第参話:第弌頁
「――向こうの様子は」
何処が地面かも分からない雲がかった月夜、紫紺の毛髪に纏わり付いた埃を指先で払いながら、その人物は背後で片膝を付き事の経緯を報告に来た人物に語る。
「文を受け取った事だけは確かです」
若々しい声でそう端的に告げられると、紫紺の髪の人物はく、と喉を鳴らした。
「そうか……返事は無かった、と」
「はい」
問い掛けると一言、肯定が返る。そしてその言葉にも、紫紺の髪の人物はまた口角を跳ね上げた。
「上出来だ。下がれ」
控えていた者を任務から解放し、紫紺の人物は先程の報告を再度、脳で噛み砕くように浸透させる。
「さて、どう出るか――」
何が可笑しいか、紫紺の人物は静かな笑みを絶やさずにいた。
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攫われたクルスを無事救出してから、一週間が経った。クルスはといえば、ずっと眠っていただけのようで外傷もなく、翌日からは何時ものように働きに出ていた。そうして長閑な日常に慣れ親しんでいたある日。
「――また?」
オオノが顔をしかめながら言うと、クルスの表情は分かりやすく暗くなった。幾度となくその話を聞いているので、声色からもうんざりだとの感情が見えた。
「ああ、またさ。だけど、様子が今までと違うんだよ」
あんなにでかい態度だったのに、と不思議がるオオノを横目に、クルスは夕方からの店の準備を進める。
「違うって、どう違うの?」
「何て言うかねぇ……こう、変にびくびくしてるらしいよ」
これまで勝手を通しておいて、何を今更縮こまっているのか。周辺地域は専らその話題で盛り上がっていると聞いた。
「……ふーん」
「おや、反応が薄いね」
オオノが意外そうに問うと、クルスは溜め息を一つ吐いて。
「だって、そんなことばかり気にしてられないでしょ」
呆れながらも真面目にそう答えるクルスにオオノは苦笑し、穏やかな日が暮れていった。
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天禰は、照前が天界から持ってきた神々達の文を家で読み耽っていた。そこにはあの文以降、何ら変わりない日常が続いているという楽観的な内容と、早く天界に戻ってくれとの願望が書かれていた。
――不気味だな。神々達の小言には気を留めず、冷静に見つめる。何も動きが無いのなら喜ぶべき事なのだが、どうも釈然としない。
「どうかなさいましたか」
「――嗚呼、いや」
険しい表情で和紙に書かれた文字を睨む主を気にかけ、照前が一言声をかける。気付いた天禰が擡げていた頭を起こし、何もないといった風に取り繕う。
「私にはそうは見えませんが?」
何処か含みのある笑みで側近がそう問い掛けると、天禰は微苦笑ながらに「敵わんな」と呟いた。
「怪しいと思いますよ、私も」
背もたれに体を預け照前を見上げると、自分と同じ疑問を抱いていることを明かされ。
「――仕方ない、一度戻るか」
「御意」
夕暮れの真っ盛り、天禰達は一言断るべくオオノの店へと向かった。
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その言葉に、クルスは理解する前に「え?」と反射的に問い返した。天禰達が一時的に天界に帰ると言うのだが、唐突過ぎて彼女は仕事の手を止めてしまった。
「すぐ戻る。向こうに少し用があるのだ」
「そう……」
ぎこちない言葉を口にしつつも笑顔を発していた顔は、何処か悲しげに揺れた。
「気をつけてね、神様」
明日にすればなどと我儘を浮かべたが仕方ない。店の外まで彼らを見送ると、途端に小さな寂しさが押し寄せた。
「あの人たち、どこか行くのかい?」
引き返すと、キッチンから店主の声がする。呼びかけられたクルスは振り返り、ただ一言肯定の言葉を述べた。
「何ていうか……色々と不思議な人達だねぇ」
空を見つめてオオノがそう呟いたのを、クルスは理解出来ずにいた。確かに、彼らはこの地上で生きているものとは一線を画す。放つ雰囲気が、独特であるというのがそれだ。だがそれ以外自分たちと至って変わりはない。外見が全くもって地上の人間と同じである。
細かなことには無頓着なクルスは、オオノの指す「不思議」が一体どの事なのか想像がつかなかった。もっと具体的に言ってくれれば、鈍感な自分でも分かったかもしれないと彼女は思った。
「さて、そろそろ開こうか」
知れず物思いに耽っているクルスを通り過ぎ、オオノは扉に掲げられている“準備中”の板を裏返した。居酒屋の開店だ。