直接的な接近
名前はあれから約1週間で退院したが、結局バイト先の喫茶店でもう一度働くことはなかった。入院した名前の元に駆けつけた日、無断でバイトを休んでしまった俺は案の定マスターのお叱りを受けたが、名前が元気そうだったから別に気にならなかった。
今日は名前と俺が同棲を始める日。家具や日用品はもう搬入し終えてあるから、名前の居場所は出来ている。そして今、俺は部屋の鍵穴に差し込んだ鍵をカチャリ、と回した。
『むっちゃ綺麗だ!』
部屋に飛び込むなりそう言った名前は、玄関先に用意してあったスリッパも無視し、裸足でペタペタと部屋中走り回った。リビングに入るなり新型のテレビに興奮して勝手に電源をつけたり、パソコンの前に座って真っ暗な画面に向かってマウスをすいすい動かしたり、ソファーに何度も何度も勢いをつけて座ったり。まるで子どものように世話しなく動き回っている。あんまりはしゃぐとまたしんどくなるぞ、と注意をしても、名前にとってはどこ吹く風。こりる様子もなく走り回る。
名前の家から取ってきた最後の荷物、衣服が入った鞄をリビングの隅に下ろすと、俺はキッチンに向かった。
『なにすんの?』
「もう時間が時間だから夕飯の支度だよい」
時計を見るともう5時だ。しっぽを振って寄ってきた名前に、今晩はカレーでもかまわないか、と尋ねると、キラキラした目でじっと俺を見て大きく頷く。お前がいるとなんか危ないからあっちで待ってろ。そう言って不意に額にキスをしてやると、とたんに顔を赤くした名前は、急に大人しくなってソファーに戻っていった。トントンと野菜を切りながら名前をチラッと見やると、楽しそうにドラマの再放送を観る彼は、上機嫌に鼻唄を歌っていた。
しばらくして野菜を煮込み終え、固形のルーを鍋に放り込んだ俺は、鍋をぐるぐるとかき混ぜながら再び名前の様子をうかがった。さっきまで聴こえていた鼻唄が聴こえないと思えば、ソファーに体を沈めていたはずのその姿もない。勝手に寝室にでも行ったのか、そう思いながらもコンロの火を止め、リビングを覗く。すると、名前はやっぱりソファーにいて、リモコンを握りしめたまま眠ってしまっていた。穏やかな表情に、俺の顔もほころぶ。ソファーの前にしゃがみこむと、俺は名前の白い頬を撫で、耳元に唇を寄せた。
「名前、起きねぇと食っちまうよい」
『!?』
カレーの匂いという相乗効果も手伝ってか、俺の軽い脅しに名前は瞬時に飛び起きた。しかし様子がおかしいように感じる。いつもの名前なら、まだ自分の分のカレーがあるか慌てて鍋の方を確認しに行きそうなもんだが、どういうわけか、体を起こすとソファーの背もたれに体を埋め、羽織っているパーカーのファスナーを一番上まで閉めた。理解できない奇行に俺が、どうしたんだ、と尋ねると、名前は恥ずかしそうに顔を反らした。
『だってマルコが・・・お、おれを食べるって』
そういうのはまだ早いと思うな、と不自然な動きをしながら呟いた名前。どうやら名前は勘違いをしていたらしい。俺の“食べる”は“カレーを先に食べてしまう”という意味だが、名前の“食べる”は“俺が名前を食べる”、つまりはセックスを迫っているという意味だったのだ。思春期の男子は考えることが違うねい、と笑いながらからかってやると、名前はますます顔を赤くして、違う違う、と両手を顔の前でぶんぶんと振った。
実際そういうこともするときがいつか来るのかもしれないな、と少し考えていたりはするのだが、名前の体をいたわりつつシてやれるかと問われれば、あんまり自信はない。名前のことは大好きだし大切だが、男というのは快感に従順な生き物。名前の中に入ったりなんかしたら―――。
変な想像はここで終わりにしよう。
「さて、飯でも食うか」
俺は立ち上がると、名前の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。それから、それじゃあダサい、と顎まで引き上げられたファスナーを胸元まで下ろしてやる。緊張した様子の名前は黙って俺の手元を見つめ、ありがとう、と小さく呟いた。
キッチンに名前を呼ぶと、食器をとってカレーを盛り付け、二人でテーブルに運ぶ。まだお揃いじゃない食器を見て、今度一緒に買いに行こう、と計画をたてたりして。
そういえば、名前の住所が変わったから、今月から仕送りが届かなくなるようだ。俺もまだ学生の身分だし、二人で暮らしていくには辛いかもしれないなあ、と少し悩んでいた。すると、名前が一言、おれは貯金があるから。どうやらこれまでの父親からの仕送りの大半を貯金していたらしい。いつドナーが見つかるか分からないから、その時のために貯めてあるのだそうで、通帳に記されている額は恐ろしい金額だった。
『言ったじゃん。おれ、誰にも迷惑かけたくないって』
ずっとひとりで生きてきた名前は、俺なんかよりもうんとたくましく見えた。こんな俺じゃあ頼りないかもしれないというマイナス思考が一瞬頭を過ったが、そんな考えはすぐに取り払われた。
俺にしか出来ないことがある。いつも隣にいる、恋人の俺にしか出来ないことが。今まで出来なかったぶん甘えさせてやること。それから、思いっきり甘やかしてやること。俺は、名前の心の拠り所になれる。
始まったばかりの名前との生活に、俺は確かな満足感を得ていた。
直接的な接近(どんな痛みや不安からも守ってあげるから)
continue...
20111122
七話!
いよいよ二人だけの暮らしが始まりました!
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