「うん。満潮付近でもこのくらい浅いなら大丈夫だな」

ぽっかりとした洞窟が波で埋まるレベルならば市民に開放するわけもないので、関係者公認の秘密基地らしい。隅でせっせとゴミをまとめるスタッフに頭が下がる。もっと奥に行こうよ、と湊が先を指差した。少々凹んでいる程度に見えていた洞窟は案外深いようだ。曲がりくねった先には何があるのだろう。等間隔で灯りが用意されているのだから、立ち入っても文句は言われまい。薄暗い中を恐る恐る歩く。踏み固められた砂が冷たくて心地いい。
分岐点で急に立ち止まった湊の背にぶつかりそうになる。子供が横道から飛び出してきたようだ。ごめん、と振り返った湊が再び進み始める。何度も曲がりくねって、ようやく開けた場所に突き当たった。さっきの入り江よりもやや広い浅瀬だ。こちらは若干波が立っている。海側から回り込むことができないように『遊泳禁止』のロープが洞窟出口に張り巡らされていた。みなのいるビーチへ帰るには往路をそのまま辿るしかないようだ。

「こっちは何があるんだろ?」

陸側は洞窟から浜辺に出られる道があったらしいが、現在は岩で塞がっているとのこと。こちらも立入禁止の札が提げられていた。なーんだ、とつまらなさそうに彼は嘆息する。しかし何気なく浅瀬に視線をやると、ぱっと瞠目するなり地を蹴った。その勢いに遥は気圧される。

「な、なんだ」

小走りで波打ち際に駆け寄った彼は、流れ着いた砂利を指先で懸命に掻き分けている。やがて摘まみ出したものを海水でそっとすすぎ、自慢げに掲げて見せた。裸眼視力1.2は伊達じゃない、とばかりに。

「見てこれ! 桜貝!」

はしゃいだ声に呆れのため息が漏れる。何かと思えば貝か。桜の花弁を模していることから名付けられた貝が、遥にはマニキュアを塗った爪に見えた。風情も何もあったものじゃない。

「もっとないかなー」

発作的な潮干狩りに取り憑かれた恋人が、目を凝らしながら細かい砂を探る。気持ちの面で置いてけぼりの遥は手持ち無沙汰に辺りを見回した。爪の中まで泥を蓄えて貝探しに勤しむつもりはない。すると、今来た道のすぐ手前に細い分岐点を発見した。暗がりで奥がどうなっているかはよく見えないが、今更特に危険もないだろう。幅一メートルもない道をひとりで進んでいく。
岩肌はじっとりと湿っぽく、所々に苔が生えている。風もろくに届かない場所なのだろう。小さな灯りだけを頼りにおっかなびっくりで探索していくと、やがてカーブを曲がった先に妙なものが見えた。

(あれは……)

どん詰まりの最奥を陣取った、古びた祠だ。手前にロープが張ってあるのでそこで立ち止まって目を凝らす。褪せた岩に刻まれた文字は風化しており、申し訳程度の賽銭箱もぼろぼろに朽ちている。括られたしめ縄の紙垂が風もないのにふらふら揺れるのが不気味だ。得体の知れない何かが、ここまでおいで、と自分をいざなっているかのようで。
ぞわりと背筋を嫌な汗が伝い、遥は慌てて踵を返した。その時だ。

「な、に……」

誰かに、触れられた気がした。下腹の辺りを優しく、柔らかい手のひらで。
瞠目してラッシュガードをめくっても、薄くて生白い己の腹があるだけ。傷も痣も見当たらない。それでも煽り立てられた恐怖には勝てず、遥は足早に駆けだした。早く、早く戻らなければ。脚がもつれ、幾度も壁に衝突しそうになる。

「はーるかー、どこー? うわっ!」

分岐で呑気に自分を探していた恋人に身も世もなく抱きついた。彼は目を丸くしている。

「なに、どうしたの? 大丈夫?」

人目がないのを幸いに、とんとんと宥めるように背中を撫でてくれた。頷いて、震える体をごしごしと擦りつけて、ようやく安堵に浸る。が、向こうに家族連れの影がちらついたのでさっと離れて彼の腕を掴んだ。

「行くぞ」

「え? どしたの?」

事情が呑み込めない恋人は首を捻るばかりだが、遥はさっさとこの場を離れたかった。どこか、もっと賑やかで明るい場所に出たい。もどかしい気持ちで、腕を引っ張って彼を促す。ああ、このままでは今晩ひとりで入浴できないかもしれない。
違う、気のせいに決まっている。淀んだ空気を吸って感覚がおかしくなっていただけだ。灼熱の陽光で浄化されればいい。早く、早く。
――どくん。

「!」

はたと遥は足を止めた。何だ今のは、と考えるより先に次の衝動が訪れた。心臓がひときわ大きく脈打ち、火にかけた鍋のように腹の中がふつふつと熱を持ち始める。

「遥?」

恋人の異変に気付いたのだろう、湊が心配そうに顔を覗いてくる。

「どうかした?」

「っ、な、んでもない」

暑さと疲れで参っているのだ。そう言い聞かせないとその場に膝をついてしまいそうだった。覚束ない足腰を奮い立たせて一歩一歩を踏み出す。
何とか元の浜辺まで帰りつき、レジャーシートのある岸壁の陰に腰を下ろす。湊がクーラーボックスからさっと冷たい飲み物を取り出した。キャップを捻り開けて差し出す。

「軽い熱中症じゃない? さっきから顔赤いし、苦しそうだよ?横になってたら?」

ボトルの半分近くまで減らしてから、言われるがままに体を横たえる。濡らしたタオルを首の後ろに当ててもらうといくらか落ち着いた。ラッシュガードのジッパーを胸まで下ろし、熱い吐息を逃がして瞑目する。相変わらず体は火照ったままだが、暗くじっとりした場所から無事に逃げおおせたことにはほっとした。

「ごめんな。散歩行こうなんて連れ回して」

連れ回したといっても日陰で大した距離もないのに、彼は責任を感じているらしい。叱られた犬のようにしょげた表情。緩く頭を振れば、潮風になぶられ続けた髪へ手が伸びる。

「っ……!」

まただ。触れられた瞬間、微電流の如き波が体の奥をさざめかせる。ぎゅっと縮こまった遥に、恋人は屈んで顔を近づけた。

「ほんとに大丈夫? 別荘戻ろうか?」

別荘を最後に出た上、ホテルからビーチまでは湊が運転を務めたので、家と車のキーは彼がずっと持っている。その気になれば戻れないこともあるまい。逸る胸を押さえて言い聞かせるが、肉体は上り詰めるばかり。遥自身、薄々勘付いてはいるのだ。熱中症なんかじゃない。しっかりと身に覚えのある、本能的な衝動だ。

――抱かれたい。今すぐにでも、彼がほしい。

正直、泣いてしまいたかった。彼に散々我慢を強いておきながら、自分はこの様だ。露出の多さだけが取り柄のビーチで、二人きりの旅行でもないのにひとり欲望を滴らせて。情けなさに涙が滲み、悟られぬように汗を拭うふりをして眼鏡の下を拭き取る。
それにしても、この衝動は本当に自分の落ち度なのか。内なる欲が露呈しただけなのか、疑問の余地はある。あの恐怖体験のすぐ後とは、あまりにもタイミングが良すぎるではないか。しっとりとした手の感触を思い出して身震いすると、心臓がまたひとつ音を立てた。下肢にもどろりと甘い熱が伝わっていく。思わず内腿に力を込めるが、薄い水着越しの昂りが着々と勢いを得ている現状に愕然とする。
もう無理だ。限界を悟った遥はタオルに突っ伏して泣きじゃくった。どうすればいいのか、思案する脳みそすら桃色に侵攻されている。恋人は派手に狼狽しながら遥の体を揺すった。

「ね、帰ろう? それとも病院行く?」

「……ち、がう」

どのみち頼れるのは彼しかいない。精一杯のSOSを表明すべく、緩慢に上体を起こした。涼しげな海風すら、全身に纏った熱のベールを剥ぐことができない。
やや距離を詰め、彼だけに見える範囲でラッシュガードの裾をおずおずと捲る。水着のふくらみを双眸に映した彼はぽかんと口を開けた。遥が素早く裾を引っ張って戻すと、人目も憚らずにきつく抱きしめてくる。騒ぐ心音が自分のものだけでないことにまず安堵した。が、弁解せずにはいられない。


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