居酒屋『漁火』は海鳴荘から車で五分ほどの場所にあった。道路を渡れば漁港と市場は目前だ。座敷とカウンターを合わせても四十席程度の店に、海水浴帰りの客と地元民が混在している。 入口近くの座敷で一通りの注文を通すと、おかみさんが早々にビールと烏龍茶を三つずつ運んできた。お通しは枝豆とたこわさび。よくあるものと思いきや、恐る恐る箸をつけたかりんが「すごい、香りがあるのに辛くないです」と感動していた。ひとまず乾杯する。 「成島。君、誕生日は確か来月じゃ――うぐっ」 「それ、旧暦だから」 翼を肘でどついて、佳奈子はビールを威勢よく半分に減らす。おかみさんが何往復もするので、卓上が料理でどんどん狭くなっていく。メニューの冊子をめくり、早くも地酒のページに目をつけた湊がおかみさんを手招きしていた。 「これ二合で。お猪口は二つお願いします」 言わずもがな、己と佳奈子の分だろう。遥が気になっていたししゃもの炙りもついでに頼んでくれた。 「なに、どれにしたの?」 佳奈子が首を伸ばす。彼女も今は普段通りの眼鏡に戻っている。 「とりあえず辛口のやつにした。超辛口ってのもあるらしいから後でな」 卓に並ぶ刺身盛り合わせ、アジのたたき、エビの唐揚げ、あさりの酒蒸し。そこに、ちょっとバランスが悪いかな、と足されたサラダと牛タン。酒宴に相応しい品々だ。 「あのう、ご飯頼んでいいですか」 かりんが遠慮がちに手を挙げる。酒が飲めないのだから米を欲するのも無理はない。渡されたメニューをじっくりと吟味した末、煮穴子の丼をオーダーした。 「明日の予定だが、どうする? また海に行くか?」と翼。 「それでもいいけど、ずっとそれだけってのもね。暑いし、午前中はいろいろ見て回ってもいいんじゃない。バスも通ってるから、海沿いならどこでも行けるでしょ」 話し合いの結果、湊と遥は図書館に、凌也とかりんは水族館に、佳奈子と翼は土産物目当てにショッピングモールへ向かうことにした。待ち合わせは、昼食のビュッフェ会場であるシーサイドホテルのレストラン。自由時間だねえ、と湊が横からすり寄って来た。おかみさんが怪訝な顔でししゃもを置いていく。安眠妨害の反省が足りないようだ。業を煮やした遥がししゃもの頭をぶちっと食い千切る。 「わあこの穴子、ふわふわでおいしー」 米を覆い尽くさんばかりの穴子の群れは、注文者の言う通りふっくらと旨味を内包しているようだ。遥も思わず凝視してしまった。視線に気づいたのか、お味見どうですかー、と笑顔のかりんが丼を押しやってくる。いらない、と意地を張れるほど大人ではなかった。 勧められるがままに箸で切り分けた穴子をぱくりと収めれば、甘じょっぱいタレに浸かった柔らかな白身が口の中でほどけていく。ーーうまい。卓にあるものは例外なく美味だが、これはずるい。醤油・砂糖・みりんのあの味を愛する遥には堪らない。そんなにおいしいの?と何故か拗ねたように尋ねてきた湊に丼を指して示せば、正しく意図を汲んだ彼は同じものを注文してくれた。これで気兼ねせずに食べられる。 「ひと口ちょーだい」 運ばれてきた丼を食べ進めていると、剥き出しの肘をつついてねだられる。しっしっと虫を払うように手のひらを振った。食べたいなら自分も頼めばいいのに。 すると、辛口を飲み終え、超辛口に移行していた佳奈子がスマホを片手に声を潜めてきた。 「ね、この辺に祟り神が祀られてるらしいよ。その名も腐ノ神」 「おい。悪い冗談はやめてくれ」 ちびちびとにごり果実酒を啜りながら、翼が呆れた表情で彼女を咎める。佳奈子は真剣だ。 「ほんとだって、ブログに書いてあるもん。昔ねえ、この地域は子供が生まれすぎて飢饉になったらしいのよ。その時に腐ノ神様が『では同性と恋愛をなさい』と天啓を授け、同性カップルが増えたおかげで人口増加に歯止めがかかったのね。ところが今度は子供がいなくなって村が存亡の危機に立たされ、怒った村人たちは腐ノ神様の祠を壊しちゃうの。そしたら神様が『愚かな人間たちよ』ってブチ切れて――」 「お待たせしました、海鮮チヂミとアジフライ定食です」 するりと割って入ったおかみさんが料理を置いてさっと踵を返す。パリパリのチヂミと、規格外サイズのアジフライ。佳奈子はスマホを放り出して歓声を上げた。焦れた湊が続きを急かす。 「なぁ、それで? そこまで言われると気になるんだけど」 「あーうん、調べといて! いただきまーす」 未練も何のその、さっくりといい音を立ててアジフライにかぶりついている。実は私もタルタリストなんだ、と某グルメドラマに影響された翼がタルタルをたっぷりとかけた。話題はアジフライにかっさらわれたらしい。まぁいいけどさ、と湊も検索はせずになめろうの茶漬けを啜り込んだ。 割勘を終え、ハンドルキーパー凌也の安全運転で海鳴荘に戻った。まだ飲み足りないと佳奈子が騒ぐので再度コンビニで買い込み、だらだらと夜半までリビングで談笑する。どうせ明日も飲むのだから、とリキュールと割り用の飲料を別々に買い、夜の海を眺めながらバーカウンターで嗜むことにした。カクテルを調合するのはもちろん湊だ。 「へいマスター、あたしカンパリオレンジね」 「はいかしこまりー」 「えっとじゃあ、僕はカシスミルクを」 「はーい」 といった具合に各々が注文し、湊はせっせとグラスを差し出す。店では自重していた遥とかりんも軽めのカクテルを少しずつ飲んだ。昼も夜も烏龍茶を貫き続けた凌也は皆を羨ましがることもない。ただ、飲み屋の卓に並んだあさりの酒蒸しにはやや悔しげな目を向けていた。酒蒸しに奈良漬、甘酒すらも彼には毒なのだ。 取り留めなく喋りつつも、眠るのが早い順にひとりずつ入浴していく。俺最後でいいや、と予想通り湊がアンカーを希望した。かりんと入れ替わる形で遥は湯を浴びる。持参した部屋着に着替えて下りていくと、湊と佳奈子がスマホゲームで熱戦を繰り広げていた。遥の姿を確認すると、じゃあ次あたし、と佳奈子が抜け、リビングに二人きりで残される。深い青色のカウチに手招きされ、並んで座ると優しく抱きしめられた。 「疲れた?」 拒む体力もとうに無い。振り絞れば有るかもしれないが、人目が無ければこれくらいは許容してもいいだろう。アルコールで緩んだ脳みそがそう言っている。力なく頷けば、前髪越しに唇が触れた。頬と唇にもそっと熱を移し、あわよくば首筋に――と傾いだ頭をぐっと押さえつける。そこから下はどうあっても通してはいけない。湊は僅かに体を離し、くすんとかわいくもない泣き言を漏らした。 「もう爆発しそう」 「勝手にしてろ」 「ほんとは遥もしたいくせに…いてててっ」 頬をむにっと掴んで腰を上げる。寝るには早い時間だが、もう欠伸が込み上げてきた。先に寝室へ戻るとしよう。 空調の効いた部屋でベッドに潜り込む。遠い波のさざめきが僅かに鼓膜を揺らした。静かな子守唄の中で微睡むと、水面にぽつんと浮いた小舟に寝かされているような気分だ。深まる呼吸に合わせて、静謐な夜の海に波紋が広がる。そこへ、唐突に上がる飛沫。 後ろから抱きしめられている。行水後の烏が濡れ羽色の髪を擦りつけてきた。腕はそっと回されただけで、何もする気はありませんよ、との意思表示が感じられる。それならいい。遥は再び瞼を下ろした。想像の延長で夢を見る。小舟の舳先に止まった烏は、遥を起こさぬように、見守るように、一晩中そこを動かなかった。 →next ↑main ×
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