを壊す力は厄介で、どれだけ努力して抑え込もうとしても、怒りで目の前が真っ赤になってしまえば次に思考が回復するのは全部終わってからだ。
 でも、臨也は。臨也なら、前から意識していた、と言ってもいい。感情の向かうベクトルは違っていたかもしれないけれど、正直、あの臨也の嬉しそうな声を聞いてしまってからは臨也に対するいろんな感情がごちゃ混ぜになってなんだかわからなくなってしまっていた。
 それでも、臨也の態度が変わって。もういいか、と思ってしまった。
 前から触れたかった。捕まえたかった。そこだけは何も変わらないのだから。


 予感はしていたのだ。シズちゃん、と、臨也があの日と同じ声で呼ぶのが耳に入ったときに。次に言われることも。
 だから、顔は見れないながらも答えた。ただの返事、ということではなく、気持ちを返す意味合いを込めた──つもりだった。

「俺、シズちゃんのことが好き、なんだ」
「……そうか」

 その応答に、複雑に歪んだ思考回路を持つ臨也が、どう感じるかなんて。
 静雄にはこの時点でわかるはずもなかった。



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