企画部屋 | ナノ


(あれは…セルシア?)

仕事の途中、偶然通り掛かった喫茶店でクラピカは恋人のセルシアを見かけた。

昼時で店内は大分混雑している。通常なら人を見分けるのも困難な状況だが、相手がセルシアなら話は別だ。外の通りを歩いていたクラピカは一旦足を止め、ガラス越しに見える光景に眉を寄せた。

セルシアはこちらに気づかず、お茶を飲みながら楽しそうに談笑している。

向かい側に座っているのは私服姿の――若い男だった。

(……)

クラピカは一瞬頭を過ぎった“浮気”という単語を、即刻打ち消した。

(まさか、セルシアに限ってそんなことをするはずないな)

クラピカは店内の2人から無理やり視線を外し、何事もなかったかのように歩き出す。

冷静さを取り繕うものの、セルシアが男に向けていた笑顔を思い返すと胸がざわめいた。

(…昔の同級生か、友人なのだろう)

こんな些細なことで動揺するなんて滑稽以外の何物でもない。…それでもやはり、不安にはなるわけで。

クラピカは苛立ちを隠し切れないまま、仕事に戻って行った。


******


仕事を終えて家に帰ると、部屋にはセルシアがいた。

「お帰りなさい、クラピカ!」

「…ただいま、セルシア」

柔らかく微笑むセルシアを見て、心が温かくなる。

(やはり杞憂だったか…)

「今日は仕事早く終わったから、ご飯作っておいたの。一緒に食べよう?」

セルシアはキッチンに向かい、すでに用意していた料理を温め始めた。

時々、セルシアは仕事帰りに私の住むマンションへやって来る。家の合鍵は渡してあるからいつでも出入りできるのだが、お互い忙しくてなかなか会えない日も多い。
それでもセルシアは、忙しい合間を縫って私に手料理を作ってくれる。

――本当に優しくて健気な、私の可愛い恋人。

「そういえば、セルシア」

「なあに?」

「今、家にお茶は…」

「おっお茶!?」

セルシアがどもりながら慌てて振り返る。クラピカは驚いて瞬きした。

「…お茶っ葉が切れていたのではないか?」

「ああ…それなら大丈夫。新しいの買ってきたから」

セルシアはぎこちない表情で茶葉が入った缶を持ち上げた。

「そうか、有難う。じゃあ私が煎れ…」

「いいよ!今煎れる所だったの!」

セルシアは明らかに焦った様子でお湯を沸かし始める。どう見ても挙動不審だ。

(なぜ…?)

訝しんだクラピカが目に留めたのは、セルシアが新しく買ってきた茶葉の缶。

貼ってあるロゴに見覚えのある店名が書かれていた。

(昼間、セルシアと男がいた店だな…)

例の喫茶店でセルシアは茶葉を買ってきたようだ。とすれば、あの店にいたことを知られたくなくて、セルシアは挙動不審になっているのかもしれない。

(やましい事があるのか…?)

クラピカは再び不安な気持ちに襲われた。昼間に感じたよりもずっと強い不信感。

(…いや、セルシアを疑うなんてどうかしている。そんなはずは…)

「はい、どうぞ」

「セルシア」

クラピカはお茶を渡してくるセルシアの目を真っ直ぐ捉えた。この不安を取り除くには、本人に直接聞くしかない。

「何か隠してることはないか?」

「…っ!?」

目を見開くセルシア。その反応は、身に覚えがあると白状しているのと同じだった。じわじわと、不安が広がっていく。

「…何を隠しているんだ?」

「…」

「正直に言ってくれ」

クラピカは黙りこむセルシアに対してなるべく優しく語りかける。

多少声音に責める響きが混じっていたが、それは仕方ないだろう。
なにせ最愛の人が浮気しているかもしれない状況なのだ。冷静で居られる方がおかしい。

「セルシア…」

「ごめんっクラピカ!本当にごめん!!」

セルシアは突然勢いよく頭を下げたかと思うと、脱兎のごとく部屋を飛び出した。

あまりにもいきなりだったので、取り残されたクラピカは完全にフリーズしてしまった。

(…今、何が起こった?)

謝罪された。何に対して?

思い当る出来事は一つしかない。それは、つまり…

「…っ待て!!」

クラピカは我に返って立ち上がり、必死にセルシアを追いかける。

玄関の扉を開けると、コンクリートの階段を下りる足音が聞こえた。
クラピカも急いで階段へ走り滑るように下りる。2つの足音が反響して廊下に響き渡った。

「なんで…追って、来るのっ!?」

「君が…逃げるからに決まってるだろ!」

セルシアが息を切らせ、上に向かって叫んだ。クラピカも叫び返す。

「今日は…とりあえず…見逃し、てっ!!」

(私から逃げ切れると思っているのか…?)

マンションの長い螺旋階段を下りている内に、先を走るセルシアのペースが徐々に落ちていく。

あっという間に追いついたクラピカはセルシアの腕を掴み、踊り場の壁へ押し付けて逃げ道を塞いだ。

「痛っ…」

「――セルシア」

クラピカの低い声に、セルシアはビクリと肩を震わせる。

「クラピカ…」

「あの男は誰だ!?」

余裕の無い顔でセルシアを壁際へ追い詰め、クラピカは怒鳴った。

怒りを滲ませたクラピカ瞳は、鮮やかな緋色に染まっている。
セルシアはしばらく呆然とした後、恐る恐る口を開いた。

「……あの男って、どの男?」

「昼間、カフェで一緒にいた男だ!」

吐き捨てるように言うクラピカに、セルシアは心底不思議そうな顔をする。

「誰って…取引先のお客様だけど、それがどうかした?」

平然と答えを返され、クラピカは咄嗟にまた叫んだ。

「嘘だ!」

「嘘じゃないよ!」

セルシアも負けないくらい大声を張り上げる。セルシアの瞳は吊り上がり、頬は紅潮していた。クラピカはその顔を眺めて徐々に落ち着きを取り戻し、セルシアが真実を告げているのだと理解した。

「じゃあ…それなら何故逃げた?」

「それは…」

セルシアはばつが悪そうに顔を俯ける。

「ティーカップ壊しちゃったのが、申し訳なくて」

「は、?」

「クラピカが帰ってくる前にお茶を飲もうと思って、クラピカのお気に入りのティーカップを割っちゃったの!ごめんなさいっ!」

頭を下げるセルシア。クラピカは訳が分からず唖然とする。

「そんなの…正直に話してくれれば済むことだろう?そもそも、なぜ私のカップを使ったんだ?」

そう言うと、セルシアは顔を真っ赤にさせた。

「…だってクラピカが愛用してるものだから、使ってみたかったの。そりゃあ最初は普通に自分の使おうとしたよ?でも、なんとなくクラピカのカップが目に入って。これにいつも口付けてるんだなあ…とか思ったら手が勝手に……それで、クラピカが隠し事はないかって聞くから、てっきり割れたのがばれたんだと思って逃げた」

クラピカは気が抜けてがっくりと項垂れ、頭を片手で覆う。

一気にまくし立てたセルシアは赤い顔を両手で隠した。

「ああもう!だから言いたくなかったのに!こんな変態みたいなことして私…クラピカに軽蔑されたらどうしようって…」

セルシアは泣き出しそうな瞳でクラピカを見上げた。

「…私のこと、嫌いにならない?」





答える代わりにクラピカはセルシアの身体を引き寄せ、額に唇を落とした。


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