図書室と告白と
後編
そうして、どれくらいの間泣いていたんだろう。
放課後、紅くて綺麗だった空は、すでに暗い藍色だった。
風が身に染みた。傍に植えられていた真っ赤な紅葉の葉が、風を受けてざわりざわりと騒ぎだす。
急に怖くなって、私は立ち上がった。袖で目元を雑に拭う。
帰らなきゃ。思ったものの、何も持っていないことに気が付いた。
うわ、鞄とか図書室に置いてきたままだ。今から行って、開いてるのかな。
分からないけど、とにかく立ち止まっていたくない。
だって私が神無君のこと好きなのは、曲げようもない真実なんだから。今更くよくよ悩んだって仕方ない! ……はずだ、たぶん。
神無君は確かに意地悪な性格をしていると思う。今までそうじゃなかったこと、ないから。
でも図書室で本と向き合う姿は。すごく真摯で、真っ直ぐに伸びた姿勢と理知的な黒い瞳が、本当に綺麗だと思った。
初めはそんな些細な理由だったけれど。……ううん、もしかしたら、もっと違う理由なのかな。私が神無君と出会ったのって、いつだっけ? よく思い出せない。
でも、もういい。
そんなことはどうでもいいんだ。
神無君だから好き。
理由なんて今更、関係ない。だけどこの気持ちは、伝えない。伝えられない。彼には彼の想うひとがいるから。さっきはちょっと危なかったけど、大丈夫だよね?
そのひとと気持ちが通じ合うまで、神無君の隣に居られたら、私……。
私……それでいいのかな……。
***
あまり使われない、東校舎のトイレで鏡を見ると、それはそれはひどい顔だった。水で洗ったけど、あまり意味はないかも知れない。
下校時間がかなり過ぎているからか、他の生徒と鉢合わせないだけ良いのかな。
下駄箱から校舎を突き抜けるのが、図書室への最短ルートだろう。
私は下駄箱へ足を踏み入れた。照明がついていないので思ったより中は暗くて、十歩先くらいからは何も見えない。
けれど、それでも。
私にはそこに佇む人影が誰なのか、すぐに解った。
彼はこちらに背を向けて、下駄箱のロッカーに寄り掛かっている。
二歩分の距離を空けて私は立ち尽くす。
「神無君……!」
声が震える。でも、呼べた。
神無君は首だけを動かして、斜に構えた。じっくりと私の目を見て。
「……気が済んだ?」
「え?」
「どうせ泣いたんだろ」
言葉の端から僅かに刺を感じる。よく分からないけど、怒っているのかも知れない。
「分かっちゃうんだ。神無君には、いつも適わないよ」
「みちるは単純なんだよ。見てるんだから、分かる。そのくらい……で、なんで泣いてたって?」
「言えないよ、てか言いません!」
たった一歩で、神無君は私との距離を詰める。呆れたのか、ため息が降ってきた。
「言わないって。みちるが恥ずかしいとかの理由なら、どうでもいいんだけど」
「え? いや良くないよ、ね……?」
自分が情けなくて悔しくて泣いたなんて、言えないよ。
「いいから。何をされた」
命令じゃないのに。
彼の言葉は、私を拘束する力を持っている。
そこで私は、神無君との会話に多少のズレがあることに気が付いた。
「された? 私が?」
「事故って何」
ごく自然に手首を掴まれ、軽く引き寄せられる。神無君の手は、私の手よりも一回り大きくて、冷たい。
予想外の行為に、もともと疲れ気味だった足がもつれて、転びそうになった。それを支えてくれるのも、神無君の腕。
「あの、神無君、もしかして見てなかった……?」
事故。先輩が額に口付けたことを。
神無君は頷いた。苦いものを食べた後みたいな表情で。
え。じゃあ、私が勝手に見られたって勘違いして、それで先走って告白めいたことしちゃって……。
身体中の血液が顔に集まる。
「あああっ、あのさっ。今日はもう遅いし、私もう帰るね!」
「途中まで一緒だから別にいいけど」
「そういえば鞄! 図書室に忘れてきたんだよね。取ってくる!」
「ここにある。持ってきた」
言いながら、神無君は自分のすぐ後ろを指し示す。行儀良く床に並んでいる二人分の鞄。
逃げる口実が思い浮かばなくて、泣きたくなる。ついに俯いてしまった。
「みちる」
「な、に」
「もう一度言って」
「だから、何を」
神無君を見上げる。整った顔は、時々冷たい印象を伝える。今も、そう。
だけど、内に激しい感情を併せ持っていることも私は知ってる。神無君が私の手首を掴む力が強まった。
「みちるの気持ち。嘘じゃないなら曖昧にしないで」
一際強く心臓が脈打つ。お願い、もうこれ以上速くならないで。何も考えられなくなる。
「ま、待ってよ。何だかそれって私ばっかりな気が……」
「気にしない」
「気にするよ! よしわかった。じゃあお互い三歩下がった瞬間に気持ちを言おうよそうしよう」
「意味わかんないんだけど」
「いっそのこと聞かなかったことに……」
「するわけないだろ」
だって、彼には……好きなひとがいるんだし。私の気持ちを言って、どうなるんだろう。
神無君は呆れたのか私の手を離し、自分の額を覆った。
束の間の自由を得た私は、床に置かれた鞄に素早く手を伸ばす。けれどその行為はやっぱり無駄でしかなかった。
両肩に軽い重み。それが神無君の手だとわかった直後、睫毛の近くで空気が揺れた。誰かの顔をこんなに近くで見たのは、今日二回目だ。
や、ちょっと待って。
「あの、神無君?」
「俺さ、結構待ったと思うんだ」
私は二、三度瞬きをする。それってつまり。
「え、と? 待たせちゃってごめんね? 帰るの遅くなっちゃったね」
「今の状況を言ってるんじゃないって。あーもういいよ」
ため息を吐いて、不機嫌そうに彼は呟く。いつもは冷たい黒い瞳に、熱がちらついている。
私は吸い寄せられたまま、彼の瞳から目が離せなくなる。ああ、違うそうじゃない。近づいてきてるんだ。彼が。
でも。
何だか鈍い音がした。
一瞬のことでわけがわからない。私は仄かな温もりと痛みが残っている、唇の右端に触れた。
説明を求めて神無君を見上げると、彼は今まで見たこともないくらい、それこそ夕陽よりも真っ赤に顔を染めていて。
神無君は再び下駄箱に背を預けて、袖で唇を覆っている。
かみさま。かみさま。私にほんの少しでいいです、勇気をください。
「ねぇ、神無君」
「…………」
「私、その、あのね!」
神無君は腕を下ろして唇を引き結んでいる。逸らされていた目が、私を貫く。
「あ、明日からも、図書室! 神無君の向かいの席に、座っていい……?」
もし、勘違いじゃないのなら。そこが私の居場所だから。
呆然としていた彼が動いたのは、どれくらい経ってからだろう。身体中の骨が悲鳴をあげるくらいに、きつく抱き締められていた。額と額を軽くぶつけられる。
「……ばか。それじゃ隣が空いたままだろ」
***
放課後の図書室。
今日はまだ誰もいない。 本のカビの匂いが鼻をくすぐる。
私は星座の雑誌を手に、いつもの席に腰をおろした。西日が緩やかに照らすこの場所は、暖かくてついうとうとしてしまう。
それから、それからね――
「みちる」
呼ばれて、慌てて口元を拭う。ひだまりが心地よくて、ついつい転寝をしてしまった。そんな私を気にも留めず、神無君はいつもの席に座る。
私の、隣に。
(fin.)