Novels/Crescent Winter
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 大学に入るとき、在学中にはなりたいものを見つけてね、と親に言われて早三年、成りたいものって何だっけ? やりたいことってん何だっけ? 思いつくことは全て、今楽しいことばかりで、将来とか考えたくないし、   見たくない。
 今の俺は、ただ息を吸って吐いてるだけの存在だ。


 音楽を聴きながら地下鉄が来るのを待つ。今日も人が多い、少しあたりを見渡せば、参考書を見ている高校生、忙しそうに携帯をいじっている中高年、階段を駆け上がっていくスーツ姿の人たち。静かに眠る赤ん坊。
 どこにでもあると分かってる風景から目を逸らしたくて、音楽プレイヤーを取り出した。曲を変えるでもなし、音量を変えるでもなし。ただ目を逸らした。
 地下鉄が着けば、中から流れ出る人、この狭い空間にこんなにも人がいるのかと毎日のことながら思う。
 前の人について行くように、車内に乗り込み空いている席に座る。
 隣の高校生は英単語帳をめくって勉強をしてる。俺にもこんな時代があったよな、三年前だけど。なりたいものを見つけて、親と先生が言った言葉が蘇る。
「やりたいことなんてない」
 小さい声で呟いた、生きる意味すら分からないのに。

 ふっと気が付いて、重たい瞼を持ち上げる。どうやら寝ていたようだ。今どこくらいだろう。閉じてしまいそうな目を開いて前を見た。
 そこは見たことがない場所、天井も壁も真っ白だ。驚いて立ち上がる。座っていたのは木目調のどこにでもあるベンチだった。
「なんだよ、ここ」
 つい零れ落ちた言葉に返してくれる人もいない。
 鞄を手に持ったまま、全体を見てみる。今座っていたベンチと、少し離れた処に柵のようなものが見える。その柵の向こう側に一際目立つ、赤錆色。どこかぼんやりとしていてそれが何なのかはよくわからない。
全く知らない場所で動き回るのは得策ではないのだろうが、白の中にある赤錆色に対する好奇心の方が勝った。恐る恐る柵の方に近づいてみる。柵に近づくにつれて、赤錆色したものがはっきりと見えてくる。それは、列車だった。
 赤錆色した車体に、白で書かれた「特別特急」の文字。どうやらこの白い場所は駅らしい。
 赤錆色の正体とこの空間について何となくわかったところで、好奇心よりも疑問や困惑が強くなってきた。今のところ、この場所が駅で、目の前にいるのは列車であることはわかった。でも、なんで俺がここにいるのか、それがわからない。寝ぼけてどこか違う駅で降りた? こんな白い駅は見たことがない。こんな場所に来たこともなければ、聞いたこともない。道を間違えようにも学校までの間は乗り込んだ地下鉄駅から乗り換えなしでまっすぐ来れるため、降り間違えることもない。
 なぜここにいるのか、なぜベンチに座っていたのか、わからないことが多すぎる。
 日頃から考えることを放棄しているこの頭は、錆付いて、必要な時ですらも考えることができないようだ。
 どうしようと、考えたところで答えは出ないけど焦りばかりが先行してくる。とりあえず、出口を探さなきゃと思い至るまでにどれくらい時間がかかったことだろう。不機嫌な声に呼ばれるまで、他に人がいることにすら気が付かなかった。
「おい、チケットみせろ。あと少しで出発時間だ。」
 不機嫌そうな声に話しかけられ、声のした方を振り返る。そこには、何かの制服を着た、俺と同じくらいの年齢の男が立っていた。
「もう、時間なんだよ。チケット早く出せ。」
 突然現れた俺以外の人間を呆けてみてると、男はいらいらとした様子で、チケットを催促してきた。
「いや、気が付いたらここにいて、チケットなんて持ってないです。そもそもチケットって何ですか?どうやったらここから出られるか考えていたくらいですし……」
「ポケットの中は?鞄の中も探してくれ、チケット持ってない奴は乗せられないんだよ。」
 そもそも列車に乗る予定もないと言おうと思ったけれど、有無をも言わさぬ気迫に、鞄を地面に下して、開いた。苛立っているような、呆れているかのような声で言われたようにポケットの中、鞄の中を漁ってみるけど、それらしきものは一つも出てこない。
「やっぱり、ないです。」
 伺うように、男の方を見ると、小さい声で、マジかよ勘弁してくれよ、と呟いていた。それから、まじましと俺の方を見たかと思うと、名前はと訊いてきた。
「山口です。山口 友紀です。」
「山口 友紀ね。チケット本当にないんだよな?」
 チケットはないし、できればここから早く戻りたいと思っているのに、目の前の男は無線で誰かに連絡を取り始めている。俺はできればここからいつもの日常に戻りたかった。
そろそろ帰る意思を伝えようと口を開きかけたその時、男の持つ無線機が呼び出し音を響かせた。男はそれに応答すると、無線の向こうから聞こえるか、聞こえないかの声が聞こえてくる。少しの間、会話を続けていたが、話終わったのか、無線を仕舞うと、俺の方を見た。
「よし、チケットないけど、そのまま乗り込め。」
「えっ?あっ、ちょっと待ってください、乗れないじゃなかったんですか?」
「上に聞けば、思ったより早く許可が下りた。早く乗ってくれ、出発時間過ぎてんだよ。」
 乗るつもりがないことを伝えようとするも、さっさと乗れと言わんばかりに列車の中に押し込められた。
 文句の一つも言おうと思ったけれど、笛の音が聞こえてきた。笛の音が鳴りやまないうちに目の前で扉が閉まり、列車は動き出す。
 呆然とする俺に、にやりと笑っている男、試乗用チップと大きく書かれたチケットを渡され、腕を引かれて立ち上がる。
「今回は特別に試し乗りの許可が下りた。少しの時間だが、試し乗りを楽しんでいってくれ。」


 空いている席に座るように言われて客車に入ると、誰もいなかった。座席はJRにあるようなボックス席で、ワイン色の座席は見るからにふかふかとしている。
「今は、お前一人だが、これから客がどんどん乗ってくる。相席になることもあるからな。」
 今どき相席になるようなことがあるのかと思っていたから、気の抜けた返事になってしまった。男はそれを気にした風もない。
 座る場所を考えることも最近なかったが、ドア付近は人通りが多くなると男が言ったので客車の真ん中らへんの席に座った。
 成り行きでそのまま列車に乗ってしまった。でも、駅で乗らないという選択をしたところで、帰れるかどうかも怪しかったからよかったといえば良かったのだが、どうにも無理やり乗せられたのに納得がいっていない。端的に言えば、俺の意思に関係なしに乗せられたのが不満なだけだ。不満にしてはあまりにも子供っぽいけれど。
 事が過ぎてから、不満や愚痴を言い出してしまう。よく親に終わる前に本人に言えばいいでしょと言われる。悲しいことに、小学校の時からこうなのだ、今更治せるはずもない。
 俺が席に着いたのを見届けたと思えば、いなくなっていた。話す相手もいないから、暇になった。窓から外の風景を見てみる。外の景色を見ていると車内にアナウンスがかかった。聞こえてくる声は先ほどの男の声であることがわかる。三ツ川駅を発車し、次は不動前らしい。
 外は真っ暗で、たまに光が二つ、三つと過ぎ去ってゆく。ぼぅとしながら見ていると、途中から地平線のように赤色が線状になって見えた。
「綺麗だろう、代わり映えしない景色だが、たまにこんな綺麗なものを見せてくれる。」
 声に驚き振り向くと、男が仏頂面を少し緩めて笑っていた。
「あの、いろいろ聞きたいことがあるんですけど?」
 無理やり祖せられたこともあり、俺はこの列車がどこ行きなのかも知らない。「試し乗り」ということで乗せられたこともあるから、質問位しておきたい。
 なんだ? 答えられる範囲で答えるぞ、とのことだ。
「この列車はどこ行きなんですか?」
「循環線だ。この列車には始発駅も終着駅もない。」
「チケット代なんですけど、ただ乗りというわけにもいかないと思うんですけど?」
「百円、百円くらいならあるだろ。今回はそれで十分だ。」
「えっと、百円ですよね。本来はチケット代ってどれくらいかかるものなんですか?」
「人によるな、どれだけの金をかけたか、どれだけかけてもらえたか。家どうのもあるが、結構人柄に左右される部分もある。まぁ、どれだけ金がかかったとしても乗る列車は同じだけどな。」
 なんだか妙なシステムだ、金のかかり方は違うけど、乗る列車が同じって、そしたら皆、金のかからない方を選びそうなものだ。よくわからない。よくわからないことが多すぎる。
「あの、失礼かもしれないんですが、どうして俺は試し乗りすることになったんですか?」聞いて大丈夫なのかわからなかったことを聞いてみた。男はまじまじと俺を見て、ふっと笑ったかと思うと。白手袋を履いたままの手で俺の頭を優しく叩くと、小さなことに気づけばいい、そう言って手を放した。
「小さな事って、」
「それは自分で考えろ、いや感じろが正しいか?」
 まあ、頑張れとだけ言って、客車から出ようとする。
「あの、今更なんですけど、なんて呼べばいいですか?」
久々に声を張った気がする。声も裏返ってしまって恥ずかしい。でも、聞いておかないと話しかけるときに、あの、とか、その、とかになってしまうから。
男は、手をひらひらと動かしながら、
「俺は、この列車の車掌さ。それだけだ。」
と言って客車を後にした。


 いくつかの駅を停まって、発車してを繰り返した。たまに人が乗ってきて、他の席に座っていった。大体の人はうつむいていて、泣いている人もいた。楽しそうな人、嬉しそうな人は見つけられなかった。
 どこに行っても、どこかに移動する人は暗い顔をしているなと思いながら、外を見る。外は暗いままだが少し赤みが増してきているようにも思えた。窓に映る自分の顔も疲れたような、諦めたような顔をしていた。
 俺って、こんな顔してたっけ? 高校の時はもっと違った顔をしていた気がする。いつからこんな感じになってるんだろう?

 一駅過ぎて、二、三人の人が乗ってきた。女の人が一人、男の人が二人。その後ろに車掌さんがいる。
 車掌さんが元気そうなおじいさんと話していると、俺の方を見て少年と呼んだ。
「少年、早速だが相席頼んだぞ。高島さんだ。」
 そういって、俺が何かを言う前に、高島さんというのであろうおじいさんに、よろしくお願いします、と声をかけていなくなってしまった。
「はは、ではでは相席失礼しますよ。」
 苦笑いしながら、俺の向かいにおじいさんが座る。とても優しそうな、「紳士」という言葉が似合いそうな人だ。
「えっと、よろしくお願いします。山口です。高島さんとお呼びしてもよろしいですか? 」
 親と先生以外の大人と話す機会なんて今までなかったから、どうしたらいいかわからない。いざ、話してみると声が震えてどうしようもなかった。
 恥ずかしいな、なんて思っていたらおじいさんはにこやかに笑っていた。
「ふふ、高島さんなんて久々に呼ばれたよ。十年くらいおじいちゃん、やら爺さんとばかり呼ばれていたからね。名字だと落ち着かないから、爺とでも呼んでおくれな。」
 高島さんは、おじいさんと俺は、山口くんと呼ばれることになった。口調も砕けてほしいとのことがったので、砕けることにした。
「おじいさんは、どうやってこの列車に乗ったんですか? 俺は気が付いたら駅にいたんですよね。」
「そうなの! 僕は事前に分かっていたからね。列車だということには驚いたけど。」
 おじいさんの話を聞いて、首を傾げた。事前に分かっていたけど、列車であることは知らなかった、どういうことだ?
「えっと、俺やっぱり自分が置かれている状態わかってないみたいです。事前に分かってたって、どういうことなんでしょうか?」
「うん、僕はね。ガンだったんだ。発見した時にはステージWで、他の部分にも転移してた。お医者には長くないといわれたよ。もって二か月とね。だから事前に分かってたんだ。」
 えっと、つまりおじいさんはガンで、長くないことを知ってて、知ってたから列車だとは知らなかったけど、事前に分かってたってことか? 列車だとは知らなかった。でも分かってた。
「もう、亡くなっているということですか?」
「うん、そうだね。七月五日、午前五時三十八分、享年八十五だ。最期までお医者の声と妻の泣き声を聴いていたよ。」
 亡くなっているのか、違うと言って欲しくて、聞いた時の顔を見たくなくてうつむいていたのに、おじいさんの返答を聴いて、顔を上げた。
 ひどく穏やかで、優しい声だったから。顔を上げれば優しい顔をしていたから、なんで、と口から零れ落ちた。
「老いて死ぬ、それが摂理だからさ。でも山口君、君はまだだ。車掌さんが言っていたよ。君はまだ試し乗りだと。気づいて欲しいことがあるから、少し話をしてくれないかと頼まれたんだ。」
 何も言えなかった、この列車の意味を知ってしまって、目の前のおじいさんが既に亡くなっていることを知ってしまって。おじいさんは笑って、初めはね、と続けた。
「初めはね、お断りしようと思ったんだ。僕は素晴らしい人間だったわけじゃない。ただ凡庸にサラリーマンとして働いて、会社を退職してからは、パートとして雇ってくれるところを探してってね。
でも、車掌さんが、どうしてもといってね。顔だけでも見ようかと思ったら、山口君でふとね話したいなって思ったんだ。拙いけれど、話して伝えたいなって思ったんだ。だからね、僕のお話し聞いてくれるかい?」
はい、と小さい声で頷いた。おじいさんは優しい声のまま話した。
「私はね、退職後パートをしながら妻と暮らしていたんだ。妻とはそこそこ仲は良かったと思うよ。無理をさせていたかもしれけど。ある日の夜に、背中とわき腹に痛みが出て、皮膚に黄疸が出たんだ。ただ事じゃないと思って病院に行ったら、ガンで、胃にも転移してた。あと二か月と言われて、驚いたよ。恐ろしかった、今まで意識していない死を意識したんだ。まだ八十二だし、知り合いでも九十言っている人もいるから、まさか僕がと思ったよ。
入院してから、申し訳程度に抗がん剤を打って、髪はどんどん抜けていった、恐ろしかったし、怒りも沸いた。何故かはわからなかったけど、すごく怒っていたんだ。」
言葉を切って、少し悩んでいるようだ。手を組み直して、口を開きかけ、閉じるを繰り返す。目が涙で光る。
「一度、妻に怒鳴り散らかしたんだ。妻は何も悪くないのに、怒鳴ってから驚いたよ。今まで怒鳴ることなんてなかったから。自分で言ったのに、震えていたんだ。するとね妻が、お出かけしましょって、病院の中にずっといると気が滅入ってしまうのよって、そう言ってくれたんだ。申し訳なかった、不甲斐なかった、妻は泣くことも、怒ることもせず笑っていたよ。外出の許可をもらって、初めて外に出た。風の音、鳥の泣き声、子供の遊ぶ声に、暖かな日差し。全てが久しぶりで美しかった。自分が生きていると全身が感じたんだ。喜んだよ、自分はまだ生きていると。しばらくしてね、赤ちゃんを連れたお父さんとお腹が大きなお母さんが前を通ったんだ。新しい命を見て、僕たちの子どもが宇、生まれたときのことを思い出して嬉しくなった。と同時にね、死ぬことを受け入れたんだ。僕が死んで、新しい命が生まれる、それこそ摂理とね。」
 おじいさんは、俺の頭を撫でた、撫でられるのはいつぶりだろう。
「山口君、死は平等だ、でも恐れなさい。『生きていること』を感じるために。」
 そういって、では降りる駅が近くなってきたからと、おじいさんは席を立つ。
 アナウンスが、もうすぐ駅だと伝えている。デッキに行こうとするおじいさんの手を掴んだ。おじいさんは、やはり驚くでも、怒るでもなく優しい顔をしている。言いたいことはたくさんあった。言葉になるものではなかったけれど、話してもらったことを伝えたくて、
「ありがとうございました。」
 その一言しか言えなかった。感想文だったら評価も何ももらえないものだ。だけど、この一言が全てだった。
 おじいさんは、俺にありがとうと言って列車を降りた。

 「良い話は聴けたか?」
 おじいさんが降りて行ったあと、うつむいていた俺に車掌さんが話しかける。
 とても良い話が聴けましたと、良いかながら顔を車掌に向けると、車掌さんは小さい男の子の手を引いて立っていた。車掌さんの顔は心なしかやつれている。男の子は不安げに目をさまよわせて、今にも泣きそうだ、
「どうしたんですか?」
「すまない、少しこの子を見ててほしい、下車駅に着く前に迎えに来るから。」
「俺で大丈夫なら良いですけど、どうしたんですか?」
「色々手違いがあって、違う場所に行かせてしまったんだ。それがわかって、この便で連れていくことになった。これ位の年齢の子のための便は別にあるんだが、他の駅に止まらないんだ。この便は各駅停車だからな。」
「それは、お疲れ様です。大丈夫ですよ。」
 車掌さんの仏頂面が少し疲れている。どうやら連絡とその対応で追われていたようだ。
 車掌さんは、屈んで男の子と目線を合わせて、駅に着くまで俺と一緒にいるように言っている。仏頂面が崩れないから男の子は怖がって泣きそうだ。
 席に座ってもらって、車掌さんは早々と客車を後にした。男の子を見れば、まだ泣きそうだ。知らない人と相席としてるんだからそれは泣きたくなるだろうな。
「えっと、こんにちは。俺は山口 友紀です。お名前教えてほしいな?」
「たけしだよ。六才になったんだよ。」
「たけし君なんだね。大変だったね、あっちこっち行くことになっちゃって。」
 そう言うと、たけし君がどんどん泣きそうなってくる。
 どうしたの? と訊いてみると、とうとう泣き出してしまった。
「お兄ちゃん、ぼく、ここどこだか分んない。おうち帰りたい。」
「そっか、おうち帰りたいよね。ここに来る前にどこにいたか思い出せる?」
「公園でね、友達と遊んでたんだ。そしたらボールが飛んでったんだよ、そしたらね、知らないところにいて怖い人に連れてこられたんだよ。」
 泣きながら言う言葉をまとめていくと、公園でボール遊びをしていて、ボールが車道に出てしまい、確認しないまま飛び出して車にぶつかった、ということのようだ。怖い人は、たぶん手違いを起こした人なのだろう。
「お兄ちゃん、おうち帰りたい、いつ帰れるの? 僕ね、おひさまバイバイしちゃう前に帰んないと怒られちゃう。昨日の昨日にね、六才になったんだよ。新しいおもちゃ買ってもらったんだ。おうち帰って遊びたい。」
 泣きながら訴えるたけし君に俺は何を言うべきなんだろう。たぶん答えなんてないけど、本当のことを伝えて終わるものじゃない。俺を何を伝えればいい?
 お兄ちゃん? とたけし君が俺のことを見上げてくる。きっと俺も車掌さんも彼の中で家まで届けてくれる人なんだろう。
「うん、ごめんね。俺にはちょっとわかんないな。でも大丈夫だよ、たぶん怖い人は少ないと思うよ。車掌さんも怖くなかったでしょ?」
「怖かったよ、お兄ちゃんみたいに笑ってくれないもん。先生がね、笑わないと幸せになれないって言ってたんだよ。だからね、みんなでいっぱい笑うことにしてるんだ。」
「えー、車掌さん、怖いかなー?きっとね、車掌さんは怖い人じゃないよ、たぶん不器用な人なんだよ。」
「そうなんだ、あのね僕ね、土曜日にね、お父さんとお母さんが水族館連れてってくれるんだよ、そこでねいっぱいお魚見てくるんだよ、それからね、月曜日にあきら君とあやちゃんと一緒に遊ぶんだよ、それからね……」
 たけし君と話していて気づいたことがある。もしかしたら、たけし君はもうおうちに帰れないことをわかっているのではないか、だ。
 それからのお話をたくさんしてくれるけど、たぶん家に帰れると信じているなら、夏休みの話をしたり、冬のスキー学習を楽しみにしているなんて言わないだろう。
「たくさん、楽しみなことあるんだね。」
「うん、楽しみだったよ。」
 たけし君は笑って、楽しみだったといった。理不尽だ、そう感じた。こんな小さい子が死んで、こんな禄でもない俺が生きている。
 アナウンスが入り、次の駅名が三ツ川河原駅だと告げている。たけし君がそわそわし始めた。
「たけし君は大人になったら何になりたいの?」
「消防士さん! おっきい車に乗りたい、お兄ちゃんは? 何になりたいの?」
「俺はどうしようかな? どんなお仕事似合うと思う?」
「お兄ちゃんはね、車掌さん! きっと格好いいよ。」
 そうかな、と話していると車掌さんがきた。すっと屈んでたけし君に降りる駅だと告げている。
 屈んで話しかけているあたり、車掌さんは優しいんだと思う。仏頂面で不器用なだけなんだろうな。
 たけし君が席を降りた。車掌さんが優しく手をつなぐ。
「それじゃあ、降ろしてくる。」
「お兄ちゃん、バイバイ!」
 手を振って、車掌さんと一緒に客車を出て行った。三ツ川河原駅、三途の川の賽の河原か。
 窓の外を見てみると、乗り始めたときよりも少し明るくなっていて、小さな、石がいくつか積み上げられた、塔が見える。
 やりたいこと、なりたいものについて、本気を出して考えたことは今まであったのかな。ないんじゃなくて、ちゃんと考えてなかっただけなのかな?


 扉が閉まり、列車が動き出す。他の乗客も少なく、少し明るくなっていた外もまた暗闇に戻り始めた。
「楽しんでるか? また暗くなってくるが、綺麗なものが見れるぞ。」
 車掌さんが向かい座る。当分乗客が乗ってこないらしい。背もたれに体を預けて足を組む。
「彼は?」
「無事に、降りて行ったよ。担当者も迎えに来ていた。全く、末端だからっていつでも対応できるわけじゃない、気を付けてもらいたいもんだな。」
 そうですか、と返した。
「……で、どうするんだ。」
 車掌さんが訊いてきた、目的語も何もないけど何を指していくかは、何となくわかった。
「うん、もう少し頑張ってみるよ。車掌さん、俺さ何になるのが似合うと思う?」
「そうだな、車掌になるか? たけし君が言ってたぞ、少年の方が車掌に向いているとさ」
「そっか、目指してみようかな。きゃんと考えてみるよ。」
 それから、沈黙が続いた。そこには居心地の悪さはなくて、穏やかな時間が流れていた。
 目をつぶっていた車掌が目を開けた。
「もう少しで、一回りだ。降りる準備しておけ。」
 そういって、席を立ち制服を軽く直す。
「車掌さん、ありがとう。おじいさんと話すことができたし、たけし君とも話すことができた。」
「……そうか、次は八十、九年後に来いよ、次は正規料金だ。」
「わかってるよ。次はちゃんと用意してくるから。」
 列車は静かに白いホームに入る。
「この列車の名前わかるか?」
「いや、知らないけど、なんて名前なんですか?」
「アルデバラン、意外と少年に似合う名前かもな。」
「アルデバラン、ですか?どんな意味なんですか?」
「自分で調べろ、現代っ子だろ?さぁ、目覚める時間だ、乗り過ごすなよ。」


 すっと、目が醒める。聞きなれたアナウンスがまもなく大谷地だと告げている。鞄を持って立ち上がった。
 階段を上って外に出れば、暖かな日差しに、優しい風。学校に向かって歩きながら、今日の予定を立てる、まずは情報室で車掌のなり方について調べよう、それから意味を探そう。「アルデバラン」の意味を。
- ナノ -