ふさわしい召使~トルヴァン伯爵家の事情(2/2)
「で、十も年下の少年に求愛された感想は?」
デレクから一通りの話を聞いたパイクは、明らかに事態を面白がっている様子で、尋ねた。
「感想も何もありません。あんなことを思っていたなんて」
「まさか、気づいていなかったのかね。一目惚れされていたのに」
「一目惚れ? からかうのはよしてください」
「確かに今きみをからかってはいるが、ネタにしてるのはれっきとした事実だよ」
「まじめに相談にのってください」
デレクが怒った顔をして言うと、パイクはやれやれとため息をついた。
「だいたいきみは鈍すぎるからね。事実にも噂にも無頓着すぎる。きみと執事の仲を、かんぐる者もなくはないのだが、そんなことだって知らないだろう?」
「私とアルフレッドの仲を?」
デレクは目をぱちくりさせた。思いがけない指摘だった。
「アルフレッドも私も、同性にはそうした意味での好意は抱けません」
「わかってはいるが」
パイクはくすくすと笑いながら言う。
「その『アルフレッド』がいけないな」
「どういう意味です?」
デレクはむっとした顔つきで、パイクを睨みつける。
パイクはゆったりとした姿勢で、葉巻のバンドを外しながら言う。
「執事を名前で呼ぶのは珍しい」
「七歳の頃から、ずっとアルフレッドと呼んでいるんです。郷里では、ハリスンというと、彼の伯父の領地管理人だったし」
「しかしロンドンのトルヴァン邸では、彼ひとりだろう」
「アルフレッドはアルフレッドなんです」
デレクは、頑固な顔つきで言い張った。
パイクは、小さく肩をすくめてみせた。
「まあ、別にかまわんがね。私の母なども、侍女が何という名の娘に変わっても、すべてグラディスと呼んでいたからね。いちいち名前を覚えるのは面倒だし、母にとって侍女は『グラディス』という記号で統一されていたらしい」
「それとは違います」
デレクは微かに眉を寄せて、反論した。
「アルフレッドは、ちゃんとアルフレッドの名なんです」
「ムキになることでもないと思うが……ああ、そうか。今、気づいたのだが……」
パイクはくすりと笑って、言った。
「母は、この点では、むしろモリアーティと考えがあいそうだな。まあ、それはともかく、きみの執事はきみにはもったいないくらいの慧眼の主だな」
「どういう意味です?」
「言葉通りの意味だよ。さてそれはともかく、きみに会わせたい人物がいる」
「テッドに関わりのあるひとですか?」
「もちろん」と、パイクは微笑み、立ち上がった。
「少しここで待ちたまえ」
大嫌いだ!
夢のなかで響いた声に揺さぶられて、デレクは目を覚ました。ひとりで時間を過ごすうちに、ついうたた寝をしてしまったらしい。
夢にあらわれたのは、子供の頃の記憶だった。テッドと同じくらいの年齢のデレクが、怒りに満ちた目をして、叫んでいた。
大嫌いだ、と。
実際には、あの頃のデレクはそんなふうに叫びはしなかった。穏やかで、愛想の良い、誰からも好かれる少年として、パブリック・スクールで勉強とスポーツに集中していた。いや――集中しているふりをしていたのだ。
実際には、デレクは何ひとつ好きになれない空虚な自分を嫌悪していた。叫びたかったのだ。大嫌いだ、と。
(テッドが、臆面もなく感情をぶつけてきたように、かな)
デレクは小さくため息をついた。
そのとき、ミス・ピアーズとともに、マチルダが部屋に入ってきた。午後の勉強に一段落ついたようだ。
ミス・ピアーズは窓際の椅子にかけて、詩集を広げた。
マチルダはデレクににこりと微笑みかけると、彼と同じ長椅子に腰かけて、顔を覗き込んだ。
「どうしたの、デレク」
「え?」
「少し悲しそう」
「いや……」
デレクはまだぼんやりとした心地で、前髪に指を走らせた。
「何もかも、嫌いだった頃のことを思い出していたんだ。あなたと同じ頃かな。十代の最初の頃……」
「ぜんぶ、嫌いだったの?」
「ああ、もちろん好きなひとたちもいたんだ。もっとそのひとたちを好きな気持ちを大事にしておけばよかったんだけどね」
デレクはアマベルのことを思い、憂いを含んだ視線をさまよわせた。
マチルダは小さく首をかしげた。
「デレクはおじい様のところで育ったのよね。おじいさまのこと、嫌いだったの?」
「祖父はとても厳しいひとだったので……。そうだね。よく叱られた。夕食抜きとかね」
マチルダは瞳を大きく見開いた。考えなしに口にした挿話が、少女にひどくショックを与えてしまったらしいと気づき、デレクは慌てた。
「すまない。おかしなことを聞かせてしまったね。だけど大丈夫。そのうち、アルフレッドが助けてくれたし」
「アルフレッドが?」
マチルダは青い瞳を大きくみひらいて、聞き返す。
「デレクのおじいさまをやっつけたの?」
「そう」
デレクは、少女のびっくりした表情がおかしくて、くすりと笑った。
「アルフレッド流のやり方でね」
デレクは思い出した。
もっとも痛快だったのは、彼が九つの頃の小さな事件だった。
オーストラリアから手紙が来たと聞き、デレクは母からの手紙に違いないと思った。祖父はデレクと母親との交信を許さなかったから、デレクは母親からの手紙を読ませてはもらえなかった。
だがことのき、デレクは、どうしても手紙を見せて欲しいと祖父に何度も頼み、反抗的な態度をとった。
祖父は孫を厳しく教育することに決めていた。息子に裏切られたという思いが、もともと頑固な祖父の性質をいっそう極端にしていた。家長に反発するなどもってのほかだったから、これ以上、しつこく要求するならば、夕食を与えないと孫に警告を与えた。
トルヴァンに来てから、ちょっとした失敗や悪戯のせいで厳しく罰せられるのは、はじめてではなかった。食事抜きを言い渡されることも。
だがそういう夜にはいつも、コックがこっそり支度してくれていた夜食を、アルフレッドが運んでくれた。だから、デレクはそんなのは平気だとうそぶいた。そして食事を我慢してもいいから、母からの手紙を読みたいと頼み込んだ。
祖父は、デレクの態度がよほど気に入らなかったらしい。
オーストラリアからの手紙を、デレクの目の前で火にくべてしまうと、いつも通り食卓に着くように命じた。
その上で、祖父はデレクの皿には食事を給仕しなくても良いと、使用人に命じた。アマベルが抗議しようとしたが、祖父の一睨みにあって唇を閉ざした。気難しい祖父に逆らえば、かえって事態がこじれるのは目に見えていた。
祖父以外の全員が、デレクに同情していたが、伯爵家で、祖父に意見できるものはなかった。祖父は領地では、封建時代の王に等しい存在として振舞っていたのだ。
デレクは、絶対に泣くものかと歯を食いしばって堪えていたが、それでも十分とたたないうちに、目の奥が熱くなり、涙がこぼれそうになった。
ひとりきりで、空腹を堪えているよりも惨めな経験だった。
オーストラリアで両親と暮らしていた頃には、こんな仕打ちを受けたことはなかった。母親を恋しく思い、幸せだった時間を懐かしむと、感情が大きく膨れ上がって、せき止められなくなった。
涙がこぼれそうになったとき、給仕が素通りする気配を感じて、同時に、頭の上から冷たいものが降ってきた。
水だ。
デレクは瞳を大きく見開いた。
アルフレッドだった。給仕は普段、アルフレッドの仕事ではなかったが、それでも大きな晩餐のときなどは彼も手伝う。この夜は、給仕のひとりが具合が悪いというのを理由に、アルフレッドが突然代役を買って出たらしいのだが、それにしても滅多にしくじりなどしたない有能な従僕の失策――しかも、テーブルにひっくり返すくらいならばともかく、主家の子息に水を浴びせかけたとあって、食堂にいた全員が息を呑んだ。
アルフレッドひとり、普段と変わらぬ落ち着き払った態度で、詫びの言葉を口にした。
それはとても優しく少年を案じる言葉つきだったので、デレクを惨めな気持ちから救った。それにアルフレッドは、手早くデレクの椅子を引くと、少年の身を庇うようにひょいと抱き上げたのだ。
着替えの必要があるという意味の言葉を、他の人間に口を挟む間を与えぬ絶妙のタイミングで言ってのけると、アルフレッドはデレクを抱きかかえたまま食堂をあとにした。
祖父は顔を真っ赤にし、睨みつけていた。従僕の失態に、いや失態を装った婉曲かつ巧妙なな反抗に激怒していた。
アルフレッドの腕のなかで、緊張の糸がぷつりと切れて、デレクは小さくしゃくりあげた。
部屋に着くと、アルフレッドはデレクを椅子にかけさせた。タオルで髪をふき、着替えをさせたが、その間、デレクはずっと泣きじゃくっていた。
アルフレッドは、普段、デレクの悪戯や我侭には、けっして甘い態度を示さない。だがこのときは、デレクが泣いているのを咎めなかった。泣くことを許されているのだという感覚に、子供は本能的に身をゆだねていた。
泣いているデレクに、アルフレッドは言った。
『それなりに果敢な態度で、食卓におつきでした。ご立派に、と誉めてさしあげても良いかもしれません』
そして滅多にないことだが、デレクに微笑みかけたのだ。
思いがけない笑顔に仰天して、デレクは泣き止んだ。自分を慰めようとしたのだろうと、理屈ではわかっているのだが、今、思い出してみてもなんだか奇妙な感じがする。
このときのアルフレッドの甘やかしについては、あとになってひとつだけその理由に思い当たる事実を知った。はっきりと確かめたことはないので、定かではないが、おそらくあの日オーストラリアから届いた手紙には、デレクの母の訃報が記されていたのだ。祖父はデレクにそのことを伏せていたが、アルフレッドは知っていたのかもしれなかった。
ちなみに、アルフレッドの突拍子もないパフォーマンスは、その意図が理解されるやいなや、祖父以外の人間の表情を明るくした。失態ではなく、デレクの救出劇として正しく解釈されたのだ。
祖父も自分に向けられた無言の非難の大きさを敏感に感じ取ったらしく、そのあとはこの手の罰を与えられることはなかった。
「考えてみると、屋敷の者は……使用人達も私の味方だったな。食事抜きだった日には、料理人は私のために、こっそりとサンドウィッチなんかを作ってくれた。祖父にばれたら叱責されたにちがいないのに」
デレクは優しい心地で言った。
「それなのに、ありがとうとどうしてだか言えなかったな。逃げ出すことばかり考えていたし、そのうち寄宿舎に入ることになったし……」
そのとき、扉をノックする音がした。
パイクが顔を覗かせ、客人がデレクとの面談を望んでいると告げた。
デレクは当惑顔で立ち上がり、マチルダには話が途中になったことを詫びて、またあらためて遊びに来ることを約束した。
廊下を進みながら、パイクは言った。
「問題の少年のお父君にお越し願った。デレク、私は、きみがテッドと呼ぶ少年と出会った際、偶然、あの場に居合わせたわけではないのだよ」
「どういう意味です?」
パイクは小さく肩をすくめてみせた。
「依頼を受けて、あの少年の行方を探していた。ようやく探し当てたと思えば、きみが余計なお節介をやいているところだった」
「そんな……」
デレクは憤然として、眉をあげた。
「どうしてすぐに、教えてくださらなかったんです?」
「あの子供の顔を見なかったのかね? 実に強情で反抗的な目をしていた。もしもヘタな対応をすれば、馬車から飛び出しかねなかった。騒ぎを起こしたくはなかったのでね。きみが預かってくれるならば安心だった」
「それでも……」
「もちろん、お父君には既に連絡済だ。なかなか豪放な方でね。ご子息が使用人の真似事をすると聞くと、ひとしりからからと笑われて、トルヴァン卿ならば安心だと言っておられた。暫く好きにさせておこうと」
「私の知っている方ですか」
デレクは不安げに尋ねた。
「あちらはよくご記憶だ」
「どなたです?」
パイクは薄く笑い、図書室の扉を開き、デレクを招き入れた。
「ひさしぶりだね。トルヴァン卿……いや、やはりデレクと呼ぼう」
ドイツ語訛りのきつい、低音の声。そして布張りの椅子から立ち上がった長身の男の姿に、デレクは絶句した。
欧州の小国シュタインバッハの君主、ルドルフ・アントニ・クライン・フォン・ワルトシュタイン大公だった。
デレクは、ヨーロッパ王室の家系図を頭のなかで素早く検索した。そしてこの大公がまだ十代の若さで娶ったのがスペイン王室に連なる血統の令嬢で、テッドと同い年くらいの息子がいるはずだと思い出す。
「オックスフォードでは楽しい時を過ごしたね。デレク」
大公は、デレクの驚愕を楽しんでいるようだった。上機嫌で歩みよると、デレクの手をとり、淑女に対するように手の甲に接吻した。
黒い目をあげると、悪戯っぽく笑って、言った。
「あいかわらず美しいな」
「殿下。悪ふざけはよしてください」
「悪ふざけではない。本気だよ」
デレクの困惑に助け船を出したのは、パイクだった。小さく咳払いして、客人に声をかけた。
「おかけになりませんか」
大公は、まだいたのか、と雄弁に語る目でパイクを振り返った。
だが、パイクはにこやかに応えた。
「お察しの通りです、殿下。邪魔者の役割を演じるつもりですよ」
「わかった。わかった」
大公は、鷹揚に右手を振ってパイクを遮り、椅子にどかりと腰をおろした。
デレクも向き合った椅子に腰をかけ、そして言った。
「殿下……このたびは申し訳ありませんでした。……知らないことだったとはいえ、ご子息に失礼なことを……」
大公は鷹揚なしぐさで、デレクの詫びを遮った。
「きみが謝ることは何もない。悪いのはエーリッヒだ。……ああ、それが愚息の名だよ。テッドというのは、パブリック・スクールでの学友の名らしいな。ウィンチェスター・コレッジだ。トルヴァン邸には迎えの馬車をやり、すでにエーリッヒはこちらに引き取った。明日にも寄宿舎に送り返すつもりだ」
「そうですか……」
「どうにも破天荒なところがある息子でな。趣味は悪くないようだが」
からかうように付け加えた言葉に、デレクは敏感に反応して、軽く睨んだ。
テッドの告白を受けた際、デレクが思い出したのは、このルドルフ大公だった。
「デレク。どうだね。今夜、ゆっくりと食事でも」
大公の申し出に、デレクは困ったような笑みを浮かべた。
即座に口を開いたのは、パイクだ。
「生憎ですが、殿下。トルヴァン卿は、ハウッィクの准男爵、サー・フランシスと先に約束があります」
大公はじろりとパイクを睨んだ。だがすぐに口元を苦笑にゆるめて、皮肉な声で言う。
「邪魔をしているのだな。夕食に誘うくらい、大目にみたらどうかね。夜食を共にしようと誘っているわけではない」
「殿下……」
たしなめる口調で口を開いたデレクを遮り、パイクが応酬する。
「彼はマチルダの婚約者候補です。ちょっとした誤解からでも、おかしなスキャンダルが捏造されるこは多々あります。危険の芽はつみとっておかねばなりません。悪い虫がつかないように」
「私のことを言っているのならば、口をつつしめ。だいたい、過保護すぎないか」
大公が言うのに、パイクはしれっとした顔で答えた。
「殿下の武勇伝は、私ひとりが口を閉ざしても既に皆の知るところです。私が危惧しているのは、むしろどこに私のような悪党がいるとも限らないという点ですよ」
「アルフレッド!」
トルヴァン邸に戻るなり、デレクは激しい勢いで執事をなじった。
「気づいていたんだな」
「旦那様。大声をはりあげるのは、あまり良い作法とはいえません」
「わかっている」
デレクは幾分子供っぽい顔つきで、執事を睨む。
「だけど……」
「お客様がおみえです」
あるじの苦言をあっさりと受け流して、アルフレッドは告げた。
応接室の肱掛椅子に、黒髪の少年の姿をみとめて、デレクはかすかに目を見開いた。
「テッド……いや……エーリッヒ殿下……」
少年は顔をあげた。見違えるように垢抜けた装いをしていた。きちんと採寸して作らせたに違いないスーツを着て、髪も綺麗に撫でつけている。
「テッドでいいよ。エーリッヒは、今度会ったときだ。迎えの奴らがこんな服着せて連れて帰ろうとしたけど、ちゃんと挨拶したくて待たせてるんだ」
英語からも下町の訛りが消えていたが、傲慢な口調はそのままだ。
じろりとアルフレッドを睨むと、言った。
「おまえ、気づいていたな。なぜだ? 言葉だってちゃんと下町のを真似たぞ。寮に中産階級出の奴がいて、そいつがいろんなタイプの英語を研究しているから教わったのに」
アルフレッドは恭しく頭をさげ、あくまでも慇懃な口調で言う。
「付け焼刃な言葉からも確かにヒントを与えて頂きました……加えて、無知な無作法と身についた尊大さとは異なりますので」
「やな奴」
テッドはアルフレッドを睨んだが、まるで動じない執事に結局は負けを喫して顔をそむける。
「俺なら、こんな生意気な召使はクビだ」
デレクはくすくすと笑った。少年と向き合った椅子に腰をかけた。
「学校に戻ることにしたと聞いて、ほっとしているよ」
「だって、あの馬鹿親父は俺が学校に戻らないと、あなたが俺をたぶらかしたとか、なんかそういうことで訴えると脅すんだ」
「大公殿下が?」
本気ではないのだろうが、少年には効き目があったようだ。唇を尖らせて言う。
「あなたにそういう迷惑をかけたくはないからね」
デレクは微笑んだ。
少年はその笑顔に眩しげに目を細め、頬を紅潮させつつも、強い声で不平を言った。
「自由になりたいって思っていたのに。とんだ足枷だよな」
「足枷?」
「そうさ」
黒の瞳には不敵な光がきらめいた。
「でも悪くはないぞ。あなたみたいな枷ならさ。いいか、俺は諦めたんじゃないんだ。ただ父上と話すうちに、あなたが俺を受け入れないのは、つまり今の俺では、あなたにふさわしくないのかもしれないと気づいたんだ。だから、今回は引き下がることにした」
少年は立ち上がった。
デレクもあわせて席をたち、扉に向かう少年のあとに続く。
ノブに手をかけたところで、テッドがくるりと振り返って言った。
「でもいずれ、また会いにくる。そのときは覚悟しといて欲しいな」
デレクは微笑んだ。彼自身、あまり意識していないのだが、優しく包み込むような微笑は、彼に恋する少年には少しばかり残酷なくらいに綺麗で魅力的だった。
「そのときには、きみはもっと別のひとを想っているよ」
「かもしれないし……」
少年はまっすぐにデレクを見つめたまま、爪先立って背伸びをした。彼の頬に接吻して、囁いた。
「そうでないかもしれないよ」
テッドを見送り、デレクは居間でほっと息をついた。アルフレッドが、良い香りのするコーヒーを運んできた。
「アルフレッド。おまえと私の関係を怪しむような噂もあるらしいぞ」
今度という今度は、この執事の顔に驚愕の表情を見ることができるのでは、とデレクは言ってみた。だが期待はあっさり裏切られる。
アルフレッドは淡々として受け答えした。
「もちろん存知ておりますが、根も葉もない噂というのは、長くはもたないものです。それにギボン様が巧く処理してくださるでしょうし、ご心配には及びますまい」
「……おまえは、パイクとよく話すのか」
「職務に支障をきたすようなことはしておりません。しかし、あの方は如才ない方でいらっしゃいますので」
「それはおまえもだよ」
デレクはため息混じりに言って、コーヒーカップに手を伸ばした。そしてふ、と気づいて顔をあげた。
「ありがとう」
「他に何かご入用なものは?」
「ない。だけど……」
「何か」
「言い忘れていた『ありがとう』を言ってもいいかな」
何に対する礼なのかと、アルフレッドは片方の眉を僅かにつりあげた。
デレクは少し照れた様子で微笑み、早口に言葉を継いだ。
「子供の頃、何度かおまえに言いそびれていた……と気づいたんだ」
「さようでございましたか」
「うん」
「私は自分の仕事を務めていただけですので」
「うん……それでも私には……その仕事をこなしていたのが、おまえだったからこそ、その機転で救われたことが何度かあったんだ……と最近になって思ったんだ。だから……いや、こんなことを今更言ってもおまえを困惑させるだけだな。さがっていいよ」
「失礼いたします」
アルフレッドは一礼すると、いつもと代わらぬ落ち着いた足取りで、部屋を出た。
廊下に出て扉をしめると、アルフレッドはやれやれとため息をついた。
ため息のかげで、慈愛に満ちた優しい笑みがよぎったが、ほんの刹那のことで、歩き出したときにはもういつもの無表情に戻っていた。
ただ、小さな呟きが唇から漏れた。
「困った旦那様だ。七つの頃から少しもお変わりにならないのだからな」
END [
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