――こんな夢を見た。
 
 
眼前には絵の具を直に流したようなとろりとした暗青の闇が広がっていて、数瞬、目を開けているのかいないのかの判別がつかなかった。呆然としている間に眼球の表面が乾いて、反射的に眦をツウ、と一筋涙が伝って落ちた。その雫を指で拭ってから、エグジーは誰ともなしに問う。
ここはどこだろう?
エグジーは暫し自分の呼気とまばたきの度に擦れ合う睫毛の音を聞きながら、その闇に目が慣れるのを待った。
視界の端にじんわりと滲みだした白色に、ついと首を左に振ると後頭部のあたりでカサリ、と乾いた紙のような音が鳴る。無数の白いカーネーションがぼうっと仄淡く光っているのが見えた。
エグジーは緩慢な動作で肩の辺りから一輪取ると、匂いを嗅ぐように唇を寄せた。と、記憶の中に仕舞いこまれていたはずの香りが突如として呼び覚まされ、はっ、と息を止める。
そこで漸くエグジーは、ここが棺の中である、と認識した。
仰向けに寝転がった眼前に、ぐんっと迫ってきた棺の蓋にペタリと両の掌を這わせ、目一杯強く押し返してみるが開くはずはない。
蓋の向こうには冷たい土が積もっているのだろうか。それとも暗黒か?虚無か?
急に空恐ろしくなって思考を巡らせることを止め、そのまま首をゆっくりと右に振った。
嗚呼、と音も無く息を吐いて目を細める。


――純白のカーネーションの中に埋もれながら、穏やかに眠るハリーの姿があった。
誇り高き鎧――纏った濃紺のスーツとのコントラストで、白皙の頬がひときわ浮かび上がっていた。
献花に染み付いていると錯覚した彼の馴染みの香水や煙草やアフターシェーブローションの混ざり合った匂いは、ともすれば記憶の中から複製された模造品かもしれないが、融け合う甘やかな死臭は恐らく本物で、噎せ返りそうになりながらエグジーは恐る恐るその頬骨の辺りに静かに手を伸ばし、触れてみる。
柔らかさはなく、のっぺりと冷たい。まるで大理石のようだった。
その感触にエグジーは安堵を覚えた。
人の温もりを宿していたら泣き出していたかもしれなかったから。
「ハリー、」
それでも名前を呼ぶ声に涙が混じりかけてエグジーは唇を裂けんばかりに一度強く噛んだ。
泣いて何かが前向きに変わるならば、いくらでも泣くけれど、今まで生きてきてそんな都合の良い変化が訪れたことなんて一度たりとてなかった。
ハリー・ハート。
そんな泣くことしか出来ずに朽ちかけていた非力な俺に再生の光を注いでくれた人。


――たった一人の「      」




泣いて喚いて暴れたら彼は戻ってくるだろうか?
彼がいなくなってから今まで一度も、涙らしい涙をエグジーは流していなかった。
指先のさらに先で躊躇いがちに冷たい上唇に触れ、頬から額へなぞり上げて、それから柔らかな栗色の髪を撫でた。
その空々しさすら覚えてしまいそうな明快な感触にエグジーは「やっぱりこれは夢だ」と微笑む。
だって、彼はもういない。
鮮明に脳裏に蘇るのはあの日モニターの向こうで弾けた一発の銃声と、真っ赤な血潮で象られた花だ。忘れることなんてできなかった。
現実世界では、恐らく肉体は土に還り、その崇高で高潔な魂は再び生まれ落ちる日を今か今かと空の果てで待っているのだろう。あんまり神様は信じていないけれど、彼ならばきっと許されるはずだ。
横たわる端整なかんばせに傷跡はなく、今にも寝息を立て始めそうなくらいになよやかで安らかだった。
このまま甘い香りの中に揺蕩って、ずっと夢を見ていられたらいいのに。
夜明け前の凪いだ海に吹き渡る風のように心は酷く寧静だった。
エグジーはカーネーションに深く身を埋めて息を吐き、じっとハリーの横顔を見つめた。
どのくらいの時が経ったかは分からなかった。時間の感覚が麻痺している。比較的長かった、とは思う。
ふるり、とふいにその目蓋が震えた気がした。かと思うと目蓋の下の眼球が動き、睫毛が揺れ、静かに澄んだ鳶色の瞳が覗く。
エグジーは固唾を呑み凍り付いた。
目を覚ましたハリーは暫し虚ろに宙空を凝視した後、ぽつり、と囁く。

「まだここに来てはいけない」
その言葉を聞くや否や暗青色の無重力の中に放り出されてエグジーは「わ、」と恐れに小さく悲鳴を上げた。
どんどん下らしき方向へ落ちて行く。
下へ、下へ。
不思議の国にでも辿り着いてしまいそうだ。
ハリーの声に押し込められるように。
下へ、下へ。
落ちて行く。
そのまま意識は速やかに闇の中へと呑み込まれていった。 
 
 
 
 
『ガラ ッド、』


膠で糊付けされてしまったみたいに重たい目蓋をこじ開けて、息を吸おうとすると、喉の奥へとずり落ちてきた血の塊に吐き気を催し、エグジーは口元を押さえた。ぬるりと生温かい肌触りをした赤錆色の液体が両の鼻の穴からだくだくと顎を伝ってシャツの胸元までを汚していた。ただの鼻血だ、と粗暴に手の甲でぐいっと拭ってから啜り、げほりと口から塊を吐き出してみるがキリが無い。鼻の骨でも折れたのだろうか。
喘ぐように顎を上げてどうにか息を吸うと、鈍い痛みと、気管から肺のあたりで呼気が引っ掛かる強い違和感があった。肋骨が折れているのかもしれない。スーツの上から胸に手を添えてみるが判るはずはなく。
『ガラ ッド。応答してくれ、ガラ  ド』
「……………………」
『無事なのか?……エグジー!』
「……マー、リン」
聞こえてるってば、大丈夫。
ごろごろと声も血の塊も喉に引っ掛かり一つ返事をするのにも苦労してしまい、もどかしい。
それにしても。
マーリンの深刻そうな声音にエグジーは内心で首を傾げた。
一体何があったというのだ?
あちこち反応が鈍くショートしかけの神経を繋ぎ合わせながら、状況把握に努めると、背中には冷たいコンクリートの感触があって、どうやら路上に座り込んで脚を投げ出しているようだと判る。
視界の焦点が遠い位置の物に対して上手く合わなくて、辺りを鈍重に見回していると、やたらと薄暗く、蠢く影とざわざわとした話し声に包まれていることに気がついた。察するに、野次馬の群れに囲まれているらしい。
エグジーは悚然とした。
一体、何があった?
この負傷といい、"観客"といい、まるで思い出せない。記憶の箱をやたらめったら引っくり返して開けてみるのだが、あるはずの中身はすっかり空っぽ、であった。
体は何とか動かせそうだったので緩慢に立ち上がって、人垣の切れ間を薮睨みしてみる。視界の端からじわりと質感が戻ってきて、クリアになった景色を見、エグジーはへぇ、と乾いた驚嘆の声を上げた。
然程遠くない位置にバンパーもボンネットもひしゃげ、煙をぶすぶすと吐き出す車が二台仲良く喫茶店の軒先に真正面から突っ込んでいた。一台は見覚えのないネイビーブルーのスポーツカー、もう一台はエグジーが機関から支給されているブラックキャブだった。
恐らく何かハプニングがあって車内から投げ出された……んだろうな。その時に記憶も放り出してしまったみたいだ。
どんよりと薄曇りの空のように痛む脇腹を押さえて唖然と立ち尽くし、成す術のなくなったエグジーは無線に縋る。
「マーリン、俺どうしたらいいんだっけ」
底抜けの間抜け、もしくは投げ遣りだと思われても仕方ない問いに、案の定マーリンは呆れたように溜め息を吐いた。
『標的を、断じて、逃すな』
強調するようにピシャリと言い捨てられ、エグジーはもう一度すん、と鼻を啜ってから「OK」と明るく返した。大変判り易くてありがたい。
若干故障しているのかもしれない、微かにヒビの入った眼鏡のレンズを調子を確かめるように指でコツコツ叩く。と、携帯端末のGPSのハッキングでもしているのかドンピシャで標的の座標が表示された。そのインターフェースの向こう側の様子にエグジーはおや?と片眉を吊り上げた。お目当ての標的らしき人影が丁度ネイビーブルーの車内から転がり落ちるように逃げ出すのが見えたのだ。
「失礼、」
怪我をしているぞ、救急車を呼ぼうか、話しかけてくる輩をそんな暇はないとまるっと無視してスーツの皺を正してから群衆を掻き分ける。
標的も傷を負ったようで、靴を脱ぎ捨て、野暮ったく右足を引きずりながら懸命に現場から距離を取ろうと逃げて行く。その背中を足早に追いかけながら懐のホルスターから拳銃を引き抜いた。脚は軽快に動いたが肺のあたりの違和感と痛みが煩わしく、ねじ伏せたいのについ意識してしまって呼吸が乱れた。それでも、徐々に速度を上げるだけの体の機能は十二分に残っていたので何ら問題はなかった。
秋口で仄かに冷え込むテムズ川沿いの街路を、オックスフォードの靴底の音を殺して駆け抜ける。
「マーリン、」
『なんだ』
「逃すなって事は、殺した方がいいってことですか」
『そう……だな』
標的がふいに背後のエグジーを振り返った。
映画なんかでよく見る、殺人鬼に追われている俳優と同じ目をしていた。スマートフォンを取り出して何処かへ連絡を取ろうとする素振りを見せたので、反射的に標的の膝を撃ち抜いていた。投げ出された端末がからからと明後日の方向に滑っていき、どう、と倒れた標的に近づいてエグジーはひっそりと見下ろす。
座標の正体は、鮮やかな赤いドレスを纏った巻き髪のブロンドの女だった。赤いエナメル質のクラッチバッグを掻き抱き、膝の痛みに整った顔を歪め、ラベンダー色のシャドウで囲まれたサファイアブルーの瞳が忌々しげにエグジーを睨め付けてくる。かと思えば、双眸に涙が滲み、黒々としたマスカラが見苦しく溶け落ちていくのを冷めた思いでエグジーは見つめた。
「お願い、助けて」
何も見るな、耳を塞げ、心を殺せ。そう自分に言い聞かせて銃を構えた。
深紅のルージュが引かれた唇をわなわなと震わせながら、彼女はタイトなドレスに覆われても尚くびれた腹を撫でた。並び的にシャンパンゴールドに彩られているはずの人差し指のネイルチップが欠けている。
「待って、お願い、話を聞いてほしいの。ここにもうひとり、」
彼女の言葉が終わる前に、躊躇いなく胸の真ん中に向かってトリガーを引いた。
一瞬、目を見開いてから、彼女の体は落ち葉のようにひらりと石畳に倒れた。
じわり、と均等なブロックの目に赤が広がって行く。
口の端から一筋血を吐きながら、彼女はエグジーに向かって何かを呟いた。
思わず傍らに膝をつき、その口元に耳を寄せると、

「私  は、      ない」

次の瞬間、衝撃が走った。一発、それからもう一発。
シャツの胸元に押し付けられたデリンジャーと留め金の外れたクラッチバッグを見下ろし、ざまぁみろと言わんばかりに艶然とほくそ笑む彼女に、エグジーは困ったように笑いかけた。
「君があんまりに綺麗だから、つい油断しちゃったみたいだ」
彼女の眉間と腹部を撃ち抜いて止めを刺した。
一つ息を吐き、エグジーは脱兎のごとくその場を離れる。
意識の芯は冷たく冴え切っていて、眼鏡の無線に向かってエグジーは淡々と報告をした。
「終わった」
『よくやった、エグジー。後の処理はこちらに任せてくれ』
「マーリン、迎えが欲しい。車が使い物にならないんだ。それに運転手がケガをしているだろうから救助もお願いしたい」
『安心しろ。迎えはもう直に着く。彼は既に本部へと搬送中だ』
「流石です。ありがとう」
鼻血で汚れていたシャツの胸元に新しい血が滲んでくるのが判って、エグジーは小さく舌打ちをした。
銃弾で胸を抉られたはずなのに、不思議と痛みは感じず、ぬるぬると流れ落ちる血の肌触りだけがただただ不快だった。
耳鳴りと眩暈がして、川のほとりに並べられたベンチに腰掛ける。
想定外に派手に動きすぎた、という反省点はあるが任務は無事終えた。
マーリンも怒りはするが、きっと褒めてくれるだろう。それに、ハリーも。
つかれたな。
急にひどく眠たくなってエグジーは目を閉じる。
意識は簡単に闇へと吸い込まれていった。




「しつこい」
ただ一言、躾のなっていない犬を叱責するように吐き捨ててからハリーがじろりとこちらを睨んだ。
いつものダイニングテーブルのいつもの席。深紅のローブをまとって、ウィスキーのグラスを傾けながら、彼は数ヶ月前の、自分の命日に発行された新聞を悠々と読んでいた。
その隣にエグジーはスーツも手も顔も何もかも血だらけのまま立ち尽くし、
「ごめん」
またこうして夢の続きが見られるのは嬉しかったが、不機嫌そうなハリーを見るのは悲しかった。
しょんぼりと視線を落としていると、視界の端にガラスの煌めきが映り、ハリーが差し出してきたグラスを大人しく受け取る。注がれた琥珀色が上等な代物だと判りつつも、あまり気乗りしなくて舌の先だけでちろりと舐めるに留めた。
血の味がした。
怪訝に見やるとその表面にどろりと色とりどりの不気味な油膜が揺れて広がる。ネイビーブルー、赤、シャンパンゴールド、ラベンダー。それから、サファイアブルー。
その無邪気なまでの彩りにエグジーは疲れ切った眼差しを落とした。
「私たちは、あなたを許さない」
片手の新聞に目を向けたままハリーがぼそりと呟いた。
赤いドレスの女が最後に言い放った呪いの言葉だった。
「どうしてしってるの」
「私は君の意識の一部だからさ」
「そっか。……二人、殺したのかな」
「気になるなら検死でも何でもして調べさせればいい。だが一人でも二人でも、同じことだろう。罪が重たいという事実は変わらない」
そんなこと、言われなくても判ってるよ。
死と隣り合わせである事も、命を奪うという行為も、仕事だから仕方が無いと割り切ってすっかり慣れたけれど、その後押し寄せる罪悪感の波にはいつまで経っても慣れることはなかった。
エグジーは溜め息を吐きながら、新聞を読み続けるハリーの手を静かに取り上げた。
そうだ、どうせ夢なのだ。
開き直り、その細く長い指に自分の指を絡ませ、エグジーはハリーの手の甲へとそっと口づけを落とした。
緊張で震える唇に触れた皮膚の感触は、大理石とはほど遠い温かさと、柔らかさを湛えていた。
手の甲から指先へと唇を滑らせる。
一度でいいから、こうやってその美術品のような手に触れてみたい、とずっと思っていた。
夢だと分かっているのに心臓がゆるやかに高鳴っていく。
ハリーも、その恋人にするような仕草のままごとを何も言わずに許した。
自分の血ともあの女の血とも知れない赤が、ハリーの透き通った白い肌を汚して行く。
「ハリー、」
眼差しだけでハリーがどうした?と返してくる。
「ずっとここにいちゃダメかな?」
「いいよ。と、私が言うとでも思ったのかい」
ふるりと首を振ってエグジーは、ハリーの手を一度ぎゅっと握って、それから放し、その傍らに椅子をたぐり寄せた。
「これを飲んだら、ちゃんと起きるから」
不穏な色が揺れるグラスを持ち上げると、付き合おう、とハリーもグラスを手に取り、二人はカチリ、とグラスを打ち付け合った。




そうして盃を干したエグジーは、本部の集中治療室のベッドの上で目を覚ました。
ピン、と張った生温いシーツをひと撫でし、傍らに目を向けると、ウィングバックチェアでマーリンが膝の上に書類を広げながらうつらうつらと舟を漕いでいた。
彼の腕時計でこっそりと日時を確かめてエグジーは愕然とした。
……たった一杯のウィスキーを飲み干すのに?
赤い服の女を殺してから、およそ一ヶ月の時が過ぎようとしていた。昏々と眠り続けていたらしい。それともまた記憶が抜け落ちてしまったのだろうか、そもそもこの記憶は正しいのか、まだ夢を見ているのでは。
もう何一つ、自分を信じることが出来なくなっていた。
午前2時。部屋は薄暗く、辛気くさい消毒液の匂いが立ちこめている。
壁際の照明のクリーム色の光を頼りに点滴のカテーテルを腕からずるりと引き抜いて、ベッドから静かに降りる。節々が多少怠いくらいで、筋肉は落ちているかもしれないが、身体的には何ら問題なさそうだった。
スモークグレーのリノリウムの床を素足で踏みしめて、重力に対応しきれず少しよろけながら洗面台の前に立った。
入院着の下の肌は至って清潔で、髭もなければ髪も小綺麗に整えられていた。胸の銃創には大きめのガーゼが一枚当てられ、肋骨の骨折には軽くサポーターが巻かれていたが、大した痛みもない。
久しぶりに見た自分の顔は、泥のように眠っていたくせに隈がひどく、少し頬が痩けたかなという感想を抱いた。
そこへふいに灰色の物体がゆっくりと鏡の中にあらわれるのをエグジーは見た。
それが自分の姿であるという事に気がつくまで幾分かの時間を要してしまった。
エグジーはゆっくりと憂鬱に視線を上げていく。上唇から頬へ、そして額から髪へ。視線は硬い物に出会わず、まるでずぶずぶと砂や泥に埋もれて行くようだった。指で触れてみると鼻も口も目も、そこにあるのに。あるはず、なのに。
自分の顔が突然、霞の中へと立ち消えてしまったような気がした。
思い出せない。俺はどんな顔をしていた?
どうやって、彼に笑いかけていた?
思考を巡らせるほどに気だるい吐き気に襲われてエグジーはパニックに陥り、ひどく嘔吐き、苦い胃液ばかりをステンレス製のシンクに吐き出した。
「ガラハッド」
ふわりと温かい手に背中をゆっくりとさすられて慌てて振り返る。
と、マーリンの酷く困惑した表情と視線がぶつかった。
――ガラハッド?
「君の事じゃないか、エグジー」
いつの間にかウィングバックチェアにスーツ姿のハリーが脚を組んで腰掛けていた。
「死んだ私の代わりに名を継いだじゃないか。もう忘れたのか」
……忘れるも何も、そもそも継いだ覚えが無かった。ガラハッドはハリー、あなただけだ。俺には重すぎるし、相応しくない名だ。
目覚めて早々に戸惑いの高波に呑まれ、視界の端にゆらりと薄墨が滲み、エグジーは息苦しさに胸を押さえた。腰が抜けたようにしゃがみこむ。マーリンに肩を支えられて何とかバランスを保っていられる有様だった。
「急に起きて大丈夫なのかい」
「だい、じょうぶ」
乱れかけた呼吸を屈服させ、どうにかリズムを整えて、エグジーは嘔吐きを飲み込みながらマーリンの眼鏡の奥の双眸をひたと見た。
「ねぇ、マーリン」
「なんだい」
「俺の名前を呼んでくれませんか」
「 ラハッド」
「そっちじゃなくて、」
「エグジー」
「もっかい」
「エグジー」
ああそうだ。俺はゲイリー・“エグジー”・アンウィンだ。
――だからガラハッドじゃない。
エグジーの額に浮かぶ玉のような汗を、ポケットから取り出したハンカチでそっと拭ってから、マーリンはベッドに戻らないか?と静かに囁く。
「手を、」
乞われるがまま彼が怪訝そうに差し出した手を握り、質感と体温を確かめ、骨を指先で辿り、筋肉をなぞる。
どうか非礼を許してください、とエグジーは囁いてからマーリンの首に腕を回し、体を寄せて縋り付いた。
マーリンも幾許か逡巡してから、ふらふらと彷徨わせていた手をエグジーの背中に回して両の腕で強く抱き寄せる。
赤ん坊をあやすように、背骨のでっぱりをゆるゆると撫でる無骨な手の感触に安堵感を覚えながら、エグジーは1、2、3、4……とくん、とくんと脈打ち重なり合うマーリンと自分の心音をぼんやりと数えた。
エグジーはその肩越しに、椅子に座ってこちらに向かって微笑みかけているハリーを見る。微笑んでいるものの、その表情の奥底の真意までは決して読めなかった。
薄暮が訪れたような無機質な室内に、ふわふわとマーリンの低く穏やかな声が漂う。
「容態は良いのに、君は一向に目覚める気配がなかった」
……標的を殺し、任務を終え、傷だらけになった君は傷が癒えてもずっと眠り続けていた。何度も精密検査をしたがどこにも、もちろん脳にも損傷はなかった。
ハリーが僅かに身じろぎ、小首を傾げた。
背骨をなぞっていた手がぎこちなく後頭部に上って行き、ふわりと髪を撫でられる。
マーリンの声が悲しげに曇った。
「何に呼ばれているんだい、エグジー」
「いいえ、何にも」




「呼んでいるのは俺の方なんです」




それから二日後、最後の精密検査で退院の許可を得たエグジーは、無事に集中治療室を出た。
マーリンの呼び出しに、職務に復帰するつもりでスーツを身につけて顔を出すと、手書きの小さな地図と一本の錆び付いた鍵を手渡された。
「これは機関からの命令だ」
「はい?」
「最低でも三日間は、ここで体を休めなさい」
肩透かしを食らって、エグジーは眉間に皺を寄せた。
「何を馬鹿げたことを。もう充分に休みました。体調も万全です。人手が足りないって悩んでいたのはあなたでしょう、マーリン」
「その鍵はハリーの別荘のものだ」
「…………」
エグジーは手の平に乗った小さな鍵を穴の空くほど見つめてから、無言でマーリンに突き返そうとした。無論受け取られるはずもない。
「彼の言伝で私が保管していたが、別荘の所有権は君にある。それに命令だ、と最初に言ったはずだが」
機関に背くのか?とマーリンが眼鏡を光らせたので、エグジーは言葉に詰まってしまった。
「いいかい、ガラハ  」
「…………」
「……返事をしなさい、エグジー」
「はい」
「せめて、その目の下の隈が消えるまではゆっくり休むことだ」
言われて怖々と腕時計の微かな鏡面部分に自分の顔を映してみた。
大きく歪んではいたが、マーリンの言う通り、青緑色の瞳の下に隈が浮かんでいるのが見えた。
そこに、灰色の塊はなかった。




そして言われるがままロンドンから離れ、シチリアの海辺の白い砂浜にエグジーは一人降り立つ。
端から見たら道に迷ったビジネスマンだよなぁ、とくすりと笑って上着を脱ぎ、革製の旅行鞄と携えて別荘を探して歩き出した。
機関が所有するビジネスジェットを降りてから民間のレンタカーショップでオープンカーを借り、マーリンの手製らしき大雑把な地図に悪戦苦闘しながらも見知らぬ土地をひた走るのは、それはそれで案外楽しかった。この思いがけない休暇を上手いこと受け入れられそうな自分にも驚くばかりだ。
甘い潮の香りと落陽の光を浴びながら、眼鏡を掛け直す仕草をして指が空を掻く。
そうだ、ないんだった。
通信機能が煩わしいだろう、とマーリンが出立の時に没収していったので連絡が取りたかったら近隣の家か店で電話を借りる必要がある。
母も妹も、機関とも隔絶されている、一人きりの時間。
さあどう過ごせばいいんだろう、ぼんやりと考えながら五分と歩かない間に件の別荘と思しき真っ白な一軒家に辿り着いた。
受け取っていた鍵をドアに差し込むと無事に開き、中に恐る恐る入ると真っ白な壁と天井と床の眩しさが目を突き刺してきた。
せっかく治療室を出たのにまた病院みたいなところへ来てしまったな、と溜め息を吐きつつ旅行鞄を玄関に置き、室内をうろうろと改めると、どうやらリビングと寝室と書斎の三間しかないひどくこじんまりとした別荘だと判る。家具もほとんどなく、リビングはだだっ広いばかりで、書斎だけは薄暗く本棚に溢れ返り、寝室は部屋の真ん中にベッドが一床あるきり。しかし埃っぽさはなかった。
もう少し豪奢な内装をイメージしていたエグジーは拍子抜けして肩を竦めた。庶民的で落ち着きがあると思えば、まあ悪くはないけれど。
ハリーはここで何を見て、何を思っていたのだろうか、とふと考える。
彼の残滓をつい探し求めてしまうが、見つかることはなかった。消毒されたように無菌。
とりあえず首筋がべたついていたのでシャツのボタンを開きながらシャワールームへ向かった。
これで書斎に面白い本の一冊もなかったら、本当に、どうやって暇を潰そうか。




 
部屋の主のように鎮座した黒檀の机のそばに素足で立ち尽くし、二つに折り畳まれていた穏やかな手触りの古びた紙に滲むロイヤルブルーのインクを、エグジーは読むでもなしに息を止めたまま永いこと眺めていた。
紙を持つ手が無意識のうちに小さく震えだし、整然と並んだ美しい文字のあと優雅に書き流されたサインをはたと見る。
"ハリー・ハート"
これは一体どういう意味だろう、またしても思考が停止してしまう。
最近時間の感覚がハトロン紙のように薄い。
恐らく真っ白な部屋のせいだ。常に昼間みたいに明るいので、窓を開けておかないと夜の訪れがほとんど判らなかった。ここへ来てから何日経っているのかも曖昧にマーブル模様を描いている。
張り詰めていた糸が切れたように二、三日ほど眠り続けていたせいもあるのだろう。昼と夜が反転し、太陽が静かで過ごし易い夜に起き出して、本を読んだりしている事がエグジーは多くなった。
今も、おそらく夜だ。
開け放った窓から潮騒が聞こえ、忍び込む夜気が頬を撫でてくる。
――"ハリー・ハート"
外気が紙の隅を揺らし、攫おうと揺れる。書斎へ新しい本を取りにきて、何の気なしに机の抽斗を開けてみたらこの手紙が出てきたのだった。何故……?
エグジーは緩慢に動き出した。
手紙と本を抱えて、腰に紺色のスウェットを引っ掛けただけの姿で外に出る。
開いた窓から漏れる光と月の明かりを頼りに、エグジーは窓の下の壁に凭れ砂地に腰掛けた。そばに転がっていた、波に研磨されて丸っこくなったガラスの破片で手紙に重しをしてから、本を開く。
書斎の壁一面に並んだ棚の本を端から順番に読んでいた。活字はあまり得意ではないのだが、ハリーが遺した物かもしれないと思ったら自然と読み始めていた。ジャンルは雑多で古典文学から料理雑誌まで幅広く、飽きない。色々な世界が手軽に見渡せる喜びを知れたし、何よりハリーの一部を覗いているかもしれないという感覚がこそばゆくもあり、嬉しくもあった。

"かれは年をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮べ、ひとりで魚をとって日をおくっていたが、一匹も釣れない日が八十四日もつづいた。……"

だめだ、目が滑る、集中出来ない。
エグジーは静かに月を仰ぐと、本を白砂へと投げ出し、息を吐き、意を決して手紙を取り上げた。
書き出しに目を走らせる。唇が、歌をうたうように勝手に読み上げていた。
「こうして言葉を贈る権利すら、私には無いのかもしれないが、――」
滔々と読み進める。遺書、ではない。誰かに宛てた手紙かもしれない。
否、手紙に成り損なった走り書きだった。
投函するあてもないまま、ふらふらと彼の機微が揺れているのが見て取れた。
エグジーはこのまま読み進めて良いものかと一瞬悩んだが、好奇心には勝てずにそのまま続けた。
特定の誰かを示す固有名詞はなかった。
取り留めの無い日常のあとに、苦い謝罪の言葉が幾重にも連なる。
ブルーのインクが僅かに震えていた。
終わりに差し掛かり、エグジーは、ああ、と声にも満たない声を漏らした。
「――君の代わりに私があの子を守ることを、」
ここに誓うよ。
ひくりと喉が震え、堰を切って涙が溢れて頬を伝い落ち、エグジーは声を上げて泣いた。
そこで漸くエグジーはただただずっと前から自分が声を上げて、わんわんと泣きたかっただけなのだと気がついた。
壊れてなどいないし、病んだりなどしていない。
ハリーはもうこの世にはいない。
"ガラハッド"は自分一人きりだ。
全てを受け止めて、しっかりと自分の脚で立ちたかっただけなのだ。
どうか今だけは泣く事を許してほしかった。
ハリー・ハート。
そんな泣くことしか出来ずに朽ちかけていた非力な俺に再生の光を注いでくれた人。

――たった一人の「いとしいひと」
 
声を枯らして泣き疲れて、ベッドに辿り着く直前で強い睡魔に襲われたエグジーはシーツを手繰り寄せながら、床の上で微睡み始めた。
「風邪を引くぞ」
現れたハリーはいつものスーツ姿でエグジーを静かに咎める。
「だいじょうぶ、若いから」
「ちゃんとベッドで寝るんだ」
エグジーを抱き上げ、ベッドに寝かせると、ハリーはエグジーが縋り付いていたシーツをすっと静かに奪った。
ふるりと震えて、腕を掻き抱き、
「寒い、本当に風邪引く」
「そろそろ目覚めるんだよ、エグジー」
ハリーはエグジーの頭を穏やかに撫でてから、額に一度キスを落とす。
そこで何処からか吹き込んだ光をはらんだ弱々しい風が、ハリーが抱いたシーツをいっぱいに広げるのを見た。
シーツに抱かれて舞いあがり、朝焼けが始まろうとする風のなかを抜けて、もっとも高く飛ぶことのできる記憶の鳥でさえ追っていけないはるかな高みへと、彼は永遠に姿を消した。
微睡み、ぼやける視界の中でエグジーはくすりと微笑む。
そして、いつものように小さく「Yes,harry」と返事をするのだった。


『百年の孤独』


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