名前は休んだ次の日からちゃんと登校して講習を受けていた。その日の弁当は僕が言った通りハンバーグで、その次の日は生姜焼きだった。今まで通りの日々、だけど名前は僕との距離をほんの少し取る様になった。口数は元々少ない方だけど、益々喋らなくなったし、応接室のソファーに並んで座る時も、前と比べて離れて座る様になった。まるで警戒心の強い野生動物みたいに。
名前がまだ何かに悩んでいるのは明白で、そして時々何か言いた気に僕を見ている事があって、でも名前の口からそれが音になって僕の耳に届く事はなかった。僕はそれを待っていた、名前が自分から話すのを。けれど一向に名前から何か話される事はなくて、代わりにその黒い瞳だけが日増しにお喋りになっていくみたいだった。さっきも食べ終わった弁当に、ごちそうさま、と、卵焼きもまあまあ食べれる様になったね、と言っただけだったのに、名前は僕に泣きそうな微笑みだけを残して給湯室へ行ってしまった。



何を考えてるの
閉じたドアの先を見遣っても応えは返ってこない。名前の事だから、面と向かって訊いたって、応えてはくれないんだろうけど。他人の事をこんなに想ったのは初めてで、でも名前が何を考えているのかはやっぱり解らない。解らないけど、何かしてやりたいと思ったり、なんで僕がそう思うんだろうって考えたり、自分で自分の事をこんなに考えたのも初めてで、どうしたらいいのか、解らない。
考えても考えてもくるくる同じ事ばかり巡って、凄く焦れったい。僕はただ、名前が、少しでもちゃんと笑ってくれさえすればいいのに。

簡単そうで、でもそうじゃない。結局名前を待つと決めた僕のそれが正しいのかも解らない。でも僕が出来るのは名前が自分で答えを出す事のを待つ事だと思った。僕はそんなに気が長い方じゃないのにね。
僕はそんな事を思いながら、食べ終わった弁当箱を片付け一人息を吐いた。






「何コレ」


食後に名前が運んできたのは、いつものコーヒーじゃなくて今日は紅茶だった。独特の香りがふわりと応接室に漂う。





「ジンジャーティーです。雲雀さん昨日咳をしてたので」
喉に良いかなって


加えられた言葉に、僕は名前を見遣った。あの日、名前の家に行った日、雨に濡れてそのままにしていた所為か僕は風邪をひいたみたいだった。確かに時々咳が出て喉が変だったけど、たいしたことはないからそのままにしていた。そしてそれを名前に話したりはしなかったんだけど。―やっぱり、名前は僕の事をよく見てる。なんだかそれが嬉しくて、コーヒーが飲みたかったけど、僕はカップを手に取った。立ったままの名前に、座りなよ、と隣に促す。けれど名前は首を振って鞄を手にした。





「すみません、今日は用事があるので帰ります」


「なんの?」


「時計の修理が終わったので、早く取りに行きたいんです」


「…そう」


薄いピンクの文字盤のあの時計だ。母親の形見、と言っていいんだろうあの時計を名前は大事にしているみたいだった。名前の話では、あの時計は留金が緩くなっていて、だから名前はポケットに入れて持ち歩いていて、それをこの前此処に落としてしまったらしい。





「じゃあ気をつけて帰りなよ」


「はい、…、」


僕の声に素直に応じた名前はだけど、ドアの前から動かない。不思議に思って「何?」と声を掛ける。




「いえ。…雲雀さんも、余り無理しないで下さいね」



それじゃあ失礼します、と帰って行った名前を視線だけで見送って、僕はカップに口を付けた。仄かな甘味と強過ぎないジンジャーの風味が調度良い。僕はそれをゆっくりと飲んでから、デスクチェアに移動した。









なんとなく顔を上げたその先の窓の外は紅く染まっていた。ずっと書類に向き合っていた所為か肩とか目の奥が重い。余り無理しないで下さいね、名前の言葉を思い出して、僕は鉛筆を置いた。まだ終わってはいないけれど、今日は早目に帰ろう、そう思って書類を片付けていた時だった。応接室のドアがノックされる。入れば、と声を掛けると、聞き慣れた「失礼します」と言う返事と共に、副委員長が中へ入って来た。





「お疲れ様です。委員長、町内の見回り問題無く終了しました。それと、こちらを教師から預かってきました」



草壁から渡された書類の束は、夏休み前に集められた進路調査表だった。3年生は来月には三者面談の予定もある。並中の風紀にも影響するから、毎年僕も目を通し、必要であれば指導もしてきた。





「うん、目を通しておくよ。今日はもう帰る」


「はい、お疲れ様でした!」



書類を手にして、僕は応接室を後にした。なんだか身体が怠い、デスクワークのし過ぎかな、なんて思いながら僕は誰も居ない紅い夕陽が射す廊下を歩いて行く。不意に名前の志望校は何処なんだろう、そう思って、僕は手に持ったままの書類をパラパラと捲った。夕陽の所為で紅く色付いた進路調査表は3-Aから順に並んでいて、僕の指は見覚えのある少しまるみを帯びた字を見付けて止まった。氏名の所には思った通り苗字名前。その下の志望校の欄、そこに書かれた文字に、ぐらりと身体が傾いた気がした。それでも僕の目は勝手に何度も何度も、たったの数文字を、理解出来ない様に追う。読み間違え様もない、それ。第一志望の欄には聞いた事もないカタカナの名前の校名、その後には『ニューヨーク(父の赴任先)』とだけ書いてあった。名前の字で。

教師の字で要相談と書き加えられていたそれを握り締め、気付けば僕は走り出していた。









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110310





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