梅雨明け間近の放課後、下校時刻までにはまだ余裕はあったけれど、僕は応接室を離れた。なんとなく、足は図書室へ向かっていて、久しぶりに何か借りていこうかとも思った。


僕が図書室へ入ると、そこにいた何人かの生徒は直ぐに席を立っていなくなった。それもいつもの事だから、特に何を思うでもなく、僕は奥へと進む。そこで見慣れた真新しい制服を見付けた。




「やあ、苗字名前」


「…雲雀さん」


声に顔を上げた苗字は、僕を見遣って、それから時計のある壁へと首を廻した。



「あれ?まだ、」


不思議そうに僕を見返した苗字は、転校して二ヶ月と半分が過ぎたというのに相変わらずひとりでいる事が多かった。けどまるっきりひとりという訳でもなくて、時々移動教室や昼休みには女子の輪に入って笑ったりしているのを見た事がある。そして僕とも顔を合わせれば話をする。何度か話をしてみて解ったのだけど、苗字は人見知りをする方でもないし、女子でも男子でも話掛けられれば誰にでも丁寧にそつなく応じていた。ただ、そこにはひとつの境界線があって、だから未だに苗字はひとりでいる事が多いのだと、僕は思った。一歩近づこうとすると、苗字は一歩退く。踏み込もうとすれば柔らかに弾かれる、そう例えば、あの貼付けた様な笑みで。

そうやって絶対に縮まらない距離を苗字は常に、誰に対しても敷いている。


それは苗字の処世術なのかもしれない。いや、そうなんだろう。転校の回数は両手では足りない程だと聞いたし、それは日本だけの話でもなかった。それがどんな事なのか、並盛を離れた事がない僕には解らないけれど、苗字が今まで生きていくまでに身につけた知恵みたいな癖みたいなものを、僕は否定しようとも肯定しようとも思わなかった。寧ろ、不必要に群れる奴らよりは良く思えた。




「雲雀さんも本を借りに来たんですか?」
「うん、楠は何してたんだい?」


見れば苗字のいる一人用に区切られた席には本はなかった。代わりに、辞書とレポート用紙、それに便箋らしきものがある。僕の視線に気付いたらしい楠は、それを不自然ではない早さで、けれど隠す様に重ねた。そして僕に向き直り、口を開いた。





「雲雀さん、ここの学校の屋上は立入禁止なんですか?」


「どうしてだい?」


「クラスの子がそう言ってたので」


並中の屋上は立入禁止ではないけれど、一概に苗字のクラスメイトの言葉も嘘じゃない。あそこは僕の昼寝場所だからだ。僕の眠りを妨げればどうなるかくらい、三年生ともなれば知っている。




「行くよ」


「え?」

何処に、と続いた苗字の言葉に行きたいんでしょ、と応えて踵を返す。廊下を少し行った処で鞄を下げた苗字が後ろから駆けてきた。



「良いんですか?立入禁止なのに」


「良いんだよ、ここは僕の学校だからね」

そんな言葉を交わしながら僕達は屋上へ向かった。重い鉄のドアを開けると、夏の匂いを纏った風が身体を吹き抜けていく。空は梅雨時期の灰色の雲が所々ちぎられた様に白く穴を開けていた。その雲の合間から幾筋もの光の束が並盛の街をさしている。僕の後にドアをくぐった苗字は、眼下に広がる並盛の街に足を止めた。声をなくした様に街を見入る苗字は、暫くそのままで、それから小さく微笑んだ。何かを思い出したように、小さく、そして柔らかに。





「あそこが並盛山?」

「そうだよ、」

「神社はどの辺りなんですか?」

「並盛神社の事かい?」


頷く苗字に僕はあの辺りだよ、と教えた。調度目印の様に太い光の筋が一本並盛神社の辺りにさしていた。




「父と母の初デート場所なんです。夏祭りに行ったそうで」


可笑しそうに話す苗字に、僕は変な感覚を覚えた。常に距離を置いて自分の事を殆ど話さない苗字が、こんな風に自分の事を話すのを聴くのは初めてだったからだ。




「君の両親は並盛出身なの?」


「父はそうなんです。母は中学の間しかいなかったらしいですけど」


並盛の街を見ながら、苗字が吹く風と同じくらい穏やかに話す。




「並盛は、二人の話によく出てきてたから、私も来てみたくて」


「小さい頃何度か連れて来られたらしいんですけど、」


あんまり覚えてなくて
そう言って、苗字はまた微笑った。それは何処か泣きそうにも見えて、けれど苗字がまた街を見渡す様に僕から視線を逸らしたから、僕はどうしてかなんて解らなかった。





「雲雀さん、」


「なんだい?」


また、連れて来て貰って良いですか?
そう僕に訊く苗字に僕はイヤだとは言えなかった。そう言えば、今日の苗字が、また今までの境界線の中にいる苗字に戻ってしまう気がして、



「構わないよ、その時は僕の処にくればいい」


「ありがとうございます」


言って苗字は光の束が降りる並盛の街を見渡した。眩しいのか目を細めたその横顔に、苗字の長くはない髪が舞う。その髪に、頬に、手を伸ばしかけた時、苗字の唇が緩く動いた。




「私、この街が好きです」


「そう」


「並盛に来て良かった」


苗字の声に左の胸が熱くなる。初めての感覚に、それが僕の並盛に苗字がそう言ってくれたからなのか、苗字が僕にそんな事を教えてくれたからなのかは、解らなかった。







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101209





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