温かいお風呂
部屋に戻ってみると、サニャが嬉しそうに笑顔を浮かべて待っていた。「あ、レハト様。おかえりなさいませです!」「ただいまーサニャ―」ぺこんっと頭を下げる侍従に笑って告げれば、待ちかねたらしく部屋を掌で差してうながされる。「こちらですこちら!」「ん?んん? なになに?」嬉しそうなサニャの様子に私も嬉しくなりながら背中を押される。ローニカもそんな私たちのやりとりを微笑ましそうに見ている。なんだか幸せって感じだ。ぱたぱたと慌ただしく応接間を通ると、自室のドアを開けるサニャ。自室になにかあるのだろうか。部屋は、3室が地続きにあり、2室は私の部屋。入って直ぐが応接間。いわゆる客人を相手する用の部屋だ。その応接間の隣に、侍従室があり、サニャとローニカがそこで寝泊まりしている。応接間を通って奥に自室。ベッドと机があり、プライベートエリアとも言える場。応接間を通らなくては外に出られないし、外からの侵入も不可能。夜の侵入者等は、応接間隣のローニカに気付かれないように侵入しなくてはならない為、侵入しづらい作りになっていると思う。……まあ、逃げだせない作りとも言えるけど。バルコニーから湖は見えるものの、高さが高い。飛び下りれば死ぬかもしれないと分かっていて試す気は無い。そんなことを思いながら、部屋に入るも特に何も無いように見える。「サニャ? 何も無いように見えるんだけど……」「うふふっ。こっちです。レハト様」わあ。あったかい手。サニャが私の右手を取って、更に奥へ進む。一部屋が広い私の部屋は、真ん中に目隠し用のついたてがある。木で編み込まれたそれは、うっすらと奥のベッドを見せているが、これがあるのと無いのでは部屋の広さが違う。私は、ベッドの方へ進むのかとそちらを見ていたけど、サニャは真っ直ぐバルコニーの方へと向かう。そして私の手を離すと、両手を広げてバルコニーにあるものを見せた。「レハト様。これです!」「…………っ!お、おおおおっ?」そこにあったのは、一つの桶。円周60センチぐらいだろうか。高さにして、50p位。木枠で作られた桶は別に珍しくないが、問題はその桶に水が入っていることだ。そしてその水は、ふわふわと湯気を起ち上らせている。「……も、も、もしかして……!」サニャの顔を見ると、にっこりと嬉しそうに笑う。「はい。お風呂ですよ、レハト様!」「おおおおおっ!やっぱり!? お風呂ー!お風呂―!」サニャの手を取ってぴょんぴょん喜ぶ私。いや、お風呂にしては小さいし、肩まで浸かるなんて到底できない大きさだ。それでも、その心遣いが嬉しい。きっと大変な思いをしてお湯を運んでくれたのだろう。「は、入って良いのかな?入って良いのかな。これは入って良い?」「ふふふっ、良いですよ!」そわそわそわとサニャとお風呂というか、木桶を見比べているとしょうがないなぁと言わんばかりに笑われる。後ろでローニカも微笑ましそうに笑んでいるので、ちょっと恥ずかしい。喜びすぎたかもしれない。「じゃあ、お言葉に甘えて入るね!」「あ、レハト様。脱いだ服はこっちに入れて下さいね」「はーい」いそいそと脱ぎ始めるとサニャが竹で編んだような籠を出してきてくれる。その後、何か作業があるのか、サニャはローニカに一声掛けると部屋から出てってしまう。それにちょっと寂しいなぁと思いながらも、服をばっさばっさと豪快に脱ぐ。ローニカに見られるのも、今更だ。初日こそ二人の前で脱げないわ、いやんとか言ったものの、この広いだけの部屋に隠れる場所が少ないのだ。当然、朝着替えやら夜着替えやら、主日の神殿用に着替える際やらに二人には裸を見られている。もーいーやー。私、子どもだし。身長も140センチ位のままだし、どうみても情欲の対象ではない。そう割りきったら、自身の裸はどうでも良くなった。「おふろーおふるぅあぁ!」私は叫んで、裸のまま走り出す。部屋からバルコニーまでは数歩の距離だ。慌てた様子でローニカがついて来た。暗殺者対策だろうか。「レハト様。あんまり慌てると水で滑りやすくなっておりますから」「大丈夫だよローニ……ひゃぁああっ」ずるんっ。バルコニーに踏み出した一歩目は、見事に滑った。「……まったく、申し上げましたでしょう」「すいません。侮ってました。ありがとう、ローニカ」後ろで見張っててくれたローニカに脇の下を支えて貰って、お尻からこけることは無かった。そっとバルコニーに下ろして貰って、桶をしげしげと覗きこむ。湯気が立ち上るお湯。触ってみれば少し熱い位の温度だ。入れば丁度良いぐらいになるだろう。私は、座り込んで正座をし、真っ直ぐ背を正した。頭を、ペコリ、ペコリと下げる。パンッ。両手を合わせて、いただきますのようなポーズをして拝む。もう、なんていうか。神様ありがとう。パンッ。もう一度、頭を下げる。2礼2拍手1礼。アネキウスにすることじゃない。分かっていても思わず拝んじゃった私は、お風呂大好き国の日本人だ。「よっしゃ、入ろう」枠ふちに手を掛けて、そっと足を忍びいれる。熱い。一端足をひいて、もう一度入れる。やっぱりちょっと熱い。でも、我慢できない程じゃない。「うはあ……良い。すごい良い!」極楽じゃ〜と呟くと、右隣に陣取ったローニカがしわくちゃの顔をより皺一杯にして笑う。「左様ですか。よろしかったですね」「うん!」入れば、ちょこんっと体育座りする形になる。お湯はお尻と腰の中間ぐらいまでだけど、お湯であることと、バルコニーから見える湖の景色が最高だ。「最高〜!湖、綺麗〜!」キラキラと太陽の光を浴びて輝く湖。遠く先には、緑。そして門と橋。鉄柵の隙間から見える景色は、眩しくて遠い。「んっふふ〜ん♪ふふふ〜ん♪」気分が乗って鼻唄を歌い出してから、ローニカの存在を思い出す。背後を振りかえって、侍従頭が不快な思いをしていないか確認する。「あ、ごめん」見上げたローニカは、孫を見るおじいちゃんの笑顔に近かったから大丈夫だろうとは思いつつ、謝罪する。「いえ、レハト様がこんなに喜んで下さって嬉しいと思われますよ。サニャさんがここ2週間ほど頑張ってましたから」「そ、そうなの?私、全然気付かなかったよ。ごめんね」侍従の精いっぱいの努力を見ていないなんて、主としてどうなんだ。そう思って眉根を寄せて見上げれば、ローニカはいえいえと苦笑する。「レハト様に気付かれては意味がございませんから、私どもで秘密にしていたのですよ」しーっと人差し指を立てるローニカ。それにちょっとホッとして、首を傾げる。「でも、よく用意できたね」感心すれば、ローニカはコクリと頷いて答えてくれる。「それは、レハト様の仁徳の為せる業でしょうね」「……え。いやいやいやいや!サニャとローニカの努力の賜物でしょう?」どんな褒め方だ。そして、そんな褒め方でも、ちょっと嬉しかったのは内緒だ。嬉しさを隠すように言えば、拗ねたような変な顔になったと思う。それでも、ローニカにはバレバレなのか目じりを緩めたまま話される。「いえ、私どもは、この桶と場を整えたに過ぎないのですよ。サニャさんが、大量のお湯を使いたいと厨房に要請したのですが、却下されまして。ですが、クレイさんという御婦人が、頑張っている坊やにお湯の一つもやれないのかと一喝されたそうで」「……クレイさん……?」どなただろう。そんな知り合い居ただろうか。見上げる私の目を見ながら、ローニカは笑う。「恰幅の良い女性です。赤い髪と赤い目の。そうそう、厨房で長をされてると申されておりました」「……え。え、まさか、おばちゃん!?」大浴場で、しょっちゅう遭遇してた、あの。ぽよんっとしたお腹と胸。丸い顔が思いつく。「その御仁曰く、望まれるならば、毎週お風呂を作っても良いとのことです」「……え。ええええええ!?」驚く私に、ローニカは微笑む。「『そもそも、貴族連中は3日と開けずにお湯を沸かせという中で、継承者様ともあろう方が我儘も言わずに我慢なさるなんて、偉いじゃないか。そこを汲んで、毎週、部屋にお持ちする男衆もつけておくよ』とのことでした」ローニカが、伝言されたのであろう言葉をそのままに伝えると途中からおばちゃんの豪快な笑みと共に浮かぶから不思議だ。侍従が2人であり、男手に困っているのは噂されている。折角、お湯を貰っても運ぶのが老人のローニカでは、腰を痛めてしまうかもしれない。サニャでは、何度も運ばなくてはならず、これもまた大変だろう。だからだろうオマケは、凄く嬉しい。ローニカもサニャも困らせず、それでいて温かいお風呂に毎週入れるのだ。「え……ええっと。うわぁ、それは願ったりかなったりだけど……!ええええ。良いのかなこれ、良いのかな!?」凄いよ、おばちゃんっ。っていうか、そこまでしてもらっちゃって良いんだろうか。「あああ、後でお礼を……!っていうか、何かお返しをしたいんだけどっ。どうしよう、ローニカ」おろおろとローニカを見上げると、ニコニコと笑われる。「そうですね。先にお礼を申し上げてはおきましたが、お品の方はまだ。レハト様のお知り合いのご様子ですから、レハト様にお聞きしてからと思いまして」「そ、そうだね。その判断はとっても正しいと思う。でも、うわあ。こんなにしてもらっちゃって……!単にお風呂で知り合っただけなのに……」髪の毛洗って貰ったり、背中流し合いしたりしただけだ。継承様、寵愛者様と言われず、普通の子どもみたいに接してくれただけでもうずっと感謝してるのに。「何か……えっと金貨とかを送った方が良い、とかなの、かな……?」お金沢山なら、あっても困らないのではないか。そう思ってローニカに聞くと、少し驚いた顔の後、首を振られる。「レハト様、それはいかがなものかと。相手はご好意でされたことでしょう。ですが、お包みすれば、金の為だったのかと噂されます。ご気分を害されますし、後々、レハト様も相手の方と気まずくなられるかと」「……そ、そっか。そうだね、短絡的だった。教えてくれてありがとう、ローニカ」「お役に立てて何よりです」ふっと笑った後、ローニカは続ける。「私どもは幸せですね。レハト様のように、寛容で仁徳のある方が主で」「え。いやいやいや!?田舎者だし無知だし粗忽だし、粗野で、外聞も悪いというか。むしろ、もっと知識教養のある人についた方が、ローニカもサニャも馬鹿にされなかったと思うよ」急に褒め出した侍従頭に、手を振ると、いつも噂やら言葉の端から言われている悪口を並べる。事実なだけに、結構これがダメージだったりする言葉たちだ。「レハト様は、ご自分を分かってらっしゃらない。貴賎関係なく接し、悪意を持って接した者すら寛容されておられる。先ほどの者たちに、お声をかけておられたでしょう?」お酒を飲ませようとしていた貴族の男女。ちょっとしたからかいのつもりだったんだろう。それでも、広間で初めて声を掛けてくれたことは嬉しかった。悪意と言えるような悪意じゃない。別に私は気にして無いと言いたかっただけだ。それでも、貴族嫌いのローニカには嬉しくない態度だったのかもしれない。「あ、うん。……だめだった?」自信無く見上げると、眉をしかめたローニカは首を軽く降る。「いえ、良いか悪いかは分かりかねます。ただ、私が同じ年頃の頃よりも、レハト様はずっと大人でいらっしゃる。連れて来られた見知らぬ場所で、怒ることも泣くこともせずに黙々と勉学に励み、剣術に励まれ、我儘も無く……。とても、素晴らしい主かと思います」「……そ、そう……うん」なんだろう。その割に、妙にトゲがあるような。老侍従の顔を覗きこむように見れば、困ったように笑っている。「もっと、子どもらしく振舞われてもよろしいのですよ、レハト様。お辛い時は、辛いと仰って。嫌だと、あれをしたいと仰っても、大抵のことは何とか出来るのですから」「…………」我儘を言えというのだろうか。こんなによくしてもらっているのに、まだ?その言葉にぽかんと口を開けていると、ふふっとローニカは笑う。「と、申しましても急には無理でしょう。ですので、時折、申させて頂くことにしました。どうにも、レハト様は、甘えるのが下手でいらっしゃるご様子ですので」「……は? え。いやいやいやいや? え。大分、甘えてるっていうか、頼ってるっていうか……えっと。あれぇ?」ローニカには、そう見えていたんだろうか。結構、サニャに抱きつこうとしてたり、分からないことをローニカに聞いたりしてるのに。……いや、まあ、確かに誰それにこんなこと言われたよとか、気に入らないよとは言わないけど。それでも、十分、尽くして貰っていると思うのに。「いや、違う。甘えてるから」と言う私にローニカがニコニコと笑い流し、駄目だこりゃ……と私が諦めるまで、そのやり取りは続いた。「あー……良いお風呂だった」ほかほかだ。ローニカに手伝って貰って、背中と頭を流して貰った。流して欲しいと言うまで、流してくれない侍従には困ったけど。我儘を言えるように特訓ですと。なんだそれ。バスタオルのような大きな布でローニカが拭こうとしたので、良いからと断るとじっと見られた。「違う。これは甘えて無い訳じゃない。違う」「……左様ですか」なんでそんな寂しそうな顔をするの。ローニカ。ううう……おじいちゃんイジメしたみたいじゃないか。「じ、自分の体ぐらい自分で拭けるから」そう見上げて言っていると、パタンっとドアが閉まる音がした。見ればサニャが、衣装を持って来ている。「あ、レハト様。上がったんですね。これ、着替えです」「ありがとう、サニャ」衣装を受け取って、下着をつける。ノースリーブのシャツと、パンツ。その上から少し長めの上着に袖を通す。もぞもぞと顔を出した私に、サニャが問いかける。「レハト様。いかがだったでしょうですか?」「うん。良いお風呂だったよ〜。サニャも入る?」笑って問えば、サニャはびっくりした顔で目を瞬いている。びっくりしすぎて取れちゃいそうだ。「え。い、いえいえ!そ、そのようなのは駄目でござますですよ!」「えー。だって、まだあったかいし。あ、えっと……私の後だと嫌かな?」でも、もう一回入れて貰うのもなぁ。んー。厨房に行っておばちゃんに頼めば何とかなるだろうか。他の人に恨まれかねないけど、サニャのためならば。「いいいいえいえ!そんなことは……っ。……で、でも……その……」チラっと、バルコニーのお湯と私とローニカを交互に見るサニャ。ああ、入りたくない訳じゃないんだ。遠慮してるんだ。そう判断した私は、ニッコリと笑う。「一回で捨てるの勿体ないよ!気になるなら、ローニカと私は広間にでも行ってお茶してくるからさ。ね?」くいくいっとローニカの裾を引っ張れば、ローニカも頷いてくれる。「そうですよ。サニャさん。レハト様が珍しくおねだりをされているのですから」……これっておねだりだろうか。何か違う気がする。「え。えええ。でも、それっておねだりというか、サニャの為になってしまっているような……」流石のサニャも騙されないみたいだ。そりゃそうだ。「勿体ないし。早くしないと冷めちゃうし!」「……で、でも」「サニャが入ってくれないと、やだーーー」「…………」じたばた。その場で、子どもみたいに足をふみならせば、サニャはパチリと目を瞬いた後、ふふふっと笑った。「レハト様は、もう。しょうがないんだから。後で、サニャが入ってあげます」「わぁい!」胸を張るサニャに笑って万歳をする私。おかしなやり取りだけど、それで結構満足だ。と、話しながら服を着ていておかしなことに気付く。いつもの服と違うのだ。「新しいベストと……短パン……?」それに二―ソックスだ。何コレ、萌えを提供する何かか。「サニャが作ったのです。レハト様、木の枝や葉っぱを付けて帰られたり、汚れのひどいままで歩かれたりされてましたから大分、前のベストは痛んでたのですよ」それは、馬鹿貴族が葉っぱを集める趣味があり、たまたま、私が通りがかった時に、ふりかけ落としてくれた時の話だろうか。汚れたのは、ついでに、生ゴミがうっかりでつるんと私の頭に被ったのもあったかもしれない。何故、葉っぱとか生ゴミがウッカリでつるんする所にあったかはもう問わない。ばかばかしすぎる。一応、水洗いはしたんだけど、ベストは沁みだらけ。転んだのだと言い訳にならない言い訳をしたものの、良く分からない匂いが残ったりもして、結局サニャ任せにしていた。「たまに、どこかで引っかけたか分からない穴も開いておられましたですし、下の履物も、ずって歩かれて、それでコケてらしたり」私の足が短いのか、ズボンは大体、丈が長い。面倒だからとベルトで締めて、そのまま歩いていたんだけど、サニャには気になっていたらしい。「長い履物を渡して、縫い直そうかとも思ったのですが、それだとレハト様、これで良いよと言って直させて下さいませんので、いっそ短い物にしてしまえとサニャは思ったのですよ!」「してしまえ……でされてしまったのか、私のズボン」思わず笑ってしまう。凄ぇやサニャ。「だ、駄目ですか? 召し物は短くしましたですが、靴下は長めにしたですが。い、今からでも新しいお召し物をご用意した方が良いですか?」じっと見てくるサニャに笑って答える。「い、いやいや。ありがとう。そんなに心配かけてるとは思わなかった。ああ、ローニカもサニャも良い侍従だね。本当に嬉しい」「……レハト様……」ローニカが何か言いたげに見るけど、笑って流す。いそいそと新しいベストを羽織り、短パンと二―ソックスを履く。私の体に合わせたかのような、少しだけゆとりのある服だ。サニャが、考えて作ってくれたのだと分かる。「うん、中々可愛い。ふふっ。ありがとう」気に入って笑えば、サニャも嬉しそうにはにかんでくれた。「いえ。喜んで頂けてサニャも嬉しいです!」その服は良いと何度も誉めたたえたり、私自身を褒められたりした。お風呂のお湯が冷めるから!と、打ち切って何とかその場を収めたものの、私の侍従たちは少し、親ばかのような面があるのかもしれないと思った。20130118 Back next