最期の意思表示










あれから約1年半がたった。名前は意識をなくし、植物状態で毎日を送っている。原因は脳の萎縮。急速に進んだ原因不明の病は、記憶の消滅というあまりにも惨いかたちで名前を苦しめていた。名前が意識を失ったのは、入院してからわずか1週間がたった頃。あの時の衝撃は忘れられない。言い残したこともやり残したこともたくさんあるのに。それは二人でしか出来ないことなのに。
家に帰ると、ドアには鍵が掛かったまま。玄関に無造作に脱ぎ散らかされたスニーカーもそのままにしてある。勝手に仕舞ってしまうと、名前が帰ってきたときにきっと、どこにあるか分からなくて困るだろうから。俺は名前の回復を信じていた。脳死の判定はもうとっくにされてある。今、名前の命を繋いでいるのは延命治療とその器具だ。分かりたくもない現実とその重みに、俺は耐えかねていた。こんな苦しみは体験したことがなかった。



通い慣れた道を引き返し、自宅へと帰る。今までもこの道を一人で帰ることなんか何回もあったし、寂しいと思ったことなんかなかったのに、名前を少し遠くに感じたとたんにこれだから、自分が情けなく思える。こんなんじゃ名前に馬鹿にされてしまうな、そんな風に自嘲してみても、残るのは俺を苦しめ続ける悲しみだけ。それでもいつか、いつものように玄関が開いて、いつものように気だるそうな声が聞こえてくるんじゃないかと期待してしまうのは、信頼とかそういう立派なものではなく、そうあってほしいと願うただの俺のわがままだ。



「・・・ただいま」



真っ暗な廊下の先に声を投げてみても、帰ってくるのは俺に現実をつきつける静寂だけ。部屋に上がると、まっさきに寝室に足を運んだ。いろいろなことを考えながら帰った日は、家に着く頃には精神的にくたくたになっている。俺は荷物を部屋の隅に置いて、ベッドに身を投げた。そう言えば名前の枕カバーを洗ってやると言ったまま、まだ洗濯してやっていなかった。俺は名前の枕を取ると、枕カバーのファスナーを開けた。微かに残る名前の香りが懐かしい。まだ死んだわけでもないのにな、と感傷に浸りながら枕カバーを取り去った時、何かがカバーの中からひらりと床に落ちた。見るとそれはノートの1ページを乱暴に破ったもので、何か文字が書いてあるようだった。名前のいたずらか何かかもしれないと思いながらも折り畳まれたそれを開くと、そこに刻まれていたのは見覚えのある名前の筆跡。“マルコへ”で書き出された手紙のつたない字を、俺はゆっくりと目で追った。






マルコへ
何かよく分からないけど、そんな気がしたからここに書いておきます。
おれの頭じゃちゃんと理解できないけど、脳死っていうのがあるらしい。意識がなくなって、ただ息をしてるだけの状態。もしおれがそんなふうになってしまった時は、えん命治りょうとかはしないで、そのまま死なせてほしい。マルコと話せないままで、見れないままで生きてるのはいやだから。
あと、もしこれがドラマとか映画だったら“私のことはわすれて新しい女の人と幸せになってね!”とか言うのかもしれないけど、おれにはそんなこと言えません。おれはわがままだし、ずっとマルコのことが大好きだから。でもマルコには幸せになってほしい。だから、これだけは約束してほしいってことがある。



これから先どんな人といっしょになっても、おれのことは忘れないでいてください。






「馬鹿のくせに・・・」



余計なこと考えてんじゃねェよい。言葉の後半は噛み締めた奥歯に遮られ、音になることはなかった。
文面の下には、セロハンテープで雑にくっつけられたドナー登録の意思表示カードがあり、丁寧に剥がして裏を見ると、提供する臓器選択の欄の全てにチェックがされてあった。あの頭が悪い名前がどうやってこんなことを思い付いたのか知らないが、なんとも名前らしくない最期の思いやりに、目頭が熱くなった。
このカードを病院側に渡した時点で名前の意志が尊重され、延命治療が止められる。それは名前が望んだことなのに、俺が決められることでもないのに、名前と離れることが嫌だとダダをこねるようにそのカードを提示することを明らかに渋る自分がいた。











最期の意思表示



(心は近くにいるよ、だなんて)









continue...





20120109


十五話!
マルコの葛藤




[ 15/15 ]
[] [→]
[list][bkm]





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -