ギャアーッと空を割るような悲鳴が聞こえて、ラコステは一気に現実へ呼び戻された。番犬が警戒してワンワン吠えている。どうやら囚人が騒いでいるらしい。事が起きているところへ向かうと、輸送車から下りてきた囚人が手錠と鎖をつけたままジタバタと暴れ回っていた。 「ワニが! ワニがいる! 怖ぇえよォォ―――ッ! ママ! ママァ〜〜〜ッ!!」 「ロッコバロッコ看守! 早く来てください! 囚人がワニに動揺している!」 「我々では対処できません!」 付き添いの看守の声に急き立てられながら現場に到着し、近くの人間に犬を任せて状況を確認する。場所は運動場のゲートだ。問題の人物は懲罰房の囚人と、あと、ワニが一匹。オスのミシシッピワニだった。 ここは湿地から少し離れているが、決して遠くはない。小雨につられて散歩でもしていたのだろう。 なんとかしてくださいと周りの看守に言われて、無言でワニに近寄る。スタンドが使えれば楽なのだが、人目が多すぎた。いくら雨が降っていてもいきなり沼が現れたら変だろう。ラコステは久々に警棒を取り出して、コツンコツンと地面を叩いてワニの注意を引きつけた。そのまま少しずつ移動して湿地帯の方へ誘導する。 「ああッ! こっちを見た!」 しかし男が叫んだので、ワニがまた囚人の方を向いてしまった。お前が騒ぐから見るんだ! 静かにしていろよと心中で悪態をつく。 「ママァ! 助けて! ワニに食われる! ママァァ〜〜〜〜ッ!!」 全く、二歳の子ワニですら母親離れをしたというのに。こんな小心者のマザコンが一体どうして水族館の懲罰房になど入れられているのか、ラコステにはさっぱり分からなかった。 「今度ホワイトスネイクに会ったら、一つ伝えてくれないか」 本を一節読み終えたところで、ラコステはそう切り出した。フー・ファイターズが活字から顔を上げる。 「可能なら、僕の記憶をDISCとして取り出して、ワニの体に移植してほしい」 「……なぜ?」 「なぜって、僕より君の方がホワイトスネイクと会う機会が多いからさ」 「違う。なぜワニの体に自分の記憶を移植したいのか訊いている」 「うんざりしてるから」 ラコステは本を床において、ゆっくりと後ろに倒れ込んだ。床のホコリが舞い上がって、むせそうになる。目を瞑って、浅く呼吸した。 「僕はもう人間でいるのに疲れたんだ。毎日うんざりして、毎日イライラする。子供のころからそうだからもう慣れたと思っていたけれど、そうでもなかった。僕はワニになりたい」 「…………ホワイトスネイクに頼んで、ワニにしてもらうのか」 「そうだ。僕はワニになる。自然の一部となり、自分の中の知性に従って生を全うする」 「………………」 瞼をこじ開けてみると、フー・ファイターズが覗き込んでいた。いかつい顔だ。人工的で、自然美はあまり感じられない。でも、知性はある。 現時点だと、フー・ファイターズも知性の導きに反した生活を送っている。ホワイトスネイクという神もどきには従っているが、本来の知性の意図じゃあない。 「……君はどういう生き方をする生き物なんだろうな」 鳥は羽ばたく。クジラは泳ぎ、馬は走り、木々は芽吹いて葉が茂る。では、フー・ファイターズというこの地球にただ一つ、あるいは銀河にただ一つの生命体は、どのように生きるのが知性の示す道なのだろう。 ワニのように生きることも、プランクトンとして生きることもない。もちろん、人間でもない。改めて彼は異端だった。彼の生き方は一体誰が教えてくれるのか? でも、まあ、自分には関係のないことだ。ラコステは再び目を閉じる。これから自分はワニになるのだ。ワニは潜む。湿った草地の中に潜み、沼に潜み、身を隠して獲物を待つ。 「ラコステ、あなたの頼みをきく代わりに、私からも頼みがある」 「なんだ」 「ワニになるのは、この本を読み終わってからにしてほしい」 ラコステはのろりと起き上がり、本の表紙に視線を落とした。古ぼけた表紙の黄ばんだ文庫本。フー・ファイターズが『フランケンシュタイン博士』は何者かと尋ねてきたので、それを読んでいた。フィクションを読むのは初めてかもしれない。 「あなたが今ワニになってしまうと、私は一生その本の続きを気にしながら生きることになる」 「……字を覚えたら?」 「私に字を教えてくれる人はいない。いるとすればあなただ、ラコステ」 「…………ああ、わかった。いいよ」 最後の仕事だ。人間としての。 「じゃあ、また明日」 ラコステは立ち上がって服についたホコリを手で払うと、その場を後にした。「フランケンシュタイン」はまだ序盤しか読み進めていなかったが、短い小説だから一週間もすれば読み終わるだろう。その頃にはフー・ファイターズもホワイトスネイクに会って、自分の頼みを伝えているはずだ。 しかし結果として、ラコステはその本を読み終わってもワニにはならなかった。今度は「フランケンシュタイン博士に出てきた『ガリバー旅行記』とは何か」と言われ、ガリバー旅行記を読めば今度は「ガリバー旅行記がフィクションだという証拠はあるか」と言われ、世界地図や世界史を一通り説明するはめになり、そうすると今度は……というように、そのつど引き延ばされたからだ。 その様はまるで、両親を引き止めるためにわがままを連ねる五歳の子供のようだった。フー・ファイターズはとても賢かった。 まるで人間みたいだ――ラコステはじっとりと嫌な予感を抱えながら、ずるずると読み聞かせを続けた。 |