シズちゃんに怪我を負わされた日から、一週間が経った。
日を追うごとに確実に俺の聴力は失われていく。

そんな毎日を過ごしていくうちに夜目を閉じるのが怖くなった。今眠ってしまえば、次目を開けた時さらに聞こえなくなっているのではないかと思うと、怖い。
最初は携帯の音が分からなくなった、その次はテレビの音が聞き取りにくくなった、人の声は......多少聞きづらいがまだ、大丈夫。
そう自己暗示するように繰り返す自分が滑稽だった。


「まだ、大丈夫...大丈夫だ、そう......まだ。」

「ねぇ、いいかげんあの闇医者に連絡したらどうなの?」

「....大丈夫、だよ。」

「........」


珍しく波江が少し不安げな声色で言う。わかってる、新羅に連絡した方がいいことぐらい分かってる。でも、これはあくまで俺の直感でしかないが、きっと新羅を頼ったところでこればかりはどうにもならない。
おそらく事態はもっと悪化する。今聞こえてる音も失って、俺の生きる世界に音はなくなる。
無音の世界でどう情報を手に入れようかと、無理矢理に開き直って考えを巡らせてみるが数分も持たない。あぁ、俺は一体どうなるのだろうかと、無意識のうちに嘲笑が漏れる。


原因は、どうせシズちゃんとの喧嘩だろう。穏やかな生活を望む彼の日常をぶち壊したツケが回ってきたのかもしれない。
嗚呼、この世で一番大嫌いなシズちゃんの日常をもう見出すことはできないのだろうか、と思うと次第に心に黒い影が広がる。


手に持っていたティーカップを床へ投げ捨てた。パリンという音がどこか遠くで聞こえる。白い欠片が床に散らばる。その様子を見て波江が眉を寄せた。


「...!ちょっと......」

「自分で片付けるから置いといて。......それと今日はもう帰っていいよ。」

「......そう。」


俺の言葉に波江がコートを手に玄関へと歩いていく。その後ろ姿が俺の視界から消える前に俺は再び考えにふける。
波江は聡明な女性だ。だから俺の言葉に隠された1人にしておいてくれと意をちゃんと汲み取ってくれた。


シズちゃんが平穏な日常を歩む?そんなこと、許さない。俺が許さない。
人類全てを愛していた俺に、唯一例外を生みだしたあの男が他の人間と同じように、人間の皮をかぶって生きる、なんて。


でも、だからと言ってきっと俺はもうシズちゃんと同じ盤上には立てない。
高校時代はまだ良かった。俺が刃を振るえば少なからず彼の体を傷つけた。俺の体がぼろぼろになることもあった。でもシズちゃんだって同じようなものだった。
あの頃の俺らは、イーブンだったはずだ。

言いかえるなら、対等だったのはあの頃だけだ。
俺はシズちゃんには敵わない、力も何かも全て。シズちゃんが、遠い。今ですら遠いのに。



「これ以上.....離されるなんてごめんだよ。」



もう、俺にはシズちゃんの背中も見えないというのに。また俺の知らないシズちゃんになってしまう。
そんなことを真剣に悩む自分が馬鹿らしく思えた。

シズちゃんは嫌い、なのにシズちゃんと同じ盤上に立てないのは嫌。そんなくだらない感情を抱いて延々と悩む意味がわからない、と床に散らばった破片はそのままに
近くにかけてあったコートを掴んで俺は数日ぶりに外へ出た。




「.......はは、はははは」


乾いた笑みがこぼれる。白い息とともに吐き出されたその声は実際どのくらいの大きさだったのだろうか。
俺は今池袋に存在する。それは紛れもない事実なはずなのに。


久しぶりの池袋は、全く別のもののような感じがした。
何も変わってはいないはずなのに。相変わらず人通りの多い街。至る所にたむろするカラーギャングも、疲れた顔をしているサラリーマンも全部全部同じはずなのに。



(音が、聞こえにくいだけでここまで変わる、とはねぇ......)


わからない、よく知っているはずなのに。俺にはもう、池袋がわからない。
やはりこんな状況で情報屋を続けるのは無理、なのだろうか。と意味もなく携帯を掌の中で遊んでみる。


きっとこのまま情報屋としての折原臨也は消えてく。誰にも、何にも気づかれずひっそりと影をひそめて。
それはそれで情報屋折原臨也の死に方らしいといえばそうなのかもしれない。



でも、俺はそんなのは嫌だ。消えたくない、忘れられたくない。でも忘れられるのが運命だとしたら?
忘れられる前に俺が消えれば、いい。
どうせ俺はもうシズちゃんとは戦えない。からかって彼を逆上させることだっておそらくままならない。


だったら、俺はもうここにはこない。居てはいけないと、俺は走り出す。
視界が揺れる、それは平衡感覚の欠如によるものなのか、他のものによるものなのか一瞬悩むも足を止めることはできない。
すれ違う人がみな、俺が走ってきた方向を振り返る。もしかしたらシズちゃんがいるのかもしれない、その考えが頭を過る。
そうだとしたらなおさら、俺は逃げなければならない。

シズちゃんの前でこんな俺は見せられない。耳が聞こえないとしったら確実に彼はもう俺を敵としてみなさない。シズちゃんは時に反吐が出るほど人間らしい、から。
地面が揺れる。ぐらぐら、ぐらぐらと。


数分走り続けて息が上がり、必死に酸素を取り込もうとする体に従って足をとめた。
ここまでくれば、と思い壁に背を預ける。再び乾いた笑いが漏れる。空は曇って星一つ見えやしない。
顔を伏せて、笑う俺の手を、誰かが、掴んだ。そして叫ぶ。


「臨也......やっと捕まえたよ」

「......え、」


顔なじみの闇医者はそう言って、俺を抱きしめた。




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お ち が な い



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