「悪魔って?」
「別に。夢子が気にすることじゃねぇよ」
「え、待ってすっごい気になるんですけど!」
「いいから、帰るぞ」
「やだーっ!」
匡ちゃんは私を抱き抱え、抱腹絶倒するレオを無視して足早に立ち去ろうとする。
これ絶対、帰ったらはぐらかされるやつだ。
悪魔?何それ、知らねー的な返答しか得られないやつだ。
「れ、レオ!悪魔ってなに!?匡ちゃんなんでそんな風に呼ばれてるの!?」
気になりすぎて仕方がないので、やむ無し。
レオに疑問をぶつけてみる。
「“匡ちゃん”ーっ!?匡ちゃんって呼ばれてんのかよ!ぶはっ!ウケる!!」
しかしレオは私の言葉を聞いた途端に吹き出し、また笑い始める。
匡ちゃんって呼び方、やっぱり子供っぽいのかな……。
昔から変わらずこの呼び名だから、変える機会を逸しているというか、なんというか。
いや、今はそんなことを気にしてる場合じゃなくてだな。
―――が、匡ちゃんの足は早く、レオから情報を得られることはなかった。
廊下に倒れる不良たちの間を縫うように歩き、気がつけばあっという間に屋外である。
尚、その間ずっと私はお姫様抱っこされたままだった。
「……匡ちゃん、もう下ろしてくれていいんだよ?」
「じゃあ手を繋ぐか」
「なんでやねん」
匡ちゃんと手を繋ぐことの意味が分からないし、どうしてそれが「じゃあ」になるのか説明が欲しいのですが。
加えて、光の速さで切り返した私に、匡ちゃんが不満げな表情を見せるのはもっと分からない。
なんで不服そうにしてるんだ。
「ようやくお前が俺の名を口にしたのに」
「……匡ちゃんの名前はわりと頻繁に呼んでる気がするけど?」
「そうじゃねぇよ」
匡ちゃんが頬をすり寄せてくる。
犬みたいな仕草だ。
近所の柴犬のミッフィーちゃんも、甘えてくるときにこういうことをする。
「匡ちゃん?なんか、変だよ」
「変じゃない。俺はずっと、この日を待ち遠しく思っていた」
距離感がおかしい。
仮にも私たちは男と女で、しかも匡ちゃんは彼女持ちだ。
こんな風にじゃれ合うのは如何なものか。
「とにかく下ろしてよ!いい加減恥ずかしいから」
「嫌だ」
「匡ちゃん!」
「もう離さねぇし、離したくない」
いや困るんですけど。
てゆーか、あなた本当に蛎原匡平さん?
私が知っている匡ちゃんはもっとツンツンしてて、こんな砂糖菓子をドロドロに溶かしたような甘さを持つ男ではなかったはずだ。
自分の頬をつねってみる。
痛い。
夢ではなく現実のようだ。
「柴犬の次だったのが納得いかねぇが、まあ夢子にしてみれば及第点と言っても差し支えないしな。これからはずっとお前の傍にいるから」
「どういうこと?まったく分かんない」
「お前は意地が張っている。高校に入る前、俺のことなんか絶対に頼らない、そう言ったのを覚えているか?」
「……」
え、私そんなこと言ったっけ?
記憶の断片すらない。
「お前は俺がいないと本当にダメなやつだし、何より危なっかしいのに、そんな風に言われて俺も少しムッとしちまったんだよ。お前から頼ってくるまで、俺は何もしないでいようと思って少しだけ距離を置いた」
「あ、だから学校では話しかけるなって言ってたの……?」
「それもある。俺と親しくしていることで学校のやつらに目をつけられやすくなるんじゃねぇかって危惧してた面も、少しだけ」
「なんで匡ちゃんと親しくしているだけで、目をつけられやすくなるの?」
「……それは」
匡ちゃんは言葉を選んでいるのか言い淀み、次いで大きな溜息をつく。
「一年の“悪魔”、俺はそう呼ばれてんだよ。別に大したことをしたわけじゃないが、売られた喧嘩を買ううちに、そんなあだ名がついた。俺を目の敵にするやつらも大勢いる」
「匡ちゃん、喧嘩強かったんだね」
「強くなければお前を守れねぇだろーが」
きょとんとする。
匡ちゃんな口からそんな歯の浮くようなセリフが飛び出てくるなんて、思ってもいなかったからだ。
「お前が俺を頼るまで、極力何もしないでいようと思っていたが、まあ土台無理な話だったな。裏で色々と手を回して、お前が無難に学校生活を送れるように取り計らっていた」
あれ。
ってことはなんだ、私が学校で安全に過ごせていたのは、実は匡ちゃんによる力が大きかったってこと?
「由良野や外浦にまで目をつけられたのは誤算だった。ここらが潮時かと俺から折り合いをつけようとしたが、そんな必要はなかったな。今日、お前が俺の名前を呼んだ。助けてと」
「助けてなんて言ってない!ただ名前呼んだだけ」
「あれは助けてと言ってるようなもんだろーが」
得意げな匡ちゃんを見て、頭の中で何かが引っかかった。
そうだよ。
タイミングが良すぎるんだ。
私が匡ちゃんの名前を口にした瞬間に現れ、その上私が誘拐されたことをどこで知ったのだろう?
まるで最初から、あそこにいたみたいな……。
「―――…」
あんまり深く考えないでおこう。
無事に助けがきた、それでいいじゃないか。
「ところで夢子」
「なに?」
「さっき、あの男にキスされてたな」
「ぶっ」
いかん、思わず噴き出してしまった。
何を言うかと思えば、キスだと?
そんなものをされた覚えはない!
「違う!レオには顔舐められただけ!」
「……へぇ?」
気温が一気に10度くらい下がったような感覚に陥った。
あれ。匡ちゃんの周りがブリザード。
キスも舐めるのも大差ないって?
「俺だってまだ舐めたことないのにな」
「舐め……当たり前でしょ何言ってんの匡ちゃん!」
「夢子。消毒するぞ」
「や、やめてよ!顔近づけないで!ひぃっ」
匡ちゃんの腕から逃れようと暴れる私の鼻を、ぺろりと。
湿った感触が伝わってくる。
「匡ちゃん……!!」
この男、舐めた!
鼻を舐めた!!
お前は犬か!!
「夢子は俺より柴犬のミッフィーの方がいいんだもんな?」
さっき私が匡ちゃんの名前より先にミッフィーちゃんの名前を出したことを根に持っているらしい。
だからって婦女子の鼻を舐める変態行為に及ぶのもどうかと思うが、肝心の匡ちゃんはどこ吹く風である。
自分が変態であることの自覚がないらしい。
「ねぇ、匡ちゃん」
「なんだよ」
「匡ちゃんって私のこと好きなの?」
「何を今更」
「……」
自意識過剰かなと思いつつ、なけなしの勇気を振り絞って質問すれば、即答が返ってくる。
それは肯定ととっていいのか。
「紗耶香さんは!匡ちゃんには紗耶香がいるでしょー!!」
「あいつは違う」
「何が違うの!?彼女でしょ!?」
「だから違う。ただの防波堤」
「ぼ……」
「女避けって言えばいいのか?付き合ってるわけじゃない」
「最っっっ低」
「話を聞けって。お互い納得しての偽装関係だ。お互いの防波堤!紗耶香にはちゃんと彼女がいる。あいつ同性愛者だからな」
そうなの!?
何回か会ったことあるけど、確かにあれだけの美人で彼氏がいないってなると男共がうじゃうじゃ波のように押し寄せてきそうだ。
「でも好きって言ってたじゃん!電話越しで照れくさそうに言ってたの、知ってるんだからね」
「それも違う。あいつは俺の恋愛相談の相手でもあって、よくお前のことがどれだけ好きかからかい半分で確認してくんだよ。だからたぶん、その時のやつだと……」
「んんー!?」
え、なに、あれは私への言葉だったってこと!?
それが本当なら恥ずかしいんだけど。
羞恥で死にそう。
「もうやだ!むり!私のキャパシティ超えてる!!」
「夢子。改めて言ってやろうか?俺は―――」
「むりーーーー!!」
情報処理が追いつかない。
だってあの匡ちゃんだよ?
いつから私のこと、とか、私のどこが、とか。
考えたくないのに考えてしまうのが嫌で私は耳を塞いで目も閉じる。
もう何も受け入れられないし、受け付けたくない。
すると。
―――ちゅ、と音がした。
「え……」
「俺は、お前のことが好きだ」
今、唇に……。
「自分の名前すら時々漢字を間違えるような、救いようがないくらいバカなお前のことを一生涯愛してやれるのなんて、俺くらいなもんだろ?」
反論したいのに、金魚みたいに口をパクパク開閉することしかできない。
端から見れば、ものすごくまぬけな顔に違いない。
もうやだ。
熱が顔に篭もりすぎて、今なら顔面でお湯が沸かせるよきっと。
「―――失礼するぞ」
匡ちゃんの言動のせいでまともな思考と視界が大幅に狭まっていた私は、そう声をかけられるまで“彼ら”が近くまで来ていたことに気がつかなかった。
「あ、昭月……と、環まで」
大荷物を背負った昭月と、見るからに機嫌が悪い環のペア。
この二人が行動を共にしているなんて、天変地異の前触れではないだろうか。
「すまなかった、夢子くん。俺のせいで怖い思いをさせてしまった」
「えっ。なんで昭月が謝るの?」
「今回、夢子くんが攫われたのは俺のせいなんだ」
そう言って、昭月は背負っていた大きな荷物を地面に転がす。
…………大きな荷物は荷物じゃなくて人だった。
どこかで見たことがある人物。
ああそうだ、以前昭月のクラスにお邪魔したときに環たちに絡んでいたあの体格のいい男子生徒だ。
高校生とは思えない体格はとても印象深く残っている。
「今回の騒動の首謀人だ。俺に一泡吹かそうとしたんだろう。夢子くんを拉致し、人質にしようと目論んでいた」
「バカ殿だけじゃないよ。俺もターゲットに選ばれてたみたい。だからこそ俺たち二人に共通する存在の夏目さんが、被害にあったってわけ。一番に助けてあげたかったけど、そこの彼に先越されちゃったね」
環が匡ちゃんに視線を送る。
二人の間に火花のようなものが散った気がするんだけど、私の気のせいかな。
「二人はそういう関係だったんだね?本当、まさかだよ。悪魔と親しい間柄だったなんて、どうして教えてくれなかったの?夏目さん」
「環。そんなことはどうでもいいだろう。今は夢子くんに対する謝罪が先だ」
「……俺にとってはどうでもよくないんだけど?」
「謝罪が先だ」
「……」
珍しく環が押し負けている。
苦虫を噛み潰したような顔で一言「ごめん」と呟いた。
「これからは今まで以上に細心の注意を払うよ。夏目さんに危害が及ばないようにする」
「本当に申し訳なかった。夢子くんの護衛をしたいと願い出ていたのに、こんなにも呆気なく出し抜かれてしまっては立つ瀬がない。蛎原、きみも夢子くんを助けてくれてありがとう」
昭月が匡ちゃんに向かってお礼を言う。
「お前に礼を言われる筋合いはないけどな」なんて言葉が匡ちゃんの口から聞こえてきた気がしたけど、私にしか届かないような小声だったので、聞こえなかったフリをした。
敵意剥き出しすぎるでしょ。
「てゆーかさ、いつまでそうしてるの?夏目さんだって嫌がってるみたいだし、下ろしてあげたら?」
ナイスな環の援護射撃に、私はそうだそうだと大仰に頷く。
匡ちゃんよ、私を知人の前でお姫様抱っこという辱めから解放してくれ。
「………」
しかし肝心の匡ちゃんは環の言葉に耳を貸す気がないようで、私を支える腕を引き締め、さらに拘束を強くする。
おかげでただでさえ至近距離にあった匡ちゃんの顔が、もう触れそうなほど近くなってしまった。
「イライラするなぁ……。俺に喧嘩売ってるの?蛎原匡平。夏目さんから離れろって言ってんの」
「きょ、匡ちゃん離れよう!」
環がかなり苛立った様子なので、これはまずいと匡ちゃんの体をパシパシ叩く。
大魔王様が降臨しちゃうよ!
そうこうしているうちに、面倒なことにカオスなこの状況にまた一人、厄介な人物が現れてしまう。
「はぁ〜、なんか今日は面白いことばっかあったな……って、おまえら何してんの?」
レオだ。
「なんだ、まだ帰ってなかったのか」と私たちを見て嘲け、大魔王になりつつある環の傍まで近づくと、そら恐ろしいことに環の肩に無遠慮に手を置いたのだ。
「よォ、環。なんでまたお前、こんなとこにいんだよ。俺を助けに来た……ってわけじゃねぇよな?」
「……レオ。いたの?」
「薄情だなァ!そこのお姫様と一緒に仲良く監禁されてたっての。なァ」
レオが私に同意を求めてくるが、同時にこちらを向いた環の視線が怖くて硬直してしまった。
なんであんなに睨んでくるの。
もうやだ帰りたい。
「仲良く、ねぇ。レオ、お前、彼女に手は出してないだろうね」
「生憎と。邪魔が入っちまったからな」
「ふふ、空耳かな?邪魔が入らなければ出していた、って言ってるように聞こえるけど」
「あー、俺の女癖の悪さは悪友であるお前が一番知ってるだろ。まさかあの女がお前のお気に入りの夏目夢子だって知らなかったんだよ、許せ」
嘘つけぇ!!
私のことを夏目夢子だと言い当てた上で手を出そうとしていたくせに!
いや、まあ、どっちでもいいんだけど!!
「夢子。帰るか」
「うん……」
この状況に激しく疲れる私の心情を察してくれたのか、それともただ自分も面倒に思ったからなのか、匡ちゃんが踵を返そうとする。
「あ、そうだ昭月!」
その時、いたたまれないような、寂しそうな、そんな表情の昭月が視界の隅に映って、私は思わず声をかけた。
そうだった。
ちゃんと言っておかないと。
「あのね、今日のこと。ぜんぜん気にしなくていいから!昭月のせいじゃない。だから、こんなことで友達やめないでね。今度こそ、お詫びとやらしてくれるんでしょ?」
「……っ、ああ、もちろんだ」
「また明日、ね」
「ああ」
何かを噛み締めるように笑みを浮かべた昭月につられ、私も頬が緩む。
昭月は責任感が強いから、自分が私の傍にいることで私がまた危険な目に遭うんじゃないかって、離れていってしまう気がして。
繋ぎ止めておきたくて、思わず言ってしまった。
「お前はほんと、男を誑かすのが上手い」
「え?」
匡ちゃんがポツリと呟く。
誑かしてるのか、私?
まったく思い当たる節がないので、首を傾げるしかない。