天槍のユニカ



軋む梯の上で(12)

 “あのとき”の言葉だ、きっと。
 聞こえなかった、聴かないようにしたあの言葉。
 思わず振り返ると、当然目の前にはディルクの瞳がある。
「今度は君が忘れてしまう前に返事を聞かなくてはな」
「返、事……?」
「今からでも、私の宮へ戻ってこないか。手の届くところにいて欲しい。そうすれば、誰にも君を傷つけさせずに守ってあげられる。もちろん――」
 何か言いかけたまま、ディルクは痛いほどの強い視線で見つめてくる。ユニカは答えられなかった。彼の言葉を、遅れて順番に理解していくのがやっとだ。
 それほど長い沈黙ではなかったと思う。しかし堪えきれないとでも言うように、先に動いたのはディルクだった。
 唇が触れ合う寸前のところで、ユニカは大きく頭を振った。逃げだそうと思ったが、右手はぎゅっと握られたままで、フィドルを支えていたつもりの左手も、いつの間にかその上に彼の手が重なっている。
 動けない、と思った矢先、左耳の縁を柔らかい唇が食むようになぞった。
「……っ!」
 驚愕のあまり吸い込んだ息は悲鳴にもならない。唇は更に耳の下辺りにも優しく押し当てられた。ふっと、微かに吐息が肌を撫でていく。
 ユニカが首を竦めると、行き場をなくした唇は肌から離れたが、ディルクが顔を反らした気配はない。
 誰か彼を止めてくれる者はいないかとユニカは探した。ティアナは東屋のすぐ傍にいたが、茂みの影からドレスの裾がちらちら動いているのが見えるだけだ。軽食を皿に取り分けてでもいるのか、まったくこちらを見ていなかった。彼女のことだから、こういう状態を予測して視界の外にいるのかも知れない。
 そう思いついた途端、首から上が熱くなってくる。
「私のところに戻らないか? 王女の部屋など気負うだけだろう。私のところでなら、もっと気ままに暮らせるよう配慮するよ。図書室も作ってあげるし……」
 くす、と笑ったディルクの吐息が、やはり耳にかかる。何が可笑しいのかユニカにはちっとも分からなかった。
「はなして……」
「返事を先に」
 返事とは、いったい何の返事をすればいいのだったか。思考はすっかり正常な回転の仕方を見失っている。何と言えば、王太子は離れてくれるのか。
 混乱も極限に達しようとしたとき、りんっと鈴の音が聞こえた。ティアナが鳴らしたようだ。
 涼やかな音を合図に、ディルクはすっとユニカの背後を離れ、彼女がフィドルの弓を握りしめてしまっていた手を、優しく開放させた。
 どくどくと自分の心臓だけが走っている。今のは夢だったのではないかとユニカが思うほどディルクは淡々と弓をしまい、彼女からフィドルを受け取る。目が合うと彼は一瞬だけ妖しく微笑むので、夢ではなさそうだけど……。

- 463 -


[しおりをはさむ]