わあわあと泣き出した木ノ下は、調度入って来た草壁に置いてきた。訳も解らなかっただろう草壁は、それでも僕に何かを訊くでもなく取り敢えず、と木ノ下にティッシュを差し出していた。ありがどうございますぅううとそれを受け取った木ノ下は、涙を拭うのか洟をかむのか、わしゃわしゃとティッシュを大量に引き上げていた。応接室から廊下に出ながら、中学生にもなってあの泣き方はないでしょ、思う。数ヶ月前まで小学生だったとしても、小学生だってあんな泣き方しないよ。ドアを閉める前に「僕が戻る前に消えててね」と一言言い捨てて、僕は三年生の教室へ向かった。
「君は、何処までプリント出しに行ったんだい?」
「雲雀さん…」
思った通り苗字は教室にいた。誰も居ない教室で、ひとりぼんやりと外を見ていた。苗字の事だから、邪魔をしたとでも思ったんだろう。全く余計な気遣いだ。お陰で無駄な時間を過ごしたし、僕のイライラは治まる処か加速している。
僕は今日一日、苗字と話をする時間がくるのを待っていたんだから当然だ。その怒りの対象が邪魔をした木ノ下と、勝手に出て行った苗字にまで飛び火している。なんだかこの子をめちゃくちゃにしてやりたい。手っ取り早く授業なんか無視して苗字を呼び出せば良かった。考えてみれば、今日まで放っておいたのが間違いだったんだ。テストが終わったあの日、どうして帰ったの、と次の日にでも直ぐ苗字を呼び出せば、こんな面倒な事にならなかったのに。けれどそれをしなかった僕はおかしい。大人しく待っているなんて、今まではそんな事しなかったのに。苗字の事になると調子が狂う。なんなんだろうね、君は。胸の内で自分に近付く僕を見ている苗字に問う。けれど苗字は、そんな僕に的外れな事を訊いてきた。
「いいんですか?」
「何がだい?」
菫ちゃん、と聞くのも不快になる名前を口にした苗字に僕は「知らない」とだけ答える。
「え?」
聞き返してきた苗字は、余程木ノ下を心配しているみたいで、不安げに僕を覗き込んできた。
「どうでもいいからね」
その瞳を見返しながら答えた僕に、苗字は僅かに眉を寄せた。傷でも付けられたかの様に、痛みを覚えた様に。その初めて見た表情は、なんだかもう二度と見たくないと思えるそれだった。さっきめちゃくちゃにしてやりたいと思ったのに、いざ傷付いた様な顔をした苗字を目の当たりにしてみると、胸の辺りが気持ち悪い。苦しいのか痛いのか、訳が解らないけれど、とにかく見ていたくない。けれど苗字は僕を見遣りながら益々眉を寄せて口を開いた。
「そんな、」
「僕が興味を持ってるのは苗字、君だよ」
そんな顔も、僕を責める様な声も聞きたくない。声を上げた苗字の声を遮って言い返す。苗字は開き掛けた口唇の動きを止めた。黒い瞳が驚いた様に見開かれる。
「木ノ下なんか知らない。あの子はあの子で君の事を知りたがってるみたいだけどね」
わあわあ煩く泣いていた木ノ下を思い出して溜息を吐けば、苗字が木ノ下の名前を呟いた。
「…菫ちゃんが?」
「検討違いも良いとこだよ、君の事で僕の処へ来るなんてね」
さっきより大分マシになった苗字の表情に、僕は胸の隅で息を吐いた。気持ち悪い感覚は薄れて、僕はその行方を辿る様に何気なく校庭に目を向けた。放課後の校庭には運動部の声が響いている。その中にいるだろう山本武の存在を思い出して、穏やかになりかけた僕の内側が波立った。
「どうして放課後、残らなくなったんだい?」
返答次第では咬み殺す、そんな僕を感じ取ったのか苗字は何かに遠慮する様に「…タケちゃんの、」と小さな声で答えた。
「タケちゃんのお父さんに、料理を教わってるんです」
「料理?」
こくりと頷いた苗字は、ぽつぽつと話始めた。
「私、料理の仕方きちんと知らなくて…今まで誰にも教わった事なかったから、」
「…、」
「出汁の取り方とか、難しいんですね。母にちゃんと教わってたら良かったんですけど」
苗字に母親は居ない。前に草壁に苗字の様子を調べさせた頃、苗字の転校時の書類に目を通した時に知った。両親の氏名を書く欄の母親の所は空白で、その理由は『死別』に丸がしてあった。それがいつだったのか、その書類には記載がなかったし、苗字も話さないから、僕は知らない。ただ初めて屋上に連れて行ってあげた時の苗字を思い出して、そんなのいつだって関係ないんだと思った。時間の流れが死んだ人間に対しての感情を薄れさせる事が出来ても、根底はそう変えられるものじゃない。不意に思い出せば、泣いたりもするんだろう。あの時の泣いている様に見えた苗字みたいに
「夏休みに父が来るので、それまでにちゃんとしたもの作れる様になりたいんです」
恥ずかしそうに微笑った苗字に、そう、と応じながらもう一度その内容を脳内で繰り返す。
「―来るって?君父親と暮らしてるんじゃないのかい?」
「今は仕事でアメリカなんです。だから和食が恋しいって」
ふぅん。だから寿司屋の山本武の父親に教わっているのか。苗字の父親と山本武の父親は幼なじみだったらしいし、事情を知ったあそこの親子が率先して苗字に協力してやってるんだろう。ひとり納得して、僕は不意に思い付く。ねぇ、と声を掛けると苗字が不思議そうな視線を僕に寄越した。
「僕も協力してあげる」
「はい?」
「毎日弁当作ってきなよ。僕が食べてあげるから」
「…、お弁当、ですか?」
戸惑いながら僕の言葉を繰り返した苗字に、僕は頷いた。
「うん。父親にちゃんとしたの食べさせたいんだろう?その評価をしてあげるよ、和食は僕も好きだしね」
「…え、でもまだ、誰かに食べて貰うようなの作れま「拒否は認めないよ」」
苗字の声を遮って言い切る。
苗字はそんな僕に何か言いかけて、困った様に眉を寄せた。それを一瞥して、僕は踵を返す。教室を出る前に振り返ると、苗字と目が合った。苗字はやっぱりまだ困ってるみたいだった。
「苗字、」
「…はい」
「僕は和食とハンバーグも好きだから」
僕の言葉に、苗字は黒い瞳をまるくした。呆けた様に僕を見詰めて、それから諦めた様にけれど柔らかに、笑った。
110113
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