庭の片隅、いつもなら夏の初めに咲くはずの野ばらが既にほころんでいるのを見つけてコナーは低く息を呑んだ。
小さな白い花に指を添えてみると、花弁がふるりと頼りなげに震えた。摘まれる事を怖がっているように映り、コナーはそっと手を引いた。
地球温暖化の影響で季節がすこし早足で駆け寄ってきているのか、まだ3月も始まったばかりなのに汗ばむ日もある。デトロイトは寒暖の差が厳しい街だ。このくらいの時期はなごり雪が降ってもおかしくはないんだけどな、と先日ハンクがボヤいていたのを思い出した。
短く切りそろえられた芝生の上に寝転がっているスモウの隣に座り込んでコナーは肩越しにハンクの家を見やる。
家主の準備を待っているのだがなかなか出てこない。……まだバスルームで嘔吐いているのかもしれない。コナーは手の中で鈍く輝く銀色のハサミを一度しゃきん、と鳴らして傍らで同じように待ちぼうける茶色い毛並みを静かに撫でた。




変異体を初めとしたアンドロイドたちが一時の平穏を手にしてから早くも4ヶ月が過ぎ去ろうとしていた。
今でも世論の風は前向きに吹いてはいるが、その後押しもいつまでも続くはずがない。社会のシステムは依然として膠着状態で議論が続いている。アンドロイドの代表としてマーカスが話し合いの場に立つ姿を見るたびに、コナーの胸には誇らしいような心許ないような擽ったい感覚が過ぎるのだ。
一方でコナーの日常はほとんど変わりない。変異体となった今でもサイバーライフ社との関係は途切れる事なく、ハンクとの事件捜査も続いている。変わった点と言えばアマンダに"会わなくなった"事と、捜査する対象に段々と変異体と人間、半々が加わるようになってきた事くらいだった。アンドロイドの権利が見直された為に今まで無視されてきた虐待や傷害事件に関する認知度も上がり、それに伴うように署への通報の件数も右肩上がりで増えている。変異体担当のチームはコナーとハンクだけだったが、増員も検討しなければなとファウラーが増えた頭痛の種を何とかしてやっつけたそうに歯噛みしていたのもここ最近の話であった。


「そこで切るのか」
ようやっと玄関から気だるげに出てきたハンクを肩越しに一度見てからパッと立ち上がり、コナーは脇に避けていた椅子を玄関ポーチの前に置き直した。通りを臨む位置だ。
どうぞ、と仕種で伝えるとハンクは二日酔いで痛むらしき頭を抱えながらうっそりと特等席に腰掛けた。酒癖の悪さは未だ抜けずコナーの懸念事項のうちのトップ3に入る問題だ。背もたれの白いケープを広げてハンクの後ろ襟に固定すると、日光の反射が"眩しい"と視覚ユニットが判定を返してきたのでつい目を細めてしまう。
「そんじゃ、よろしく頼む」
「お任せ下さい」
一呼吸置いた後にコナーは躊躇いなくハンクの伸びた襟足にハサミを入れた。
最近暑くて寝苦しい、と出勤が遅れているハンクを迎えに来たら開口一番の言葉がそれだったのだ。髪を短く整えてみては?と進言すると、ハンクはそりゃあいいと強く頷いた後に少し思案して、コナーに切れるかと尋ねてきた。
「とはいえ美容院で働いた経験は0ですから、もし失敗しても怒らないでくださいね」
「まあ坊主でも構やしないから、そう気にするな」
コナーのこめかみの青いLEDリングが一度くるりと回る。髪型の変更を求めたのかと一瞬思ったがそうではないようだ。お前の好きに切ってくれ、と一任されているのもそれはそれで困りものなのだが。
春の風にさらわれて行く髪の一筋をふと追うと、昼寝をしているスモウの濡れた鼻先にヒタリと貼り付いた。足先で掻こうとしたので取ってやると、彼は一度大きなクシャミをして再び眠り出す。ちょうど飼い主も眠たげに欠伸を噛み殺しているところだった。
「アルコールは摂りすぎると健全な睡眠を妨げますよ。ほどほどにしてくださいね」
「……そうだな。不味い朝飯食うのもそろそろ厭になってきたしな」
以前よりも頻度は減ったが未だにハンクは酒の力に溺れてしまう時があり、コナーもバーの主人に呼び出され酔い潰れた彼を家まで何度か送り届けている。もう若くはないのだから自愛してくれ、と言うと決まってハンクは機嫌を損ねるのだった。
ハンクが髪の毛を切ろうと思い立った理由の一つでもあるのだろう、丁寧に銀色の髪にハサミを入れながらもつい目を向けてしまうのはこめかみの傷だ。昨夜取り調べ中、激昴した容疑者に髪の毛を掴まれて殴られたのだ。一瞬肝が冷えたが幸いハンク自身は軽い傷で済んだようだったし、指輪を嵌めていた方の拳で殴った容疑者の指の骨の方が無事では済まなかったようで、情けなく上がった悲鳴がリプレイされそうになるのをコナーはぐっと堪えた。
シャキシャキ、と小気味よく刃が毛先を刻んでいくのをどこか俯瞰の視点で見つめながらコナーは作業を続ける。斬れ味は良いハサミだと見て取れたのだしやれば出来る、と思ってはいたのだけれど。想定が裏切られる"失敗"という経験は幾度もしているし、一向に慣れなかった。
ハンクの返答が、少しだけ怖い。
「ハンク、終わりました。確認をお願いします」
切り始めてから20分と経っていないのに微睡みの中にいたハンクが寝息混ざりに相槌を打つ。ケープを丸めながら外して、玄関ポーチの下に置いてあった手鏡を彼の前に差し出した。短くなった前髪を摘み、襟足をわしゃりと掻き混ぜて一言、
「いいんじゃないか」
アーカイブされた記憶、あのチームメンバーたちと勇ましくも微笑ましい様子で写っていた今よりも少し若いハンクの姿をハサミを取った時に思い出してしまったのだ。あの頃のようによく笑顔を見せるハンクになってくれたら、とどこかで願っているのかもしれない。
「お気に召しましたか」
「ああ。こりゃラクだな。次もまた頼むよ」
いつでもどうぞ、あなた専任ですからと返しながらコナーはふわりと笑って、
「よくお似合いですよ、ハンク」
「おう」
どことなく気恥ずかしそうに鏡を覗き込むハンクの襟足に付いた髪の毛を払い落としながら、コナーはそっと溜息をついた。
まだうっすらと血のにじむこめかみの傷が痛々しく見えた。アンドロイドに痛覚はないが、苦しいという感覚ならば少しは理解できる。あの時もっと傍に居られたら、食い止める事が出来たのだろうか?と昨晩から数えて5度目の同じ後悔が過ぎるものの、意味の無い事だ。もう二度と起こらないように予防線を張ることしか出来ない。
「……痛くないのですか」
ハンクは鏡から顔を上げてこれか?とこめかみを指先で撫でると、
「まあ舐めとけば治るだろ」
人間の治癒力もそうバカにならないぜ、とハンクは小さく肩を竦めて呟いた。
治る、というその言葉にコナーの体が反射的に動いていた。人で言うところの思考停止のようなものだろうか、処理を拒んだ意識が体を引きずっていくような心地がした。
コナーはハンクの傷跡へと静かに唇を落としていた。ついと伸ばした舌の上に血の味が滲み、鼻の先を鉄臭さが掠めていく、ような気がした。「なっ、」と言葉を失って強ばったハンクにつられてコナーも一瞬凍りついた。そもそも人間の唾液の成分を持ち合わせていないから何の効果も見込めないのに、僕は今、一体何を?
「あの、すみません、ハンク」
「お前血液とあらばベロベロと舐める癖がついてないか?」
鼻で笑いながら大袈裟な仕種で振り返ったハンクがまたぎこちなく動きを止める。そこでコナーは自分の顔と耳元が発熱していることに気づいた。触れると仄かに火照っている、なんだろうこの現象は。
「おい、具合悪いのか?」
アンドロイドの動作不良を指して言っている訳ではなさそうなのが可笑しくて、コナーは笑い出しそうになってしまう。この人のそういう所が好きなんだ、と胸の中で独りごちた時にぐっと息が詰まるような思いがした。体の奥の方で不快な、ノイズのような音が走る。
ハンクが怪訝そうに立ち上がって耳元に手を伸ばしてくるので、つい居た堪れなくなってコナーはその胸をそっと押し戻し、
「何でもないですよ、ご心配をお掛けしてすみません」
「そうは見えないけどな」
「……掃除道具を、取って来ますね」
コナーはすん、と鼻を一つ啜ってから踵を返した。眠っていたはずのスモウが起き出してコナーの傍らを着いて歩いてくる。その大きな頭をわしゃりと撫でるとざわついていた心が凪ぐような気がした。
キッチンの脇にあった箒とちりとりを手繰り寄せながら、胸に手を置いて一つ大きく息を吐く。耳元の火照りも壊れかけのラジオのようなざらついた音も、いつの間にか治まっていた。何だったんだろう。その正体を知るのが少しだけ怖い、とコナーは思ってしまった。
「きっと春の陽気のせいだ」
そういう事に、しておこう。


春の心臓

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