スマートフォンのカバーには『☆ぱぱ☆』の文字が刻まれた色とりどりのビーズ で作られたストラップが付いている。
 傷ついているそれは、そのストラップがいかに長い間そこに付いているか物語っていた。
 高島泰助(たかしまたいすけ)は目を細めて、そのストラップを指先で大切そうに撫でた。それから視線だけをワイシャツに袖を通す大人の男性へ向けた。
 泰助の視線に気づいた男性は、頬に触れ、優しく唇を重ねた。
 彼は奥村慶吾(おくむらけいご)。優しそうな雰囲気の滲む少し垂れ目が、困ったように細められた。

「そんな寂しそうな顔させてごめんな。週末は二人で食事しよう。会社の付き合いで美味しいフランス料理の店を紹介してもらったから。スーツ持ってる?」

 泰助が首を横に振ると、頬にあった手が頭を撫でる。

「じゃあ昼間にスーツを見に行こうか。俺も何枚かワイシャツ見たいんだ。付き合ってくれない?」

 泰助は大きく頷いて慶吾に抱きつく。
 くるまっていたシーツが落ちて泰助の健康的な色の肌が露わになった。
 途端に、先ほどまで感じ合っていた体温を失った気がして、泰助は小さく囁くように声を絞り出した。

「慶吾、大好き。……家のこと、大丈夫?」

 身体を離して、不安そうに眉根を寄せる泰助の眼差しに見つめられた慶吾は笑った。

「そんな高いスーツは無理だけど、遠慮しないで。よかったら卒業式に着てよ」

 そういう意味で『大丈夫』か聞いたわけではなかったが、泰助は何度も頷いて慶吾に抱き締められる感覚を忘れまいと、きつく目を閉じる。
 今年、高校を卒業予定の泰助は、就職活動の為に染めた黒髪を何度も撫でてくれる慶吾を抱きしめ返す。

「明日またラインするよ。今日は帰らないといけなくて……」
「愛美ちゃん、六歳だね。おめでとう」
「泰助、覚えてたのか?……ありがとう。愛美が泰助に会いたがってた」

 切なく笑う慶吾に胸が痛んで泰助は携帯電話を渡した。
 下着を身につけてパーカーを羽織り玄関まで慶吾を見送って、『またね』とキスをする。
 『またね』と返されるだけで、泰助は微かに胸がふわりとした。
 だが、すぐにガチャンと閉まった古びたアパートの扉を見つめ、泰助は小さなため息をこぼした。
 娘と自分、天秤にはかけられないほど差のある存在だろうと泰助は思う。
 自分は大切にされて、愛されているとは思うが、娘思いの彼が、離婚して自分を取るとは考えにくかった。
 家庭も築けない、まだ子どもの自分では慶吾の隣りすら似合わないと思う。
 慶吾はエリートサラリーマンで、今年36歳なるいいパパ、亭主、部長だ。
 泰助にあるものは若さくらいだろうか。
 母子家庭の泰助は、母と、高校を出たら働くという約束をしていた。今も母親は家には帰らず、もう数ヶ月会っていない。
 バイト代と慶吾の援助でなんとか生活していた。
 そんなアパートでの慶吾との逢瀬はすでに二年になっていて、学校での『好きな子と番号交換した』だの『彼女はすぐにライン返さないと怒る』などの青春じみた会話に劣等感しか感じなくなっていた。
 まるで、奥様が見ている昼ドラのような、所謂不倫を好きな人にさせていると言う罪悪感もあって、恋愛の話は泰助を憂鬱にさせた。
 会えても週に一度、少ないときは月に二回程しか会えない時もあった。
 しかし、彼には優先すべきものがあることも分かっている泰助は、この関係を維持するには我慢が大切だと言うことも深く自覚していた。

「腹減った……」

 『お母さん、ご飯なに?』などと尋ねたのはいつが最後だっただろうか。
 泰助は脱ぎ散らかしてあったジャージのズボンを履いて冷蔵庫から食材を取り出し、器用に野菜だけの炒めものと味噌汁を作った。
 よそった皿をお盆に乗せ、テレビを眺めながら腹に収めていく。

「ご飯、炊けばよかった」

 案外美味しくできた質素な夕飯は、白米も食べたくなる味だった。









 受験シーズン。
 週に二回になった、退屈な登校日のホームルームが終わり、ほとんどの生徒が受験に向けてラストスパートしている。
 あまり偏差値も高くないこの高校では就職と進学は半々、特に何もなく卒業する者も少なくない。その中で泰助は就職に必死な一人だった。

「高島、この間の物理のテキストありがとなー!もらっていいの?」
「俺、就職希望だから使わないしいいよ。智也はいきなり勉強に目覚めてどうしたの?テキストなくしちゃうようなテキトーな奴だったのに」

 からかうように言った泰助に、仲のいいクラスメイトの少年は照れたように笑う。
 少し前までの近寄りがたいマイナスオーラは霧散して、いつもの明るく、おおらかな親しみやすさが彼に戻っていた。
 つい先日、たまたま街中でお互いを見つけた。
 泰助が慶吾とデートして別れた時だ。
 繋いでいた手を離すのを惜しんでいた泰助と、智也は目が合った。
 気まずい様子の智也に泰助は声をかけた。
 『秘密にしてね』と。
 すると、智也はぽつぽつと泰助に気持ちを吐き出した。
 実は自分はゲイであり、恋愛について悩んでいると。
 恋人に長い間、浮気されていた事。
 バイトの後輩にアプローチされて、扱いに困っていた事。
 相談とは言っても泰助は隣で聞いていただけだが、それでも智也には効果があったようだ。
 抱えた悩みを、同じような秘密を持つ相手に話せたことで気持ちが軽くなったのだろう。
 加えて、この高校では数少ない、それなりにハードルの高い大学を受験する生徒の一人である智也は沢山悩んでいたかもしれない。
 吹っ切れた様子に泰助は安心して微笑んだ。

「意外かもしんないけど、やりだしたら勉強って楽しいよ。志望校もA判、すごいっしょ!」
「すごいな。そんなに頑張って、どうした?」
「受験が終わったら、スタバ奢る!そしたら高島に聞いてほしい話、めちゃあるんだ!」
「例の後輩くんと上手くいってるんだ?」

 泰助が含んだ言い方をして口端を上げると、智也はほんのりと頬を染めて、少し曖昧だが頷いた。

「それも、受験が終わるまでは保留中。……でも、前よりずっと嬉しい事ばっかだよ!」

 泰助は、智也のいきいきとした笑顔につられて微笑んだ。
 羨ましい。
 恋にも将来にも希望がたくさん。そんな様子のクラスメイトの姿に、泰助は何も上手くいかない自分の現実に、笑顔の裏で大きなため息を吐き出した。









 学校を出た泰助は、求人情報を見るために学校の最寄り駅の職安へ足を運んだ。
 なかなか高卒での社員採用は見当たらない。いまのバイト先は社員採用はないという話で、途方に暮れる。
 最悪掛け持ちか……と諦めて職安を出ると、向かいの公園に可愛らしい姿を見つけた。

「え、……愛美ちゃんだ……」

 意識するより早く、泰助の足は公園に向かっていた。
 遊具の滑り台に座って絵本を読んでいた愛美を呼ぶと、驚いたように辺りを見回して愛美は立ち上がった。
 幼稚園のカバンと、上着が目立つ。
 泰助が恐る恐る手を振ると、愛美は飛び上がるほどの笑顔で手を振り返した。
 愛美は、泰助が慶吾の友達だと認識している。
 慶吾の職場近くの居酒屋で働いていたのが出会いのきっかけで、よく飲みに来ていた。愛美も何度も早い時間に食事をしに来ているほどだ。

「愛美ちゃん、ひとりなの?ママは?もうじき暗くなるよ」

 『寒くない?』としゃがんで視線を合わせ、マフラーをかけてやれば、愛美の笑顔がたちまち歪んだ。泣きそうな顔でマフラーを握りしめる。
 泰助は優しく微笑んで、小さな身体をマフラーで包んだ。
 愛美は迷わず、泰助に抱きついた。

「たいちゃん!ママと保育園の帰りに公園きたの。ママ……電話がきて愛美を置いて行っちゃった……パパが来るから此処に居なさいって……」 

 涙を溜める愛美に、泰助は怒りが込み上げる。
 自分の母親同様、子どもを悲しませるなんて許せなかった。しかも愛美は女の子であり、まだ母親が大好きなのだ。
 辛いだろうと、泰助は優しく頭を撫でて、愛美を抱き上げた。

「そうだ!パパが来るまで俺が一緒に居てあげるよ。温かい飲み物買いに行こう。パパ、何時にくるの?」
「わかんない……たいちゃん、パパと仲良しでしょ?パパ、呼んだら来てくれる?」

 聞かれて泰助は固まった。
 もし、愛美が呼んだら仕事を切り上げて飛んでくるに違いない。
 自分だったら優しく『後でね』と言われそうだ。
 しかし、愛美がこんな時間までひとりで居ると言うことは、慶吾は愛美がひとりで待っているとは知らないかもしれない。
 泰助は妙な嫉妬は踏み潰して、慶吾の携帯電話に連絡を入れた。










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