第参話:第貳頁
久々の天界は、下界に降りる前と雰囲気には違いがないように見受けられた。少なくともあの文で感じた不穏さはない。
「主神! 戻ってらしたのですね」
上手い具合に居合わせた女官が久々の長の姿に喜ぶ。己の心配が取り越し苦労である事に安堵して、天禰は軽口を叩いた。
「呑気な文を送れる程には余裕があるみたいだな」
「ええ、天禰様のお言葉のお陰で御座いましょう」
あの鼓舞はきちんと効いているらしい。いずれにせよ、天界が今まで通り穏やかであるならそれに越した事はない。だが女官の薄っぺらい笑顔が、とてもこちらの言葉が効いているように見えないのはどうした訳か。
「ですが……密かに戦の準備が行われているのではと疑う神々もおられます」
打って変わって声の明るさを落とし、彼女は周囲を窺うよう静かに言う。残念ながら、天界の長の言霊はそれほど強く轟いていないようだ。全く嘆かわしい、と天禰はその一言を切り捨てた。
「放っておけば良い。悪戯にしては質が悪いが、所詮その程度という事」
しかし、と女官は続ける。まだ何かあるのか。若干うんざりしつつも、天禰は黙って続きを待つ。
「我等の返答を知った魔界の長が、突然消えたとの噂もあるのです」
恐る恐る吐き出されたそれに、天禰は顔を顰めた。真剣味を増したのではない、“噂”というあやふやな単語が気に入らないのだ。
「それで、奴の行き先などは分かっているのか」
苛立ちを露わにせず、且つ上機嫌でもない顔で尋ねると、女官は更に申し訳なさそうに応える。
「いえ、残念ながら……でもまさか、天界(こちら)ではありますまい」
長が魔界を出て行く所となれば、天界もしくは下界のどちらか。神々の光が照らすこの世界に僅かでも闇が紛れば即座に明るみに出る。幾ら戦好きの長とて、そこまで己を危機に晒しはすまい。候補の一つは必然的になくなり、残るは――
「私は下界に戻る。引き続き、何かあれば知らせるように」
「……御意に御座います」
暫しの天界から即座に離れ、天禰は足早に下界へと舞い降りた。その表情に含まれているあらゆる感情を僅かに悟るのは側近のみ。
「随分と演技が達者になられましたね」
「……私が焦っては意味がないだろう」
長がどんな存在であろうとも、彼等がこちらに平伏すのは火を見るより明らか。いずれ戦とは名ばかりの大仰な遊びにも終止符は打たれる。そうでなくてはならない。絶対に。
「早くあの小さな家に帰ろう」
彼女の無垢な笑顔は、高天原と下界を照らす太陽のように暖かい。人が皆、あのように幸せであれば良いのだ。例え天界や魔界の存在なぞ知らずとも。
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「成る程……下界か」
さしてつまらぬ世界と記憶している。我等人型を取る妖より遥かに脆弱な、脆弱そのものである人々の世。
天と地が完全に分かたれておらぬ頃、まだ天と地の距離が近しい頃。その時には既に沢山の人間がそこにいた。特に興味を引くものもなく、それきり訪れる事はなかったが――
「久々の遊山だな」
常夜の国を離れる事に未練はない。この世での己の地位は揺らぎようがないのだから、気にかけるだけ無駄というもの。それに、こういう時に命令ばかりするというのも存外暇である。
暗く黒い双眸と同じ沓がこつこつと常夜に響く。濁った紫紺の髪は動きを縛られず闇より浮かび上がり、風もないのに揺らめく黒紅の水干がその存在を確かなものとする。
「暇潰しにはなるだろう」
天の騒ぎなど与り知らぬ、哀れな世界よ。己が身の弱さを知らぬ、無力な魂よ。
彼の地には既に天界の長が降っていると聞く。文に反応せぬばかりか直後に留守となった存在がいると言うのなら、これは面白き収穫。お互い面識はなけれども、長ともなれば一目瞭然だろう。
「――楽しみだ」
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綿のような優しい軽さではなかった。前触れもなくずしりと重石を背負わされた、正しくその感じ。だというのに、暮らす人々は皆平然としている。天禰が見上げたと同時、太陽が雲に身を隠した。
「これは――瘴気だ」
その名を呟いた途端、霞が晴れるように薄闇の存在が明確となる。嗚呼、と空を仰ぐ長を見つめ照前が代わりに言った。
「早いですね。余程こちらを急きたいのやも知れません」
早いというのは女官から情報を得た段階からして。この重苦しい気がまだそうと決まった訳ではない。だが“魔界から離れた”というのが単なる噂程度ではなく、れっきとした事実らしいという驚き。
「愚かな……下界を巻き込むつもりか」
お互い干渉せずにいたあの時にはもう戻れない。少なくとも向こうはその気ではないし、寧ろ時を押し進めようとしている。
「如何致します。今からでも、あの方に助力を申し出ますか」
「いや、まだそうだと決まっていない――動くなら確実にせねば」
これほどの瘴気の出処となると、まず疑うべきは黄泉国。しかしその通り道は神代の昔に封じられ、以来開かれた試しはない。よしんばそうであったとしても、再び封じれば済む事。
抑々彼の国は隔たって久しく外界と関わりを持たずにきた上、黄泉の長が今更その態度を改める様子も聞かない。
念の為そちらは照前に確認させるとして、さて問題は残る大きな可能性。こればかりは、天を治める己が出向くべきだろう。
「黄泉へ向かえ」
思案を巡らせる主の邪魔をせず控えていた優秀な従者に指示すると、天禰は振り返って再度告げた。
「我が推測を昇華させるには、黄泉の扉を調べねばならぬ。良いな」
「御意」
すかさず頭を垂れ鳥へと変化した照前は、主が見守る中木々を飛び越え黄泉の入り口へと向かった。