▼ 03
「恐怖」
恐れること。
「畏怖」
恐れおののくこと。
どちらかを当てはめなければならないのであれば、これはきっと「畏怖」だ。
古い和式の家屋の中、李卯は着物を着て座っていた。その傍らには真っ白な着物を着た野良が、妖を従えて李卯に絡みつく。
「ふふ、ねぇ…李卯。名前で呼んで…?」
「……それ、は、」
「李卯……」
「っ、……――
柚…」
「くすくす……もっと、もっと呼んで…ね?李卯……」
耳元でダイレクトに伝わる野良の笑い声に、李卯はいい加減気が狂いそうだった。ここに連れてこられてから何日経った?陽弥は無事に小福の所に行っただろうか。四神達も皆無事だろうか。
絶えることのない疑問は、消えず増えてゆくばかりだ。
「どうだー?って…おいおい
璃…。それ引っ付きすぎじゃない?」
「父様ってばそんなこと言うの?それってただ羨ましいからでしょ?」
「ばっ、お前ねぇ…。ちょ、李卯もそんな目で見んなよ!」
「……ここから出して、父様」
「んー?」
何度も何度も言ってきた言葉を、また投げかける。すると藤崎はにんまりとした笑みを浮かべて李卯の側へと近寄った。
野良はぶすっと頬を膨らませて李卯から離れる。突然その温もりがなくなったことに驚く李卯だが、それを口にするよりも早く藤崎が李卯の顎をすくってつつつ…と親指で唇を撫でつけた。
「と、と、さま…」
「悪いこと言うのはこの口かなぁ?」
「とと、さま……っ」
「いいんだよ?俺は。許してるじゃん。だから家の鍵も開けっ放しにしてるんだし。でも、分かってるから出て行かないんだろ?李卯は」
藤崎はうっそりと笑うと、左手を李卯の頬にそっと当てて目を合わせる。“恐怖”ではなく“畏怖”で染まるその瞳に、藤崎は恍惚した。
「自分の神器が、これ以上いなくなるのはやだもんな?」
ひ、と頼りない声が漏れた。大きな黒い目のふちには涙が溜まり、いつ零れ落ちても可笑しくない。
くすり、と藤崎は笑う。
「美弥には悪いことしちゃったなーって父様思ってるんだよ?でも、あれはあれで大切な“仕置き”だったから仕方ないよな」
「やめて……」
「でも、どうしても李卯がここから出て、彼処に…夜トの所に戻りたいって言うんだったら、父様はまた李卯に“仕置き”をしなくちゃ……な?」
カタカタと小さく震える李卯に、最後とでも言うように藤崎は甘い声色で尋ねた。
「で?李卯はここから出たいの?」
頷ける、筈がなかった。
もう李卯には、逃げる術など持ち合わせてはいないのだから。
茜色に染まる空は、次第に暗闇へと変貌する。その瞬間を見届けながら、李卯は野良――
柚器を構えながら地面を駆けてゆく。
《――居た。アレが今日のターゲットよ》
「分かった」
野良の声に頷き、足音一つ立てずに男に近寄る。上機嫌に鼻歌を歌っている男は、未だにその危機感を感じれずにいた。
だが、ふとした瞬間に後ろを見た。が、もう遅い。既に李卯は柚器を振りかぶっていた。
「あ、」
――ザンッ!悲鳴を叫ぶより早く、男の首は地面へ落ちた。
・
・
・
「ありがとうございます…っ!これで、これでやっと娘も浮かばれます…!」
そう言って札束を差し出してくる母親に、李卯はやんわりと断った。それは、受け取れないから。
「これで、充分です」
キィ…ン、と親指で五円玉を弾いた李卯は、礼をしてからその場を去った。
母親は最後まで、深く頭を下げた。
「やっぱり、李卯には
人斬りがあってるわ」
「…そう思う?」
「えぇ。それに、陽弥よりも私の方がずっと優秀でしょう?だって私、刺したことないもの」
そこで李卯はふと記憶を思い出した。
あの時陽弥に刺されなかったら、きっと陽弥は今、私の神器を続けていなかっただろう、と。
「……そう、だね」
掠れた声で相槌を打った李卯は、またあの家へと戻り、ぎゅうっと自分の身体を抱きしめながら眠りについた。
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