行き場がなかった。
 でも行き場がないなんて、そんなこと思いたくなかった。





 ぼんやりとした意識から浮上する。そのきっかけになったボソボソとした声が耳ざわりだった。
 最近珍しくもないデザイナールームを売りにしたラブホテルの一室で、だだっ広いベッドの上に一人でいる。シーツは乱れぐちゃぐちゃとしていたが、その全てを被るようにして片側に寄り転がっている。体温を吸い取ってるはずなのに冷たくなってる布のさらりとした感触が気持ちいい。
 隣には何もない。誰もいない。聞こえてくる声は壁を前に横向きに寝ている自分の背後、ご丁寧に壁を回った後ろあたりで話しているらしいが隔てるドアなんてないから丸聞こえだよ、間抜け。とは、心の中で思っておくだけにしておく。
 切羽詰まり何事か慌てるように話している内容なんて耳に入らなくてもわかってた。
 ビル造りになっている一室には窓がない。この前のコテージタイプのホテルは窓が開いて、周りもぐるっと見えないように柵で囲まれていて良かったのに。夜の冷えた空気に身を晒すのは結構好きなのだ。
 いつの間にか止んでいた声がすぐ近くから呼ぶのが聞こえ、いかにも今起きましたという態度を作った。作る必要はなかったのかもしれないけれど、せっかく最後なんだし。
「会社に呼ばれちゃってさ、悪いけどもう行くよ」

 どこにでもいるような普通のサラリーマン。その手の人間に有名な古い映画館で声をかけられ、差し出された手を握り返した。ありきたりな恋愛映画は、目で追っていただけなのでストーリーさえ覚えてない。カタカタと聞こえる、建物と同じくらい古いだろう映写機の音だけがやけに耳に残っていた。
 まあ言ってしまえばこの男の顔だって数時間後には忘れてしまっているのだろう。
 それでも数時間、数時間は覚えてよう。会社じゃなくて本当は奥さんに呼ばれたってことも知ってるし、欲しい言葉は今回も貰えなかったけど。一時は体温を共有した仲なのだから、それくらいしてもいい。
 眠そうなふりをして薄く笑い頷くと、男も曖昧な笑みを浮かべサイドテーブルに財布から紙幣を数枚取り出し置いた。ホテル代にしては少し多いそれからは敢えて目を逸らし、振りかえることもない背中に向けて小さく手を振る。すでにフロントに連絡を取っていたのでドアはすんなり開いた後、小さな音を立ててまた一人にした。
 少し寝ていっても良かったが、起きてベッドの上やら下やらに散乱してる服を身に付ける。身体のベタついた部分は面倒だったので身体を包んでいたシーツで拭った。シャワーは浴びるつもりもない。病気を気にしたのか、マナーを守るタイプなのか、おそらく両方だろうがコンドームをきちんと使用してくれたので身体の奥に精液も残ってない。
 全て着こんでからポケットをまさぐり携帯を取り出すと、そこから伸びるシンプルなストラップを指でなぞる。
 丸い、色とりどりのガラス玉が連なっていて、それらが零れ落ちないように結んでいる紐を器用にほどいた。長さに余裕がある赤い紐に、同じポケットから出した新たなガラス玉を通すと、ガラス同士がぶつかって涼しげな音が耳を打つ。
 何度も聞いて慣れてしまったその音。けれど慣れたいと思ったことなど一度もない。
 ひとしきり傾けたりして音を鳴らしたあと、きつく、今度こそこれをほどくことがないように願いを込めて結び直す。それを淡く薄い間接照明に透かすように持ちあげて思い出した。
「明日、入学式だったっけ……」
 思わず口から出る。面倒だな、と、頭をよぎるけど、足は自然にドアに向かう。柔らかい絨毯が靴音を隠し、それが全く感じない後ろめたさを少しだけ思い出させるけど足を動かす速度は変わらない。
 途中、サイドテーブルの上にある紙きれを無造作に掴んで支払いを済ませ部屋から出た。さすがに自分の年齢を考慮しエレベーター内でフードを目深に被り、ホテルから遠ざかる間にも弄っていた携帯の先でガラス玉が踊るように揺れていた。





 空が高い。
 そう思ってから実際によく使われている言葉なのに意味がおかしいんじゃないか、と考える。空に高さなどはない。人間の視点から見て空は広いと表現するのが正しいように思うのだが、実際に広いと表現されるのは海だ。
「うーみーは ひろいーな おおきーいーなー」
 口ずさんでみても海を最後に見たのは数年も前の話なので実感も何もない。いつも見ているのはやっぱり空だ。はっきりどこからが空と呼ぶものかわからないところも好きだった。
 この来神高校に入学してからお気に入りの場所となった屋上の給水塔の影で丸まって寝転がり、今日もフェンス越しに斜めから空を見ている。
「臨也ー?」
 ギギギ、と、建てつけの悪い屋上の扉が開き、この学校では二番目に臨也の名前を口にすることが多い人物が顔を覗かせた。
「新羅。何?」
「またそんな隅っこで飽きないねえ、君も」
 扉の影からゆっくりと近づいてきた新羅の手には弁当袋が握られている。
 そうか、もう昼休みか。そういえばチャイムの音が聞こえた気もする。寝不足の頭はふわふわと空がなんだ海がなんだと考えてばかりいたので、耳に拾ったはずの音も認識できてなかったのかもしれない。
「せっかくの陽気なのに。一味爽涼も覚えず暗いところで昼寝かい?」
「こんなに眩しくちゃ寝れないよ。ここなら影になってるから涼しいし」
「朝からここ?」
 珍しく親切心を発揮したのか、新羅がはい、と手渡したものはミネラルウォーターだった。気にするような男ではないので、礼も言わずに受け取ると一気に呷る。まだ冷たい水が喉を潤し、そこで初めて喉が渇きを訴えていたのに気付いた。
 新羅の言う通り朝からこの場所にいた。まだほとんどの生徒が登校もしてないほど早い時間、教室に寄ることもせず真っ直ぐに屋上まで階段を駆け上がった。
 季節上ではすでに春は過ぎ、夏に突入しようというところ。今年の梅雨はそんなに雨が降ることもなく気温が上がり始めたので、連日カラっとした日差しが目に痛い。屋根がない屋上での居場所はもっぱら給水塔の影になる部分を移動しながら転々としていた。
「朝からここに来てるの久しぶりだね」
「まあね」
 隣に腰を下ろし、手作り弁当の蓋をそれはそれは大事に開いて満面の笑みで食べ始めた新羅は、いかにその弁当が美味しいか素晴らしいかを語っている。こちらは完全に右から左だろうとそんなことは関係ない。
 この変人の同居人に対する言動が飛び抜けてしまうのは出会った時から慣れているので、相槌も打たずに携帯を取り出した。画面上では封筒マークが知らせる未読メール。見るだけで済むのもあれば返信をしなければならないものもあり、カチカチと慣れた速度で指を動かす。
 カツン。カツン。いつも通りの音を奏でるのは。
「ちょっと見ない間に増えたね」
 それ、と、行儀悪く箸で差された先で揺れるストラップ。
「ちょっとって、新羅が最後に見たのいつさ」
「卒業式くらいかな?」
「ちょっとじゃないよ、それ」
「期間と数を比例して言ってるんだよ」
 わざと含んで言ってる言葉はスルーした。誰も新羅にわかってほしい訳じゃない。それに新羅では臨也の望むものは絶対に与えられないと知っているのだ。
 本人だってわかってるくせに時々この話題に触れてくるのは嫌味か、心配か。

「いぃざあぁやあああ!」
 爆発音は空気を切り裂くような咆哮と同時。
 内側から言葉通り弾け飛んだ屋上の扉はひしゃげたままフェンスを越えて落下していった。これは角度的に校舎沿いに並んでいる花壇が犠牲になったかもしれない。
「やあ静雄。手当しようか?」
「マジで殺す殺す殺すいざやああてめえええええ!」
「うん、聞こえてないね。まさに猪突猛進」
 新羅は手当と言ったけれど、目の前で仁王立ちする男はパッと見外傷はない。ところどころシャツが切れてるのに血が出ている様子もない。
「新羅、それ冗談?シズちゃんどこも怪我してないじゃん。さすが化け物だねえ!」
「いや、外見のみで判断しちゃいけないよ、臨也。静雄だって、もし万が一、色々巻き込まれて飛行機とかにぶつかって内臓破裂とかしてるかもしれないじゃないか」
「……新羅よぉ。てめえも死にたいか?あぁ?」
「その権利は臨也にあるから私は謹んで辞退するよ」
 そんな権利はこっちだってお断りだ。無謀ともいえる冗談を口から滑らせている新羅に静雄が気を取られてる一瞬が勝負だった。
「じゃあね!早くご飯食べないと食いっぱぐれちゃうよー!シーズちゃん!」
「くっそ……!てめ、待ていざやああ!!」
 階段をぶち抜きそうな勢いで駆け上がる音が聞こえていた時点で、逃走する準備はできていた。
 問題は出入り口をその長身で塞がれてしまうことだけだったが、新羅の思ってもないナイスアシストで横をすり抜けることに成功。身長だけじゃなく手足も長い静雄が手を伸ばしても数センチの差で届かない。
「臨也もご飯食べるんだよー」
 ドアが消えてるおかげでそんなに大きくない新羅の声まで聞こえるが、被せて何度も唸り声をあげる静雄にすぐ遮られてしまった。相変わらず、この学校で一番臨也の名前を呼ぶランキング一位を絶賛更新中は間違いない。
 軽口を叩くのは止めずに階段の手すりをヒョイと飛び越えルートを短縮しながら一階まで辿りつくと、迷わず開いた廊下の窓から外に飛び出した。昼休みという時間帯なだけに、教室以外の場所に生徒がいすぎて走るのに不都合だったからだ。
 入学してから間もないというのに、二人の追いかけっこは学校中に浸透してるらしく道はすんなり開く。それでも曲がり角の先まで見通せる能力は持ち合わせてないので、やはり人波は邪魔でしかなかった。
「っ……!」
 読めないのは曲がり角の先だけではない。今日の運は臨也に優しくなく、窓を飛び越え着地した先の地面に石が埋まってるなんて。
 靴底が滑った態勢を無理矢理戻し足をついたら激痛が走った。完全に捻っている。こう急激に足の関節を無理に動かした場合、運が悪ければ靭帯も何らかの損傷を被ってる可能性だってある。
 運が悪いというのは重なるようにできていて。少しだけスピードは落としたものの、じんじんと痛む足は引きずらずに動かしていた。背後から聞こえる怒鳴り声の近さに身震いしただけ、と思ったのに。
気付いたら世界が回り──あ、死んだなこれは。





 カタカタと鳴る映写機。
 プツリプツリと途切れがちの映像が流れるスクリーン。
 古臭い恋愛映画は幸せそうな大人の恋愛を繰り返し映し出す。大好きだと。愛してると。紡ぐ大人達は自分の目には滑稽に思えた。
 それでも多感な年代を通り抜け、周囲の同世代はみな滑稽だと思った大人へと沈んでいった。その心境が知りたかった。
 大人のふりをして身をおいてわかったことは、映画の中のように現実はいかないということだ。
 自分から仕掛けることが面倒だし、人に愛されたいという気持ちから同性相手が多かったが、身体を繋ぐことがメインになってしまう。体温を感じるのは好きなので、そこに不満はない。
 ただ、熱を吐き出せば大人の時間は終わってしまうのだ。
 もっと、もっと知りたかった。
 誰かに、言って欲しかった。





 ズキン、と、強烈な痛みに目を見開いた。状況も把握できないまま、あまりの激痛に悲鳴ともつかぬ声が漏れる。
「痛ぇか。まあ、痛ぇよな」
「…………シズちゃん、何、してんの」
 校舎裏手、少し建物から離れた位置にある卒業生の記念植林で覆い茂った場所。絶好のサボりポイントとしても有名なその一本の木に、臨也は寄りかかるようにして座り込んでいた。
 衝撃的だったのは足元に、すごく近い距離に、見慣れた金髪があったこと。ギクリと身体が条件反射で強張ったら、またしても鋭い痛みが襲う。そういえば色々と状況整理が追いつかなくて忘れていたが足を捻ったのだった。
 ……その足を、どうして、さっきまで追いまわしていた静雄が握っているのか、理解できない。
「かなり腫れてんな。右足より随分太いぞ、これ」
「ったあ……!ちょっとシズちゃん!痛い痛い!」
「うっせーなぁ。冷やしてんだからおとなしくしてろ」
 冷やす?
 よく見れば確かに足に濡れた何かが当てられている。足が放つ熱の方が高いので気付かなかった。当てるというよりそれごと握り潰されてるような圧力がかけられていて、圧迫治療じゃ意味ないよ、と、つい口から出そうになる。
 静雄の手に握られているびしょ濡れの布はハンカチにしか見えないけれど、ハンカチを持ち歩いてる静雄という微妙な想像がさらに混乱を呼んだ。
「シ、ズちゃん、」
「喋んじゃねぇ」
「…………」
「あー、倒れたんだよ。つか、イラついて足潰したくなっから喋んな」
「何それ。横暴──いでででででっ!」
「喋んなっつったよなあ?ああ?」
 若干、涙目になってしまったのも仕方ない。
 静雄は力を制御するのが苦手だ。本人にしてみれば不要なだけの力は、その爆発的な威力のコントロールを許さない。そっと、そっと、扱おうと思ってるのだろう。それでも臨也が相手じゃ無意識に掴む指がギリギリと食い込むし、それを悪いとも思ってない。全部、臨也のせい、と静雄の中で結論は出ている。
 嫌いで。殺すと言い。その相手の足を冷やす──目の前の男。

「優しいのって卑怯ー……」
 空笑いと共に、掠れたような、音にもならないような声しか出なかった。
 日差しは眩しく、照らされた金色の髪がさらに輝いて見えて、視界に入れないようにと手で塞いだ。逆に臨也の頭上には緑が覆い茂りぽつんと身体の上にだけ影を落としていて、それでもその影を吹き飛ばすほどのキラキラとした光の優しさが。こんなにも暑い中でおかしいくらい冷えて強張っていた四肢を溶かしていくのを感じる。

 昨日見た映画館でのワンシーンも。
 人の身体を散歩する日々も。

 疲れていたわけじゃない。嫌だったわけでもない。当然後悔なんてするわけもなく。ただ、与えられない言葉の隙間に、僅かな優しさがするっと入り込んできた。
 気まぐれなのか、何も考えてないだけなのか、やっぱり静雄のことはわからない。見るからに仏頂面で、それだけ見れば機嫌が悪いのは丸わかりなのに行動が伴わない。
「シズちゃん」
「口、閉じろ」
「シーズーちゃん」
「……うぜえ!」
 またギリっと掴むのに、振り払われない足はじんじんと痛みを訴えてきて。痛みは感じていても笑いが止まらなかった。 静雄の力で掴まれたら痕が残って暫くグロテスクな指の形の痣になるだろう。そんなことにも気が回らないくせに、と笑い声が加速する。
 すでに何度目かわからない舌打ちをしながら、臨也に視線を向けることすら放棄した静雄は自分でも何をしてるのかわからなくなってきているのか、温くなったハンカチを投げ捨て素手で臨也の足を撫でていた。
 その指の動きがくすぐったい。
「あー、チャ、イム鳴ってるねえ!アハハ!」
 何限の予鈴か本鈴かもわからない音が聞こるのすらツボに入ってしまって、とうとう「何がおかしいんだ手前!」と、足を握りしめたままの静雄の反対の腕で頭を叩かれた。



 結局、その日の授業が全て終わるまでそんなやり取りをしたまま、放課後に突入。探しに来た新羅が「何があったかはどうでもいいけどさ。珍しいついでに担いででも何でもいいからうちまで臨也運んでくれない?」と言った。
 今までの治療費で半ば脅されるように従ったシズちゃんの盛大に歪んでいる顔にまた爆笑して、振り落とされそうになるのを堪えながら端々が汚れて切れているブレザーにしがみ付く。
 ゆっくりと揺れるリズムに映写機が刻む音を思い出したけど、全く重ならなくて安心した。

 倒れた原因が別にあって捻挫はついでと静雄が知るのも。
 ガラス玉の行方も今はどうでもいい。



 ぼんやりと腰を下ろした優しさに、心ごと縋っていたかった。



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