私の通う学校は、たいへんな不良校だ。
偏差値が底を突っ切るほどに低く、清らかな学舎とは何ぞ?とばかりに校内は完全な悪童たちの溜まり場と化している。
現に今だって、授業中にも関わらず教室はもぬけの殻で、校庭では一年と二年の不良たちが幾人か集まり派閥争いをしていた。
もちろん、教師は全力で見て見ぬフリだ。
万が一にも止めに入って、自分に暴力の矛先がやって来るのを誰もが恐れている。
よって放任主義なこの学校では、不良同士の喧嘩は日常茶飯事だった。
一日に何件も生徒による生徒のための諍いが発生するわけだが、私は争いが起こる度に恐怖で身が縮こまる。
入学してしばらく経ってもそれらは慣れるものではなく、むしろ日に日に恐ろしさが増してゆく。
不良校に通っているとはいえ、私は自衛の術すら知らないか弱い女の子だ。
ちょっとオツムが弱くて他の学校に入ることができなかっただけで、喧嘩が強いわけでも、派手派手しいギャル子というわけでもない。
本当に、普通の女の子なのである。
本来なら私くらいの歳の子は、恋に友情に勉強と甘酸っぱい青春を送るのが世の常だろうに、私に突きつけられた現実とはまこと残酷なものよ。
昨日までは何事もなかったはずの廊下の窓ガラスが割れているのを目撃したり、生々しい血痕や、誰かの差し歯を発見する度に思う。
いっそのこと、不登校になってしまおうか、と。
そんな気持ちを抱えながらも毎日登校を欠かさない私は、自分で自分を褒め称えたいくらいだ。
斜め前の席の子がある日を境に学校に来なくなったり、担任の教師が全治一ヶ月の謎の大怪我を負ったり、教室が誰も踏み込めないくらいに荒らされていたりしても、毎朝学校に来ることは止めなかった。
別に皆勤賞を狙っているわけではない。
少しでも怖い目に遭ったらすぐに我が家に引き篭もろうと、きちんと心に決めていたりする。
……の、だけど。
そう、運が良いのか悪いのか、私は直接的な不良の被害に遭ったことがないのだ。
不良に目をつけられたり、喧嘩に巻き込まれたりしたことが、奇跡的にも入学から半年間たったの一度もないのである。
不良たちの喧嘩は怖いけど私が殴られるわけでもないし、耳を塞いで目を閉じていればいずれ決着がつく。
教室を荒らされたのも私の知らない間だし、デンジャラスな毎日とはいえ、私は自分の危機に直面したことがない。
だから今日もまあ大丈夫だろうと、どこか楽観的に考えて学校にやって来てしまうのだけど、そろそろ本当にヤバそうなので引き篭もり生活も視野に入れねばならない頃だろう。
なんせつい先日、我が学年の総リーダー的な存在が三年にやられたらしい。
一年のクセに生意気だと、フルボッコだ。
おかげで一年の領域に他学年が以前よりも幅を利かせるようになり、ちょっと廊下を歩くだけで二年や三年に絡まれ放題な始末。
奴らはまるでピラニアの如く集ってくる。
ここはアマゾン川か!
ドキドキしながらその日一日を過ごし、しかしやはり私が何かの揉め事に巻き込まれることもなく。
だからかホッとしながらお風呂で癒され、そうして次の日もきっちり登校してしまうという、悪循環が生まれる。
……本当にまずいぞ、私。
「夏目(なつめ)さんって、悪運強い?」
いつものように教室の隅で身を潜める私に、ある不良が話しかけてきた。
びっくりしすぎて、口から心臓が飛び出るかと思った。
夏目とは私の名で、不良のクセに私に対して敬称をつけるやや紳士的なこやつは、環(たまき)と言う。
こやつの友人がそう呼んでいたのを聞いていただけなので、環が名字なのか名前なのかは分からない。
そもそも知ろうとも思わない。
たまに何の気まぐれか私に話しかけてくるクラスメイトの男だ。
「えっと、悪運……とは」
「そのままの意味だよ。夏目さん、幸薄そうな顔してるのにね。神様の加護でもあるの?不思議だなぁ」
「……」
不思議なのはお前のその意味の分からない言動だろ。
――などとは口が裂けても言えない。
何故なら相手は不良だから。
大事だからもう一度言う、相手は不良だ。
虫も殺さぬような顔をしてあざとく首を傾げるこの男は、こんなナリでも不良なのだ。
「ま、次はないだろうけどネ」
にこりと笑う環に、私は悪寒が走った。
そしてその帰り道。
誰かが後ろをつけている。
私が足を早めれば聞こえてくる足音も間隔が狭くなるし、立ち止まれば足音も止む。
間違いなく後を追われてる。
校門から出てきた時から気配があったから、追尾者の正体はおそらく学校の不良だ。
ひぃぃい!
とうとうこの日が来てしまった。
私が不良に目をつけられる日が……。
私は怖くなり、我武者羅に走った。
とにかく人気のある場所に向かわなければ。
目尻に涙が浮かび、足が縺れそうになる。
やめよう。
学校、やめよう。
こんなことになるくらいなら、さっさと不登校になるべきだった。
環のこともそうだ。
今のところ環からは私をどうこうする気配は見受けられないが、如何せん不良とは私の考えの及ばない生き物である。
宇宙人なのだ。
いつ、奴がネギを背負ったカモ(私)に標的を定めるか分からない。
無事に逃げ切れたら不登校になろうと意を決したとき、腕を掴まれた。
「い、いや!」
いつの間にか距離を詰められていたらしい。
恐怖で掠れた声しか出せない。
全力で抵抗してみせる私に、腕を掴んだままの相手は「おい」と言った。
明らかに機嫌の良くない、重低音。
私はとうとう固まった。
「おい、夢子!顔を上げろ」
ひぃっ。分かりました、夢子は腹を括って勘弁します……って、あれ?
確かに私は夏目夢子だけど、腕を掴む人物が私を名前で呼ぶことに違和感を覚える。
「え、って、匡(きょう)ちゃん!」
顔を上げた先にいたのは、見知った人間だった。
蛎原(かきはら)匡平。
回覧板を回す順番が我が家の次である、ご近所さんの次男坊だ。
手足がスラリと長く、身長も180を越えるスタイル抜群のこの男は、私と同じあの学校に通うクセに私と知り合いだと言うのが恥ずかしいという理由で、学校では一切話しかけてこない薄情者である。
心臓に悪い登場の仕方しやがって、と私は心の中で悪態をついた。
「夢子、腹減った」
「は?」
しかも藪から棒になんだ。
腹が減った、だから何?
私に食べ物を要求しているのか、こやつは!
「匡ちゃん、ひょっとして学校から私の後をつけてた?」
「あん?あー…、いや、まあな」
「余計な心配しちゃったじゃない!」
「知らねぇよ。つか、匡ちゃん呼ぶな」
匡ちゃんが図々しくも我が家にお邪魔しようとするので、頑張って追い払いながら、翌日も懲りずに学校に足を運ぶ私であった。
ちなみに教室で会った環には、黒い笑顔でよく分からない挨拶をされた。
「やっぱり無事か。本当に悪運強いなぁ、夏目さん。番犬でも飼ってるの?」
番犬?
トイプードルは飼いたいなぁとは思ってるけど。