「…だけど…散歩………、どうする?」

夢うつつの早朝。
おぼろげな恋人の誘いに、枕にしがみついてかぶりを振った。天気がいいから海側を散歩しようとか、どうせそんな話だろう。頑なに拒む遥の態度に、やっぱり、と彼は苦笑して出て行った。ドアの外で、かりんのはしゃぐ声がした。
ようやく起床したのは八時を過ぎてからだった。ずいぶんぐっすり眠り込んだものだ。顔を洗って一階のリビングに出向くと、簡単なものだけど、と湊が朝食を用意していた。既に全員が食べ終わっていたのか、食卓には一人前の皿のみが置かれる。翼と凌也が食後らしいコーヒーを啜り、佳奈子とかりんはテーブルで観光雑誌を広げていた。

コンビニで調達した食パンと卵がトーストとオムレツに、カット野菜がサラダに。いつもとさして変わらないワンプレートを黙々と食べ進める。

「あ、遥ちゃんおはよ」佳奈子が雑誌から顔を上げ、「朝ご飯ちゃんと食べたの久しぶりな気がしたわ」と視線を湊に移す。ルシさぁ、と湊が皿を洗いつつ苦言を垂れた。

「朝イチ講義の前に教室でメロンパン食うのやめろよ」

「なんでよ、家飛び出してファミマで買ってそこで食べるのがラクなのに」

「こぼすだろ。せめてもうちょい食べやすいやつを…」

「あれでかくて安くていいんだけどなぁ。最近パン値上げしすぎじゃない?」

「メロンパンってお腹に溜まる気がしますよね。僕もバイト先でよくもらって帰ります」とかりん。各々のパンに対する意志表明が始まる。

「最近ナイススティックにハマっててな。個人的に高級食パンは好きじゃない」と翼。

「今はあまり食べないが、昔は牛乳パンが好きだったな」と凌也。

「パスコの窯焼きバゲットが歯応えあっていいよ。遥はふわふわ系じゃないと怒るけど」と湊。

パン談義を小耳に挟みつつ、遥はテレビの天気予報を眺める。全国的に快晴、絶好の海水浴日和でしょうと名も知らぬ予報士に太鼓判を押された。庭の向こうで青々とした海が両腕を広げて待ち構えている。熱中症対策は万全に、との一言で予報士は締め括った。
遥がのんびりコーヒーを啜る間に、四人は身支度を整えてバス停に発ってしまった。ショッピングモールは九時から開いており、水族館は十時開館だが近くにある市場での朝市が気になるので早めに行くとのこと。遥たちと車だけが海鳴荘に残される。が、図書館なら慌てる必要もない。午後の海水浴に向け、体力を温存しながら過ごせばいいのだ。
窓を開けた正面のカウチに二人で腰かけ、潮風を浴びながら雑誌のページを一緒に繰る。風味付け程度の甘い雰囲気に湊は物足りなさを覚えただろうが、ここ最近では確かに欠けていた時間だ。手が触れ合うことすらなく小一時間を過ごしたのち、車で図書館を目指した。

海鳴荘から国道を南下して十五分ほど。木材のぬくもりとガラスの輝きが調和した威容は、図書館というより大型のブックカフェだ。ゆったりとした椅子やソファがあちこちに置かれ、客はめいめい飲み物を携えて読書に勤しんでいる。程よい涼しさと柔らかな生地に全身を預けて夢見にふける者もいるが、穏やかな空間の中では咎める人間もいない。

「ここで待ち合わせにしよっか」

彼と自分では興味のある分野がまるで被らない。故に図書を探すにも別行動は避けられず、海に面したソファセットのひとつを指差して湊が提案した。
『数学・理化学』の案内プレートを目指す遥がふと振り返ると、円筒状の吹き抜けになった二階に彼の姿があった。その辺りの案内図を掲示版で確かめると、やはり歴史や文学のエリアだ。
豊富な蔵書をしばらく吟味した上で三冊を選び抜き、待ち合わせのソファへ引き返す。湊はまだ戻ってこない。爽やかなマリンボーダー柄のソファカバーにどんと腰を乗せてページをめくっていると、目次も辿らないうちに蓋付きの紙コップ二つと文庫本を抱えて彼が向かってきた。向かいに腰掛けてコーヒーを差し出してくる。広くて迷っちゃった、などと言いながらミルクを傾けてマドラーをいじったのち、歴史小説らしい本を開く。やがて訪れる沈黙。遥も本日二度目のコーヒーに口をつけて意識を没頭させた。

どれくらい経っただろうか。ふっと顔を上げて壁の時計を確認し、目線をさりげなく正面に向ける。ごく真面目な顔で静かに文字を追う彼は、日頃より大層いい男に見えた。読書や睡眠でその喧しい口が閉じられているともはや別人だ。対面からの余計な情報がない分、彼の本来の姿が映し出されている。ほら、そうやっていれば脇を通りがかる女の種類も変わるではないか。昨日浜辺で遭遇した小生意気な水着たちと違って、いかにも内気そうな文学少女や地味な装いの眼鏡司書など、夏の危ない恋とは無縁の彼女たちですら視線をちらちらと投げてくる始末。
不躾に観察しておいて身勝手だが、次第に腹立たしくなってきた。空っぽのカップを押し付け、残り僅かのもうひとつのカップをぐっと呷る。底に溜まった甘みの泥濘に遥が顔をしかめた瞬間、魔法が解けた。

「ああー!」

奪われた最後のひと口に対して上がる情けない声。件の女たちがそそくさと遠のいていったことにほのかな優越感を覚えた。

***

昼食前に佳奈子たちと合流し、海の幸を惜しげもなく使ったビュッフェに舌鼓を打った。昨夜の居酒屋とはまた違った、カタカナの多い畏まった品々だがどれも美味しく食べられた。腹ごなしに水を掻き分けてくるとしよう。更衣室で着替え、直照りの砂浜に足裏を焼かれる。行楽に浮かれる人間を刺し殺さんばかりの紫外線を睨み、ラッシュガードのジッパーをきゅっと上げた。

「散歩しない?」

翼はまた不相応なほど巨大な浮き輪で特攻をかけている。海の家からレンタルしてきたのか、バナナボートに跨るべく食らいつくかりんと佳奈子。の後ろで完全防水仕様のスマホを構える凌也。これほど海の似合わない男もそういないかと思いかけて、ふと遥は我に返る。まずは懈怠の権化のような己が筆頭に立つべきではないか。
湊に誘われるがまま、ビーチサイドをてくてくと横断していく。人の少ない場所を探しているようだ。後方を歩きながら、引き締まった後ろ姿をじっと見つめる。昨日だけでもかなり焼けたのだろう、男らしく張り出た肩甲骨や背中がこんがりとしていた。くるりと振り向いた前面も、程よく乗った筋肉にうっすら割れた腹筋が眩しい。同性の自分はただ羨ましいと感じるばかりだが、世のおなごたちが夢想する寝台ではこんな男が登場するのかもしれない。

「あの辺、洞窟かな?」

彼が指差した先は岸壁のそのまた向こう。ごつごつとした岩のアーチや、陸側を浸食した入り江が遠目からでも窺える。足場の覚束ない場所を裸眼でふらつくのは危ないので、今日はまだ眼鏡を外していなかった。

「…行きたいんだろ」

好奇心が滲んだ声に、遥は渋面を作りつつも歩を進ませた。海に入るのは涼しいが、水は体力を根こそぎ奪っていく。波を揺蕩うのは太陽が傾きかけてからでも遅くはないし、ひんやりとした岩に囲まれていれば散歩でも十分に涼めそうだ。
アルファベットのCの形をした岩の密集地は、海に向かって口を開けていた。せり出した岸壁を、壁伝いに触りながら膝まで水につかる。尖った岩に沿って浅瀬をぐるっと回り込んでいくと、Cの内部はこじんまりとした穏やかな入り江だった。波もほとんどなく、夏の賑わいから逃れてきた先客のカップルや家族連れが思い思いに寛いでいる。湊が腕時計を一瞥した。


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