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社長と秘書になるまで
遣る瀬ない日常にシンシンと積もっていく文字が文章になるまで、いったいどれくらいかかるのだろうか。旅行先のおみやげ屋さんで買った砂時計が落ち切って、動きを止めた。もう一度逆さにする動作すら面倒くさくて、机にべったり頬をつけて目を閉じた。残業を言い渡されたのはもう数時間前で、部署には自分以外だれもいない。日中は電話や話し声で騒がしいここがこんなに静かで広いことをはじめてしった。
失敗は成功のもと。
きょう、失敗をした。自分が失敗をしたことに気付いた時は一瞬逃げようとしたけど、どこに?って思って、次の瞬間には謝っていた。だれも怒りはしなかった。でもそれがすごく自分が期待されてなかったようで、心が端から凍結していく気分だった。やる気がなくなってしまった。どうせできないとわかっていたんだ皆んな、優秀な南条さんや東雲さんしか見ていない。おれは言われたことしか出来ないのに、その言われたことすら失敗してしまったんだ。
「……っ、は」
ぱたぱたと机に落ちていく涙に息を止めるけど、涙は止まらなくて目を閉じた。
「北尾」
踵が床にぶつかる音がいつの間にか近くにあって、呼ばれた名前に肩を揺らす。
「東雲さん…どうしたの、もう帰ったかと思ってた」
「いや、おれも担当してた仕事だし」
まだ見られてないと踏んで、涙を拭った。平然とした声はだせてただろうか。
向かいのデスクに座った東雲はファイルを5つほど持ってきていて、前例から調べ直してくれるみたいだ。ありがたい、自分だけじゃやる気が全くなくなっていたところだから。
「コンビニ行ってきたけど、コーヒー飲む?」
「いい、要らない、ありがと」
こすった目のコンタクトが痛くて、また俯く。
東雲さんはそう、と気にかけた声をだしてからパソコンを起動させた。
ちらりと東雲さんをみれば、疲れた様子はなくいつも通りよれのないスーツで艶やかな黒髪を揺らしていた。むしろ、なんだか元気。よく噂には聞いていたが本当に仕事大好き人間。残業も苦ではないのだろう。イケメンなのに特定の人を作らないのは、仕事の邪魔になるからだとまた噂でまわっていたが、それだけが俺の中では救いだった。イケメンで仕事できて彼女持ちだったら同期としておれが惨めすぎる。
すん、鼻をすすって自分もパソコンに向かうと文字の羅列が目を細めさせた。どこから読んでいいのか、どこを修正すればいいのか、やっぱり心が折れそうで目頭を押さえる。
「ここ、この書類真似したらいいよ」
行儀悪く椅子ごとおれのデスクの方にまわりこんできた東雲さんにギョッとする。
「あとここの数字を入れ替えて、全部書き換えたら終わりじゃん」
簡単簡単、と爽やかに笑う東雲さんはまるで宿題写させてくれる学生のようで、不思議だった。
こんな人だったのか、と今更ながら同期の認識を改めざるを得ない。
背筋がしゃんと伸びて、意見をはっきり口にできて、上司からの信頼も厚くてそれに応える力もあって、喋りかけにくい存在。だと、勝手に思っていた。
「はい、やります社長…」
「あ、俺まだ社長じゃないんで」
「まだって、なる気なんだ…」
「当たり前。働かされてるだけじゃなく、人を動かしたいからね」
かっこいい。
東雲さんの言葉に目を丸くしてると、柔らかい表情で俺をみつめて、綺麗な指でおれの目の端をぬぐう。コンタクトのせいでまだ涙が乾かないでいるのだろう、はずかしくて少し東雲さんから距離をとると逆に詰められた。
「俺が社長になったら北尾は秘書ね」
「え」
「おまえはサポートが上手だし、上に登っていこうという野望もない」
たしかに野望なんて、その前に目の前の仕事をこなすことに精一杯だ。
「無駄に人の仕事の負担を減らしてるところも、誰もしないとわかっていることを自分がしなきゃと思ってしまうところも、全部俺が使ってあげる」
「…まだ社長じゃないじゃん」
「うるせえ、素直に褒められて嬉しいって言え」
死ぬほど嬉しい。そう、わがままにも誰かに褒めて欲しかったその俺の行動を、ちゃんと見ている人がいて、褒めてくれる、死ぬほど嬉しい。けど、お礼なんて言ったら感極まりそうで首を振る。
「おれ、失敗多いし、」
「やらない人間は失敗しない、失敗が多いのはたくさん仕事をしている証拠だよ」
まあ、割合にもよるけど。なんてはにかんだ東雲さんは、菩薩様かなにかなのかな。
おれのデスクの砂時計をくるり、回転させると艶やかな黒髪を揺らした東雲さんはパソコンの画面を切り替える。
「ほら、終わらせたらご飯行くよ」
ああ、はい。一生ついていきます。
(あの頃の東雲社長は変態のかけらもなかったのに)
(そういえば、そんなこともあったね北尾)
社長と秘書になるまで
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