マイ・スウィート
自分以外に誰もない大きな風呂からリンは静かに立ち上がった。
本当なら食事を終えてすぐに入りたかったが、同性であっても裸を見られるのは恥ずかしいので入浴は最後に入ることにした。大人だからか、それとも教師だからか、21時の時点で全員が入浴を終わらせているのでありがたい。生活サイクルがきちんとしている。
身体を拭いてから冷たい化粧水を吹きかけて「はぁ〜」と火照る顔を手で仰いだ。暑い。
時間に追われていた4年間は毎日シャワーで済ませていたので久しぶりの湯船に長風呂をしてしまった。
今日はもう寝るだけ。初勤務も無事に終わって気張ることのなくなったリンは体温の上昇も相まって目がしぱしぱし始めている。睡眠欲を優先してドライヤーもそこそこに脱衣所を後にした。
共同スペースには男女数人がわいわいと盛り上がっていた。机にはアルコール類。大人だ〜、と思いながら通り過ぎるとミッドナイトに話をしようと声を掛けられる。
明日も仕事だし眠いので正直断りたいが相澤の先輩ということで少し付き合うことにした。腰を下ろすと口々に特命医の合格を祝ってくれたので無難にお礼を言って済ますとミッドナイトがお酒を勧めてきた。
「あ…まだ飲んだことなくて、休みの前日まで遠慮しておきます。」
「あらそう?残念。じゃあ今週末は歓迎会とアルコール解禁でパァーッとやんなきゃねぇ!」
ケラケラ笑っている。歓迎会…相澤先生も参加してくれるだろうか、そんなことを思いながらいろいろと話を聞き流していると玄関から誰かが帰宅する音がした。
「あら、相澤くん達外出してたのね」
相澤とマイクがコンビニの袋をぶら下げて賑やかにエレベーターの方へと歩いて行く。気になって目で追っているとふいに相澤と視線がかち合った。リンは緊張で口を一文字に結んでしまったが相澤はそれを気にする様子もなくこちらに向けてひらひらと手を振っている。小さく振り返すとわずかに口元を緩めてエレベーターへ乗ってしまった。
「ところで赤井ちゃん恋愛の方はどうなの?」
「……。面白い話はないですよ」
相澤との静かな掛け合いに目をつけたのだろうミッドナイトが話をぶっ込んできた。素直に話して茶化されるのもめんどくさいのでリンは可もなく不可もなくの回答で逃げるが成功するはずもなく。
「世界中の老若男女があなたに注目してるのにぃ?」
「世界中の老若男女…」
規模がデカすぎるが、久しぶりの特命医誕生ということをニュースで取り上げられたので世界が知っているのはあながち間違いではない。
「やっぱ気になりますよね!赤井さん学生の頃から人気凄かったし」
「いろいろ事件もありましたよねぇ」
「コスチューム盗まれたの何回だっけ?」
「…3回です」
「コスチューム盗難は雄英史上初だったなぁ!」
大笑いしてるけど身につける物を盗まれる気持ち悪さを知らないから他人事でいられるのだろう。新しいコスチュームが届くまでひとりだけ体操着の着用を強いられて授業に支障をきたしたしすごく迷惑だった。
教師も人の不幸を笑うんだなぁと見つめているとあぁ、と声を上げてまた喋り出す。
「そういえば男子生徒の鼻と前歯を折る事件もありましたね」
「…。あれは…やられたからやり返しただけで、」
もう思い出すことのなかった記憶を呼び起こしてしまって思わず唇を拭う。温まっていた身体にゾワッと鳥肌が立った。最悪だ。ずっと忘れていたのに思い出してしまった。
「まぁまぁ〜、思い出したくないこともあるでしょうしこの辺にしておきましょうか。余計なこと聞いてごめんね赤井ちゃん」
今日は疲れたでしょうからまた明日ね〜、とリンの雰囲気を察したミッドナイトがその場を諌めて抜け出すことはできたが不快感は消えない。
学生時代の思い出を語ってる気分なんだろうけど実害に遭っている自分の身にもなってほしい。リンは相手にアルコールが入ってようがなんだろうが、不躾な話をした男性教師へ人間性に難ありのレッテルを貼りつけた。もう2度と関わることは無いだろう。
足音を立てずに部屋まで歩く。静かに扉を閉めると布団に力いっぱい飛び込んだ。枕に顔を押しつけて小さな声で「きっも」と鬱憤を吐き出す。
「あいざわせんせい」
その状態でもごもご呟いているとドアがノックされ、扉越しのせいでくぐもった低い声が聞こえた。
「リン、相澤だ。いるか」
なんというタイミングか。返事をしながら急いで部屋に招き入れると優しく労わるように頬を撫でられる。
「ミッドナイトさんから連絡貰った」
ミッドナイトさん、仕事のできる女性だ。あの場に自分を引き止めた張本人だがその後の対応とリカバリーがすごい。でも駆けつけてもらうほど心配するようなことじゃない。ただ嫌なことを思い出して気分が悪くなっただけだ。
「すみません、そんな大事ではないんですけど…」
「俺からしたら大事だ」
ぎゅ、と大きな身体に包まれる。安心感。
「こんな事ならさっき部屋に引っ張ってきゃよかったよ」
我慢が裏目にでた、と呟いてより一層強く抱き締められた。あんな余裕な顔して我慢してたんだ…!とリンが心躍らせて抱きしめて返すと頭に顎をぐりぐり押しつけられる。
「あの…今から引っ張って行ってほしいです」
「……。ほんとに、そんな言葉どこで覚えてくるんだか…」
「私もう大人ですよ」
「んん…、全く…」
眉間にシワを作りながらも口元を緩める相澤はリンの手を優しくひいた。
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