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 新堂はエドアルドの持つ幾つかの所有地に建つ屋敷のバルコニーに立ち、海からの風に目を細めた。腹に空いた穴も多少は落ち着き、骨にヒビの入った太腿の傷の所為で安静にとは言われているが、普段通りの生活ならば問題無く出来る様になっていた。
 やっとイタリアに来た。新堂は片付けるべき事が多過ぎた事に、うんざりした気持ちで目蓋を閉じる。

「はぁ…」
「大っきい溜め息」

 不意に背後からかけられた声に新堂はゆっくりと振り返った。若者向けのイタリアスーツをピシッと着こなした想と島津がバルコニーの出入り口に立っていた。

「有沢、俺は中にいるから」
「ありがと」

 新堂に頭を下げて部屋へと戻った島津に礼をした想が満面の笑みで新堂へ飛び付いた。控え目に。

「漣!!」

 想が抱き着けば、新堂は多少の腹の痛みなど気にならない様子で愛しい存在を抱き締めた。

「想…」
「漣、会いたかったです。会いたかった…心配で、怖かった」

 ぎゅっと新堂の身体を抱いたまま、彼の肩に顔を埋めて想は心の内を吐き出した。今までの不安や寂しさが嘘のように消えて行く。唯一の存在。想は顔を肩に擦り付け、離れまいと名前を呼んだ。
 けれど、想の身体を強く抱き締めている新堂は何も言わない。きつい、と思う程の強さで抱かれているのに、想は不安になり顔を上げた。

「漣…?」
「………」

 ゆっくりと身体が離れ、お互いの視線が絡み合う。想の大きな黒い瞳が揺れ、不安そうに新堂を見つめた。新堂はその瞳を見つめている様に見えるが、心ここに在らずと言う風に表情が無い。

「…漣?」
「想は早く日本に帰りたいか?」
「え…?…みんな心配してくれてるみたいだから、出来れば帰りたいかな?…どうしたの?」
「そうだな。周りの連中の顔が思い浮かぶよ」

 先ほどの冷たい表情が嘘の様に柔らかくなり、微かな笑みがふわりと想に触れた。身体を離した新堂が想の頬を撫でる。ずっと変わらず、冷たい指先に想はそっと目を閉じた。

「このままふたりで消えるのはどうだ?」

 閉じた目蓋が驚きで開き、見開かれた大きな瞳が新堂を見つめる。整った、少し冷たそうな顔の目元が優しく想を見つめていた。

「消える…?」
「文字通り。名前も国も捨てて好きな場所を転々とする。家も職も無し。金は腐るほどある」
「……」

 新堂の瞳が想を捉えて離さず、固まった様に想は瞬きさえ忘れて見つめた。爽やかな朝の海風が二人の髪を揺らす。

「冗談だ。早く帰ろう」

 ふと視線を外し、頬に触れていた新堂の手が想の顎へ滑りそっと角度を変える。触れる唇は少し冷たく、瞬きも忘れていた想はその時やっと目蓋を閉じた。

「どこかで朝食を済ませるか。島津も」

 想から離れて室内に戻る新堂が島津に声をかけている。バルコニーに取り残された想はその声が遠く聞こえた。





「有沢、そろそろ行くってよ」
「うん、分かった」

 新堂のプライベートジェットが待機する滑走路で島津は想に声をかけ、わざわざ見送りに来てくれたエドアルドに頭を下げて機内へ乗り込んで行く。想がエドアルドに感謝の握手をすると、彼は離れる想の身体を引き留めた。突然の抱擁に驚いて固まる想の耳元に優しい声がふわりと届いた。

『ソウ、キミは良い子だ。気難しいローアとも打ち解けたし、トニーがあんな風に笑うのを見た事なかったよ。でも、ひとつ言わせて』
「……?」
『彼がソウを大事に、大事にしているのはよく分かるよ。でもね、どんな仕事をしているか知らない事も多いだろう?ただのフィクサーじゃない。キミは枷だよ。弱味だ』

 優しく、ゆっくりとしたイタリア語が脳内へ流れる。想はエドアルドに抱かれたまま立ち尽くしてその声を聞いた。

『ここ最近はずっと悪い仕事も良い仕事も受けようとしない。ルールを破れば容赦の無い彼だが、ツテの多さ、約束を守るスタンスと確実性の高さで敵は少ない。そのお陰で表面上は平穏だろう。だが、彼に助けられてきた悪人や犯罪者、偽善者、政治家、まだまだ彼の手を離したくない人間は多いよ。仕事内容の線引きも依頼者側は新堂のラインを優先するくらいだ。引退するには彼は若過ぎる』

 エドアルドがゆっくりと想の身体を解放し、肩に手を添えた。微笑む顔も声も優しく、穏やかだが、想は指先が冷えるのを感じずには居られない。

『ソウ、部下じゃない事は君の店に行った時に分かったよ。きっと凄く深い仲だろう。大きな手の傷や暗い瞳もミステリアスで魅力的だ。まさか『カラン』を調べて、ヤクザと揉めて、血みどろになる様な子だとは思わなかったけれど。だから分かった。君は強いし、ただの馬鹿じゃない。彼を手放してくれないか?』
『イヤです。それは…絶対に』

 エドアルドの話を聞いていた想だったが、最後の言葉には食い気味に拒否を示した。怒りではない、真剣な眼差しをエドアルドに向けて、想は拳を握り締めた。

『きっとしたくない仕事もたくさんして来たと思います。社会の影で色々してるのは分かります。漣、最初はお金の為に悪い事をしてたって話してくれました。お金がいらなくなっても仕事を続けていたのは彼が出来てしまう男だから。敵が少ないのは私利私欲がないから。でも、彼は…悪い事を円滑に回す為の道具じゃない』

 想の大きな黒い瞳が仄暗い光を持ってエドアルドを離さない。

『そっとして下さい。他の誰とか言いません。エドアルド、貴方は…貴方の組織は彼をはなして』

 ふたりは数秒間見つめ合ったまま動かなかった。想は息が出来ないくらい緊張している事も忘れてエドアルドの深く底無しの緑の双眸を離さず、譲れない思いを口にした。







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