ラコステがフー・ファイターズに本を読み聞かせるようになって、一ヶ月が過ぎた。その間に読み切ったのはわずかに三冊だったが、フー・ファイターズの言語能力は見違えるほど良くなった。昼間にこっそりと囚人たちの会話を盗み聞きしているのもその一因だろう。本に登場しない単語も次々と習得していっている。文法に比べて伸びの遅い語彙力も、追いつく日が近そうだった。 フー・ファイターズは、単語の意味が分からないときや、言いたいことを表す単語を知らなかったとき、そのつど質問をした。その日もそうだった。「私の体の名前は何か」という問いをラコステに向けたのだ。 ラコステは様々な答えを用意した。体の一部分を刺されれば部位の名称を答えてやったし、全体だと言われれば「体」を表すほかの単語を教えてやった。しかし彼の欲しい答えには到達できず、何分もやり取りを続けた末、ついに図書館から「水生生物図鑑」を借りてきた。 フー・ファイターズが言うには、彼の体は「水の中で生きているとても小さな生き物」で出来ているらしかった。 「もしかして、プランクトンか?」 「プランクトン? それが私の名前か?」 「そうなんじゃあないか。魚よりも虫よりも小さいんだろ……ほら、これ」 ラコステは図鑑のページを捲っていって、プランクトンが紹介されている箇所を見せた。残念ながらフー・ファイターズと同じ種類のものではなかったようだが、それでも「プランクトン」という一括りの名称があることは理解したらしい。 「そうか……『プランクトン』……私の体はプランクトン……」 「君の存在は……前々から不思議に思っていたんだが、プランクトンに心があるなんて、変だな」 スタンド能力だなんて突拍子もないものにすっかり気を取られて、あまり深く考えてこなかったが。新種なのかもしれない。ラコステは彼を未確認生物の類だろうと思っていた。 「その話をしたかったんだ。ラコステ、聞いてくれ。思い出したことがある。私はあなたを知っていた」 それは突然の告白だった。突然すぎて、ラコステは注意を払わなかった。手持ち無沙汰に図鑑を捲って、たまたま見つけたワニのページに目を奪われながら「へえ」と相槌を打つ。 「命令のDISCを受け取ると考えることができなくなるのだ。記憶も曖昧になる。だから今まで思い出せずにいた……」 「見ろよ、この写真。大きいワニだな。何年生きたやつだろう?」 「今は明瞭だ……昔のことも大体覚えている……ラコステ、聞いてくれ、ラコステ」 「聞いてるよ。記憶が戻ったって? よかったじゃあないか……あ、ミシシッピワニの写真だ」 フー・ファイターズがラコステの手からバッと図鑑を取り上げた。ラコステはむっとして彼を睨んだが、「大事な話だ」と言われて、渋々真面目に耳を傾けることにした。「それで?」と相手を促す。 「私はワニだった」 「……ワニ?」 「そうだ。ワニだった。私はあなたが毎日食べ物をやっていた、ワニだった」 「……どういうことだ? 君はプランクトンだろ?」 「体はそうだ。けれど心は違う。あなたもさっき言っただろう、プランクトンに心があるのは変だと。その通りだ。プランクトンに心はない」 なら、フー・ファイターズが喋っているのはなぜなのか? こんなにも複雑な会話ができるのはどうして? 予め返答を決められたコンピュータ・プログラムなどではない。フー・ファイターズは有機物なのだ。ラコステは、彼が人間と同程度の知能を持った未確認生物だと思っていた。けれど彼自身は、自分をプランクトンなのだと言う。 一体何が起こっているのか? その答えはフー・ファイターズから与えられた。いつか彼が自分で話すだろうと、誰かがそう言った通りに。 「ホワイトスネイクだ。彼は能力のDISCの他に、記憶のDISCや、命令のDISCを扱うことができる。私の体はプランクトン。記憶はあの日死んだ子ワニだ」 「子ワニって、あの……」 「そうだ。あなたが見ていた子ワニだ」 「………………」 まさか。そんなことがあるだろうか? 信じがたい話だった。記憶を取り出せるという能力が衝撃的だというなら、その記憶がワニのものだったというのはもっと衝撃的だ。ラコステの理解の範疇を超えている。 もしフー・ファイターズの話が本当だとして。ワニの記憶とは、どのくらいのものだろう? どこまで理解し、どこまで覚えているのか? なぜワニとプランクトンとを足したら人間の言葉を喋るようになる? 「ラコステ……あなたの考えだと、私は、許されない生命だ」 「……なに?」 「私は人工物だ。二つのものが融合している。それがこうして動いているのは、知性による生命のデザインを侮辱するに等しい。そうだな?」 「……ああ……」 「ラコステは、私のことが嫌いになるか?」 疑問はいろいろとあったが、口に出すには考えを整理する時間が必要だった。ラコステは口元に手を当てて、じっと足元を見つめる。 「……ちょっと待ってくれ。考えるから」 たっぷり時間を取って、ラコステが言えたのはそれだけだった。 フー・ファイターズが言っていたのは、つまり、インテリジェント・デザイン論だ。ラコステが今まで読み聞かせてきたこと、そのもの。 自然の造形こそが最上だと、ラコステはそう考えている。それは「地球上の生物は、宇宙に存在する『知性』によって、何らかの目的に沿うようデザインされている」という学説に基づく思想だ。 人間嫌いの根源もここにあった。人は何もかもめちゃくちゃにする。文明など生まれなければよかったのだ。自然の中で細々と生きていくべきだった。他の生き物と同等に、食い、食われ、死んで生きていくべきだった。 他の生命を常に脅かして生きる存在が神の意志で生まれ得るだろうか? ラコステの答えはノーだ。こんなにも美しい生き物がたくさんいるのに。こんなにもうまく自然の輪が廻っているのに。それをわざわざ破壊するわけがない。放っておいてもこんな小さな星の上の生命はいつか潰えるだろう。あえて途中から壊していくことに何の意味がある? だからラコステは古い生き物が好きだった。昔から変わらない生き物が好きだった。そこに知性の作意が息づいているような気がしていた。対して人間は出来損ないだ。初めはよかったけれど、どんどん劣化していって、今では手に負えない。 では、フー・ファイターズはどうだろうか? 彼曰く、体はプランクトンで、記憶はワニなのだという。半信半疑だがもしそれが真実だとすると、彼はまるでフランケンシュタイン博士の造った怪物だ。神の所業に逆らい、神を侮辱する罪のもとに生まれた存在だ。 人工物のフー・ファイターズ。遺伝子操作されたトウモロコシや無理やり掛け合わされて産まれたハイブリッド・アニマルと同じ存在。 自分はそれを許せるだろうか? 嫌悪せずに入られるだろうか? 分からなかった。あまりにも近づきすぎていたからだ。フー・ファイターズはラコステの理解者になりつつあった。彼に本を読み聞かせるのが日課になっていた。本を読みながら、次に読む本を頭の中で探していた。 引き際なのかもしれない。ラコステは休憩室でコーヒーを淹れながら小さく息をついた。 |