魔王の職務放棄(雇われ魔王の喫茶店)

 魔王の住む城と言えば、大抵は『切り立った崖の上にあり空は何時も曇天、古びて蔦が絡まり天を突き刺そうとするそれがおどろおどろしいオーラを放ち、加えてそこに辿り着くまでの道のりが険しく、魔の巣窟と言うべき暗い森が来訪者を阻むように目の前に控えている』――少なくとも城から遠く離れた地域ではこのように思われているだろう。

 だが、それをこの城下町の住人に尋ねると一風変わった返答が一様にして返ってくる。
『緩やかな丘の上にあり空は何時も晴天、創建されて数百年だが真新しい白壁、加えてそこに辿り着くまでの道のりは至って平易で、優しさに満ち溢れた自然が来訪者を歓迎するように包み込んでいる』――これがこの国の首都での常識である。

 その民を治める当の魔王はと言うと、だだっ広い城の最上階の執務室でそれはそれは退屈である事をこれでもかと体現していた。高級感漂う黒い椅子にだらしなく背中を預け、卓上の書類達を無視するように椅子を180度回転させる。見事な金色の髪がふわりと揺らいだ。そして何か思いつめたような鬱屈した表情を転換させ、徐に背を伸ばして立ち上がる。
 目の前のテラスからは光が差し込み広大な大地に浮かぶ美しい緑と家々が見渡せるが、数百年見続けて来た彼にとってはそろそろ飽きてきた景色。遠くの街ではビルも増加しているようだが、此処からでは見えない。

「……………………」

 最早言葉を発する気力も湧かない。整った唇から出てくるのは声になり損ねた吐息だけ。
 現実から逃避しようと澄んだ水色の目を閉じ、あれこれ考えて暇だと訴える気持ちを誤魔化す。するとあれだけつまらないと感じていた心も幾分か不満を治め、ほんの少しだけ、ペンを片手に紙の山と睨み合いをする気が生じる。本当に、ほんの僅かだが。
 そうして緩慢な動作で己の体温が残っている椅子に腰を下ろし、くるりと廻って机上の仕事道具を見下ろす。再度ペンを手にすると、半眼で黙読しサインを記していく。

 今日こそ溜まりに溜まったこの鬱憤を晴らす時だ。――幾度となく同じような事を思い、そして毎回見事に挫折。
 挫折と言うより、普段はこちらの事などほっぽっている癖に絶妙なタイミングで姿を現し、意を決して一世一代のアクションを起こそうとするのを悉く邪魔する側近の所為と言える。少なくとも、日々何の変化もなく繰り返される公務に頭を悩ませている魔王にとっては。
 彼が意図してそうするのかは判らないしどうでも良いが、最近、と言ってもほんの数年前にその事に気付いてからは、どうせまた失敗するのだろうと半ば投げやりな諦めを抱く事になり、どんなに葛藤が繰り広げられていても最終的には思い止まってしまう。他人のように己を意気地無しと罵ってみても、ちくりと痛みが走った当初とは違い、神経も大変図太くなった。

 このように内外からの諸々の要素が重なり、仕事を投げ出し一人こっそりと外に出ようとする計画は未だ不実行で未達成のまま。ずるずると続く何処から湧いたか知れぬ負の連鎖に、今では身を委ねている。
 こんな形で不甲斐ない諦めを知る事になろうとは。自分はもう一生このままなのか。

「歳をとったな、儂も」

 自嘲する目は相変わらず、板に付いた半眼のままである。これまでの人生の中で初対面の魔族から必ずと言って良い程褒められた瞳も、今はその輝きを失っている。
 最初こそこの日常に目一杯抵抗したが、もう「あの時は若かった」と振り返る材料にしかならない。それ程までに考えは変わり、己の青かった日々は心の黒歴史と化した。

 ふと、感じなれた側近の近付く気配を察し、魔王――ヴァンシュタインは肺の奥から盛大な溜息を吐いて彼の訪れを出迎えた。

「毎度毎度全く以て失礼ですな。嘘でも笑顔を貼り付けて頂きたいものです」
「見飽きた顔を何故上辺でも歓迎してやる必要があるのです。儂にそんなスキルはない」

 仮にも主の前で包み隠さず不満を宣う壮年の側近ラルフローレンに、呆れたように突っ込みを返す。良い意味でも悪い意味でも遠慮がない側近の扱いというのは甚だ面倒なものである。もう一つ溜息を零し、来訪者の為に上げた視線を書類に戻すと、素っ気ない声音で理由を問う。

「用件は」
「嗚呼、ウィズレーに新たなビルディングが建設されると聞きました。これがその報告書です」

 そう言ってひらりと置かれた興味のないビル建設の報告書を尻目にヴァンシュタインはさらさらとペンを動かし、手が麻痺する位に書き飽きた己の名を刻んでいく。黙々と作業する魔王の姿の何処が面白いのか、ラルフローレンはにやりと意地悪そうに目を細めて言った。

「おやおや、もう諦めたのですか? 200年前の貴方ならきっと無理にでも逃げ出そうとしていたのに、最近は手応えがありませんなぁ」

 またか。胡散臭いと言いたげなライトブルーの瞳が胡乱に光り、側近を可哀想な物のように見遣る。精一杯の無言の反攻に屈する程器の小さくないラルフローレンはそれを楽しげに躱し、益々以て目を細める。

「誰かがいなければ今すぐにでもそうしてますよ」

 そう言う表情はかなり暗く、とてもそんな積もりには見えない。いや、本当に側近がいなければ脱走するのかも知れない。微かにだがまだ望みを捨てていないという意思が己の内に見えた。しかもタイミングの良い事に、丁度最後の書類に手を付けた所。
 何故だか急にやる気を出したヴァンシュタインは逸る心を表に出さぬよう気遣い、サインを終えると何時ものように気怠げにペンを所定の位置に戻し、裁定済みの箱に収めた紙を整える。

 上手く隠し切れているとは思わないが、数百年前よりは落ち着いた大人になったと自覚のあるヴァンシュタインは、今まで言葉巧みにこの決意を押し切って来た側近が何か言う前に強行手段に出る事にした。そう決め込んだ途端、先程ぐだぐだ悩んでいた精神に吐き気がする。
 その変化ぶりを疑問視するまでに心境は一変した。驚きつつ、しかしこれ以上の見えぬ後押しを無視してしまえる程神経が荒んでいなかった事に自分で自分を褒め称える。良くやったぞ、儂!

「じゃあ後は頼んだラルフ!」

 有無を言わさぬ勢いで風のように消え去った主のいない部屋で、口早に何かを託された側近はただ一人茫然と立ち尽くしていた。あれ程までに意気揚々とした開放感のある魔王の笑顔を見たのは久しぶりだと、その日のラルフローレンの日記は締めくくっている。

*************

 高速で空間を抜けていくヴァンシュタインがこの辺で良いだろうと降り立ったのは辛うじてこの国の首都に属している東の町であった。
 首都の外れと言うと大抵鍛冶屋や工場が多く、この地もご多聞に漏れずその一角を担っていた。正に工業地帯。職人の町である。

「さて、どうしたものか……」

 外に出たいと長年願っていたものの、いざ出てみると何をすれば良いのやら。手持無沙汰が続くのは勘弁したい。だが特に外に出て何をするか計画など立てていなかったヴァンシュタインは、完全に途方に暮れていた。
 単に“外に出たい”それだけが目的であり、じゃあ具体的に何をするかと言えば、そんな事はまるきり脳味噌の外に放り出されていて。一番肝心な所が抜けているこのお粗末さ。純粋に、一人で自由に街を歩きたいだけと気付くのは皮肉にもこうして念願が叶ってから。

「我ながら不覚……」

 などとクールな面持ちで呟いても尚更格好悪さが際立つだけである。

 世界一の晴れの国とさえ言われるこのテイルファーゲンで年中平等に降り注ぐ太陽の光が、柔らかくこの身を包む。その温かさにほう、と方を撫で下ろし、彼は落ち着いて周囲を見渡した。さて、此処から何処に進もうか。
 表通りらしいそこを離れ、横道へと逸れてみる。ガイドブックでもあれば有難いが、生憎この町に書物を扱う店はない。工場とそれらに勤めている職人達の胃袋を支える飲食店などがあるだけで、首都の南に広がる住宅地とは一線を画す雰囲気だ。

「はぁ、これはこれで暇ですね……」

 数百年前から願っておきながら城に篭っている時と何ら変わりないうら寂しさを味わう現状に落ち込みつつ、しょうがないので何か腹を満たそうと手頃な飲食店を探す事にした。幸い小銭ではあるが、金銭も忘れずに愛用の古びた焦げ茶色のコートに忍ばせている。

 生気のない半眼で辺りを見回しながら体の良い喫茶店にでも入って暇を潰そうと目論んだ矢先、一つの視線とかち合った。
 上品な茜色の髪を横で一つに束ね、錆びた赤茶色の瞳の女性が箒を握りしめて彼を凝視している。今この通りに人気は全くないので、彼女が見るとすれば自分しかいないだろう。そんな結論を弾き出し、ヴァンシュタインは熱視線に何とかして応えようと遠慮がちに口を開いた。

「あの……」
「魔王様……ですよね……? 何でこんな所に」

 相手の方も遠慮がちに、ヴァンシュタインの台詞を遮るように驚き、不信感を露わに声をかける。
 誰が見ても年に数回しか国民の前に現れない深窓の魔王の容姿を持つ男性が、曲がりなりにも首都とはいえ何故こんな工業地帯の辺鄙な場所にいるのか。そういったニュアンスが空気を通して伝わったのか、彼は苦笑して理由を述べた。

「実は城を抜け出してきて……」
「……はぁ?」

 あれ、有り得ないと言いたげなその顔は何?
 素直に正直に真っ直ぐな理由を何の捻りも隠蔽もせずストレートに告げると、女性は今何て言ったと信じ難い顔を容赦なく向ける。隠しても仕方がない事は偽りなくぶっちゃけてしまう性格のヴァンシュタインは、予想外の反応に逆に訝しい視線を送る。

「え、いや冗談でしょ? お城で優雅に仕事してるのが貴方じゃ」
「それはまたえらい誤解ですね……あれの何処が優雅だと」

 ヴァンシュタインが数分前までの閉じ込められていた自分の姿を思い出しやれやれと爺臭い嘆きを吐露すると、若干猜疑心が残るものの女性は目の前に魔王がいるという事態を飲み込み、そして逡巡した。ある閃きが直後に生まれる。

「私、喫茶店を経営してるんですけど……」
「え、本当ですか? 嬉しいです丁度一息つきたくて」

 瞬時に鋭くなった目の輝きに気付かず、ヴァンシュタインはかけられた言葉に純粋に感謝の意を示す。

「目玉になるものや人手が欲しいとずっと思っていたんです……」
「……はぁ……それで?」

 この辺りでようやっと会話の流れに疑問を持ったのか、首を傾げて彼は続きを待つ。嬉々として彼女は発言した。

「なので、ちょっと私に雇われてくれません? 魔王様」
「はぁぁっ!?」

 この時、彼は生を受けて初めて、大声を張り上げて吃驚した。


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