呼びたい、呼ばせて。










次郎、と呼びたい。
唐突にそんなことを思った。
佐久間、ではなく次郎、と。
それを声にすると多分確実に蹴りが飛んでくるだろうと思って言わないが、名前で呼びたい、そう思った。


「次郎、」


そしてそのままうっかり、声に出して呼んでしまっていたのだった。
自分でも驚いてしまって、あ、と声に出した時には既に遅く、同じく驚いたのだろう佐久間が片目を見開いてこちらを見ていた。
隣の座席に座っている今の状況はなんとも息苦しい。
怒るかな、と思って身構えていたが、特にそんな反応はなく、かちんこちんと擬音がいるような固まり方をしている。
こんな状態の佐久間を見れるなんて、レアだ。
と呑気にそんなことを考えて油断していると、蹴りではなく、平手打ちを背中にべちん、と食らわされるのだった。
いや、べちんなどとそんな可愛らしい音ではなく、バッチーン!と思いっきりである。


「…いっ!!!」
「うっせぇ!黙れ!!そんで急に呼ぶな!!!」


蹴りは蹴りで痛いが、平手打ちは地味に痛い。
これは確実に背中に紅葉が降臨しているに違いない。
涙目で少々むせながら佐久間のほうをちらりと見ると眉間にしわを寄せてぜぇぜぇと何故か肩で息をしている。
そしてキッと俺のほうを睨む。
やっぱり、怒った。
出来れば佐久間の機嫌を損ねたり、佐久間の嫌がることなんてしたくもないので言うんじゃなかったなあ、と後悔が募る。


「なんで急に。」


そんな唐突で、短い疑問が投げかけられる。
表情は険しく、俺を睨んだままで。
「呼びたかったから呼んだ」と素直にそう、いや、実際そうとしか言いようがなかったからだが、そう言う。
すると佐久間が座っていた椅子からがたん、と音を立てて立ち上がる。
そして座ったままの俺を見下ろしながら口を開く。


「で、何の用だったわけ、幸次郎。」


はっきりと、これまた唐突に俺の名前を呼ぶものだから、今度はこちらが目を見開く番だった。
さっきまでの顔はどこへやら、得意満面といった顔で、まあ、要するにどや顔である。
ああ、これは確かに、心臓に悪い。
普段から源田源田と呼ばれていて、急に幸次郎では、やはりどきり、とするものだ。
心臓に悪い。


「これで分かったろ。急に呼ぶな。」


そう言って佐久間はどさり、と椅子に座る。
しかしそれに懲りることなく、俺は次郎、と呼びたいと思う。
先程のどきりとする感覚、俺は多分、嫌いじゃないのだろう。


「次郎、」


ともう一度呼ぶと、頬杖をついて窓の外を眺めていた佐久間の体がびくり、と跳ねた。
もう一度、「次郎」とその滑りの良い名前を口にする。
何度だって呼びたくなるその三文字が、とても不思議だ。
あまりにも執拗に呼び続けていると、佐久間が勢いよく振り返る。
それは先程までの驚いた顔ではなくて、赤く染まった照れ顔だった。
睨みつけてきてはいるものの、その威力はあまりなく。
どちらかというと別の意味での威力を発揮しているような気がしなくもない。
可愛いなあ、などと言ったら今度こそその機嫌を底辺まで落としてしまうに違いないので、言わない。
同性の、同年代に可愛いなどと、思った時点で俺の負けである。


「源田、おまえ…」
「幸次郎。」
「は?」
「だから、幸次郎。」


呼びたいのとともに、呼んでほしいとも思う。次郎と幸次郎。
似ているようで違う響き。
佐久間の口からもう一度聞きたいと、我儘になる。
本当に先ほどとは打って変わってうろたえる佐久間の顔をじっと見つめる。
真剣に、ただ呼べ、呼んでくれ、と念じながら。
ころころと表情が変わる佐久間の顔に諦めの色が浮かんだ。
俺がこうなると聞かないことを、佐久間も知っているのだ。
佐久間も佐久間で我儘だが、俺も俺で我儘だ。
はあ、とため息をひとつ。
特別大きいのを頂いた。
そして真っ直ぐ俺のほうに体ごと向き直し、見つめる。
その目は酷く、真剣だ。


「…幸次郎。」


どきり、とした。
佐久間のその時の表情が、普段から綺麗な彼であるのに、余計にきらきらと輝いてすら見える。
今まで親や親戚、友人たちにその名を呼ばれることは多々あったが、名を呼ばれるだけでこんなにも心臓が跳ね、幸せな気持ちに浸れるなんて、今までなかった。
幸福、とかそういう言葉では言い表せない、それ。
温かい何かが体中を駆け巡って、心地いい。
この名をくれた親に、今死ぬほど、感謝したいとまで思う。
先程呼ばれた時より幾分、小さく頼りない声ではあったが、しっかりとその名を口にした。


「あー、やっぱ無理。照れる、恥ずかしい、死ぬ。恥ずか死ぬ。」


そう言ってまた体を元の位置に戻し、顔面を片手で覆ってしまう。
その細い、褐色の腕を掴むと、再び佐久間がこっちを向いた。


「もう、呼んでくれないのか?」
「…偶になら、呼んでもいい。」


目を反らせながら、そう言われた。
まあ、偶に、のほうがいいのかもしれない。
毎日となると身が持たないし、有難味が減るというものだ。
その答えに満足して、話題を変えるため、今度は「佐久間」と呼んだ。




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「杞憂」の柳さんへ相互記念に^^




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