Holiday
「結局、アルジーは、僕のことなんか理解できないし、しようとも思ってないんだ」
刺々しく言葉を投げつけてしまったのは、昨夜のこと。
寝室の扉の前で、僕は憂鬱な気持ちでため息をついた。自分自身の子供っぽさに愛想を尽かしたい気分だった。
だってそんなふうに言ってしまったのは、アルジーが僕のことを誤解したからではなくて、その正反対。心のなかに隠していた気持ちをあっさり見抜かれたせいなんだって、わかってるから。
この春、クリスティナが社交界にデビューした。アルジーはひどく心配していたけど、彼女はその魅力で大勢のひとびとをひきつけた。
晩餐会や舞踏会への招待状が山のように舞い込んで、アルジーの生活は、たちまちクリスティナを中心に回るようになってしまった。
社交界デビューの少し前から、交わす言葉の半分以上が喧嘩だったとしても、少女は以前ほどアルジーに対して辛辣な態度をとることはなくなっていた。
まだぎこちないにしろ、ふたりはきちんと向き合って言葉を交わしていた。
その様子は、見ていてなんだか微笑ましいものだった。喧嘩をしたときには、お互いが僕のところに来て自分の言い分をまくしたてたりする。
もっとも社交シーズンも半ばを過ぎる頃には、ふたりとも忙しくて喧嘩どころではなくなったようだ。いや、それとも僕と話す暇がなくなったのかもしれない。
それでもクリスティナは毎日のように手紙をくれた。だけどアルジーは――。
アルジーが僕と過ごす時間は、極端に少なくなっていた。
晩餐会のあと、アルジーが僕の下宿を訪ねてくることもあるけど、僕は仕事があるから、あまり遅くまでアルジーを待っていられない。
「無理して起きていなくてもいいよ。きみの顔を見るだけで、充分訪ねてきた甲斐はあるからね」
眠たいのを我慢して待っていても、アルジーはそんなふうに言う。
僕がもうベッドに入ってしまっているときには、言葉はおやすみなさいのキスにかわる。
まどろみのなかで、それはそれで心地良いし、アルジーが仕事のことを気遣ってくれるのも嬉しい。だって前には僕の仕事のことなんて、少しも考えてはくれなかったから。
でも心の奥が小さく痛む。無理をしなくてもいいって、それはつまりアルジーは僕がいなくてもかまわないってことなんじゃないかって、そんなふうに咎めたくなる。
だって僕は――、それは確かに眠たいのだけど、それでも本当は、話したいことがたくさんある。優しいキスや抱擁だけじゃなくて、もっと欲しいと思うことだってある。
もろちん、欲しければ、自分から求めたらいいのだ。でも気持ちがふさがってしまったみたいにうまく動かなかった。
結局のところ、アルジーはクリスティナとの時間さえ充実していたら、他は二の次になってしまうんじゃないかって、そんないやな考えに支配されて不安になる。
そう。僕はなんとなくのけ者にされているような気持ちに陥っていたのだ。
そんなことはないって、頭ではわかっているのに、どうしても気がふさいでしまう。
そして昨夜――。
「社交界の付き合いなんか、退屈でつまらないって言っていたくせに」
ついそんなふうに呟いてしまった。
アルジーが訪ねてきたのはやはり深夜で、僕はもうベッドに入っていたのだけど。
アルジーは、ちょっと驚いたふうに眉をあげて、僕を見つめた。内心はともかく、僕はずっと物分りのよい態度を示してきたから、突然咎めらたりして、当惑したんだと思う。
それでもすぐに微笑んで、小さな子を宥めようとするように、僕の髪をくしゃりと撫ぜて、額にキスをして言った。
「一週間ほど、マグリット荘で過ごそうか」
ふたりきりで、と囁かれて、からだがほんのりと熱くなる。心臓がどきどきと不規則に鳴った。
嬉しいのと、腹立たしいのとが入り混じった気持ちに、心のなかがかき乱された。
腹立たしいのは、子供っぽい我侭を見透かされた気がしたからだ。恥ずかしかったのだ。
素直に嬉しい気持ちを伝えて、その上で断ればよかったのに、僕は彼に背中を向けて、ふてくされたような言葉を口にしてしまった。
「だけど舞踏会とか晩餐会とか、予定はぎっしりつまってるじゃないか」
「もうだいたいの義務は果たしたからね」
そう言って、アルジーは背中から僕を抱きしめた。
彼の体温を感じて、苛立ちは蕩けて消えてしまいそうになる。
アルジーがそのまま何も言わなければ、僕はそのまま彼に抱きしめられて、そしてキスを返していたかもしれない。
だけどアルジーは悪戯っぽく言葉をついだ。
「きみに嫉妬されるのもたまにはいいけど――」
その言葉に、僕はむっとした。
からだをねじって抱擁をふりほどき、アルジーの顔を睨みつけた。
「嫉妬なんてしてない」
不機嫌に言うと、アルジーは微苦笑を浮かべた。その綺麗な微笑み方にも腹が立った。僕は本気でむっとしているのに、彼の心にはさざなみひとつ立てることができない。落ちつき払っていて、なんだか大人と子供の喧嘩みたいだ。
そう思ったのに、僕は子供っぽい怒りの台詞を投げつけてしまった。
「アルジーと違って、僕は仕事で忙しいんだ」
「だがきみにとっての仕事と、私にとっての社交はほぼ同じ程度の義務だと思うけどね。それを放り出して、休暇に出かけるデメリットも」
デメリットだと思うなら、誘わなければいいんだ、と僕は思ってしまった。
僕はずっと我慢していたのに、アルジーはちっともわかってないんだ、とも思った。それだけでなく、どれだけアルジーとクリスティナとの関係がよくなることを願っていたかも、きっと知らないんだ。ふたりが以前よりもたくさん笑顔をみせるようになったのがとても嬉しかったことも。それが僕とは関係のないところで起きた変化だとしても、それでも僕は――。だけど――。
何が言いたいのか、何に腹を立てているのか、わからなくなってしまった。そしてこの混乱を、僕は全部アルジーのせいにした。
それこそ小さな子供が癇癪を爆発させたみたいな、みっともない声で、言ってしまったのだ。
「結局、アルジーは、僕のことなんか理解できないし、しようとも思ってないんだ」
そして今朝。
僕がベッドから抜け出したとき、アルジーはまだ眠っていた。
あのあと僕はアルジーに背中を向けて眠ったふりをしていた。苛々と自己嫌悪のせいで、ほとんど眠ることができなかった、
身支度を済ませたあと、ベッドの端に腰かけて、少しの間、彼の寝顔を見つめていた。
自分が悪いってわかっていた。アルジーの肩を揺さぶって、謝ってしまおうと思った。
でもだめだった。
この頃、探偵社では、少しずつだけど責任のある仕事を任されるようになっていた。ジェムも評価してくれている。
なのにアルジーの前では、うまくいかない。
自分の想いすら、ちゃんと表現できない。
アルジーとクリスティナとが仲良くなるのは、本当に嬉しい。彼女にとって大切なこのシーズンに、もしもアルジーが僕との時間を優先したりしたら、きっとそれはそれで僕は腹を立てていただろう。
それなのに――。
ため息混じりに立ち上がって、寝室を出た。
後ろ手に扉をしめて顔をあげた瞬間、僕はぎくりとして、全身を硬直させてしまった。
廊下の真中で、ビーグル犬のピーターが寝ていたのだ。
「な、なんで――」
なぜ、ここにピーターがいるのか。
答えはひとつ。アルジーが昨夜連れてきたのだ。
「でもなぜ――」
なぜアルジーが、わざわざピーターを連れてきたのかは、見当もつかなかった。
――と、ピーターの耳がぴくりと動いた。むくりと起き上がると、尻尾をぱたぱた振って、じゃれついてきた。ガウンの裾を噛んで引っ張るので、振り払おうとしたけどはなそうとしない。
腹立ち紛れに、ガウンの裾を上にもちあげると、ピーターは噛みついたまま、ぶらんと宙にぶらさがってしまった。
頑固すぎる。
呆れて見ていると、ピーターはぼてっと落ちた。でもなんだか面白くなったみたいで、再びガウンの裾をぐいぐいと引っ張って上目使いに僕を見る。
「遊んでるんじゃないんだからな」
僕は不機嫌に言って、階段を下りようとした。するとピーターは、何をどう勘違いしたのか、ガウンを引っ張るのはやめて、僕の足元でおすわりをした。じっ、と僕の顔を見あげる。
その茶色の目は、期待でいっぱいだ。
「わかったよ。ミセス・マリナーにおまえのミルクを頼んだらいいんだろ」
ミルクと聞いて、ピーターはぴょんぴょん跳ねるようにして、僕の足にまとわりつく。
僕はこの朝何度目かのため息をついた。
「おまえは悩み事がなさそうだな」
大家のミセス・マリナーに、ピーターにミルクと何か残り物をやってくれと頼んで、僕は寝室に戻った。
アルジーにピーターを連れてきたわけを問いただすつもりだった。
アルジーはもう起きていた。ベッドに寝そべったまま、僕を見あげると微笑みかけた。
「ピーターのことを言うのを忘れていたね」
「なんで連れてきたりしたんだよ」
「たまには遊んでやるといいと思ってね。きみに懐いているし、ピーターも最近はだいぶおとなしくなっただろう」
「ちがうよ!」
前から思っていたけど、アルジーもクリスティナもピーターに騙されていると思う。
「ピーターは要領よくなっただけだよ。クリスティナやアルジーのいるところではおとなしいけど、僕だけしかいないときには、飛びかかってきたり、顔を舐めたり、仔犬の頃と同じ悪ふざけをしかけてくるんだから」
むきになって主張したけど、アルジーはちっとも聞いてなかった。僕を見つめたまま、腕を伸ばした。
その腕に抱き寄せられるようにして、僕はベッドの端に腰かけた。
そのときはもうピーターのことで、文句を言うのはやめていた。
アルジーに見つめられるまま、僕も彼の淡い色の瞳に見入っていた。そうして見つめ合ったまま、くちびるを重ねていた。
うっとりとして身をゆだねそうになったけど、怒っていたんだってことに気づいて、ばっと身を離した。
でも仲直りをしたいし、謝りたいと思っていたのも思い出して、どんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
アルジーはゆっくりと体を起こした。僕の混乱をすべてわかっているみたいな優しい眼差しで見つめて、そっと僕の髪に指をすべらせた。
「ピーターを連れてきたのは、このままいっしょにマグリット荘に行くつもりだったからだよ」
「マグリット荘に? ピーターと?」
「きみと、だよ」
アルジーは言った。
「探偵社には休暇届を出しておいたから、心配はいらないよ」
「そんな勝手なこと!」
「仕事は一段落ついているだろう?」
「そうだけど」
僕はアルジーの顔を上目遣いに睨んだ。
「いったいいつ、休暇届けを?」
「二週間ほど前だったかな。急には仕事を休めないって、きみはいつも言っていたからね。私だって、少しは学習しているつもりだよ」
「だからって――」
「きみに任せておくと、またいろいろなことを考えてしまって、落ち込んだり、腹を立てたり大変だろう。昨夜みたいに」
アルジーは僕の目を覗き込み、くすりと悪戯っぽく笑って言った。
「だから休暇に関しては、私が悪者になってあげよう」
そしてそっと僕の肩を抱き寄せて、額に軽くキスをした。
少しの間、僕は彼の腕のなかでじっとしていた。ずっと心をふさいでいたもやもやしたものは、もうすっかり消えていた。
「――嫉妬してた」
顔をあげて、僕は思いきって言ってしまった。
「クリスティナとアルジーが仲良くなるのは、すごく嬉しいのに。でもそれとはべつなんだ。僕は――」
「わかってるよ」
アルジーは優しい声でさえぎったけど、僕は彼の淡い色の瞳を見つめたまま、懸命に言葉をつづけた。
「クリスティナのことを、僕だってとても好きなんだ。それなのに彼女にとって大切なシーズンを心から応援できないなんて最低だって、自分で自分がいやになったりもして、それで――」
「きみがあの娘を大切に思ってくれているのは、彼女にちゃんと伝わっているよ。私にもね」
囁きながら、アルジーは僕のシャツのボタンを外そうとした。だから僕は慌てて彼から離れようとした。だってもう朝なんだから――。
「マグリット荘に行くなら、支度しないと――」
「明日からでもかまわないだろう。大事なのは、きみとの休暇だよ、バート」
僕のからだを抱き寄せながら、アルジーは言った。
「どこにいても、きみがそばにいてくれるなら、最高の休暇だからね」
たぶん、僕はまだ少し混乱したままで、言葉を見つけることができなかった。
でも同じ意見だった。
アルジーといっしょにいられるのなら、どこにいてもきっと幸せだ。
だから。
彼の腕に身をゆだねて、そのくちびるにキスを返した。
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